31. I chew you
「はあっ、はあっ、はあっ」
「すっ、すっ、はっ、すっ、はっ、すっ、はっ」
荒く獣のような息と、規則正しい呼吸。
抜きつ抜かれつで走って来た、一人と一匹のランナー。その耳朶を、ゴールの大瀑布の流れ落ちる音が、遂に叩いた。
「見えたわよ、りーくん!」
「このまま、一気に突っ走れェ!!」
「ここは我に任せて先に行くのだあああああああいたたたたたたたた」
「……ああ!」
蘭子に攻撃を加え続ける恵奈と希瑠、引き回され続ける吹羅の激励に応え、理里はさらにペースを上げる。息を止め、短距離走の走り方へと切り替える。
――しかし。
「ほう、来るか。ならば……
こちらも、遊びはそろそろ終わりにしよう」
瞬間。蘭子の姿が、理里の隣から掻き消えた。
「えっ……!?」
希瑠の前蹴りと恵奈の手刀が交錯する。その間にあるべき対象が、突然消滅したこと、そして目の前に迫った互いの姿に彼らは戸惑う。
そして、当の蘭子はというと――
(も、もうあんなところにっ!?)
理里は絶句した。
蘭子(と吹羅)は一足飛び、数十メートルほど先まで進んでしまっていた。ここまで、必死の思いで追いついた、ダイダイ色の光を放つ金獅子の背中は、はるか遠くに離れてしまった。
「げっははは、悪く思うな! 少し手間取ったが、所詮わたしの勝利は確定事項よォ! 楽しい勝負をありがとうな、少年!」
理里の位置からゴールまでは、約百メートル。蘭子は瞬きもしないうちに、その半分まで到達してしまった。
黄金の背中が遠のいていく。その光景を……理里は、信じられずにいた。
(そんな……このまま、俺は)
敗けて、しまうのか。家族がここまで頑張ってくれたにもかかわらず。綺羅に意志を託されたにもかかわらず。そして――珠飛亜が今、我が家で帰りを待っている、というのに。
ちら、と左腕の赤いリボンが目に入る。
駆ける両足の速度は衰えない。だが、理里の心には、ゆっくりと暗雲が立ち込めつつあった。
脳裏に、あってはならない妄想がよぎる。自分より先にゴールテープを切る蘭子の姿。崩れ落ちる自分。そして、歓喜のままに蘭子は理里たちを鉤爪で殺戮し、並ぶ怪原家の皆の――恵奈の、希瑠の、吹羅の、綺羅の……珠飛亜の、首。
そして、それを眺める自分もまた、すでに胴体はなく――
「っああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
凄惨なイメージをぬぐうように、悲痛な叫びを理里は上げる。いっそう走るペースも上がる。
だが、蘭子に追い付くには至らない。至れない。手塩と初めて戦ったときのように、己の中の何かが覚醒するような……そんなことは起きない。
見る間に蘭子の姿は遠のいていく。ああ、このままあの想像が、現実となってしまうか。理里は、理里たちは、なすすべもなくあの獣に蹂躙されてしまうのだろうか。
「さあ、見届けるがいいッ! 私の勝利の瞬間を――!」
蘭子と、手塩が握るゴールテープとの距離は、もう十メートルも無い。勝利の確信に、蘭子が笑みを浮かべ――
「理里ォ! あきらめんじゃねェ――――ッ!!!!!!」
瞬間。すでに理里の後方に置き去りになっていたはずの希瑠が、跳躍した。
その、宙を舞う希瑠の身体から、銀の焔が放たれる。
「"楽園の王"、『重力変向倍加』!!!!」
詠唱とともに。空中の希瑠の身体が方向を変え、一直線に蘭子に向かって飛んでいく。
重力によって加速した彼は、ぐんぐんと蘭子に近づいていく。……だが、その予測される軌道は、蘭子を捕えるにはわずかに至らない。
蘭子は嘲笑する。
「ハッ! 何をするかと思えば、わずかに及ばなかったな駄犬! やはり、獅子に犬っころが追い付く道理はあるまいよ!」
勝ち誇る蘭子。しかし……いまだ飛行している希瑠は、冷たい声を彼女に向けた。
「何を勘違いしてんだ、獣女。俺が狙ったのは、てめえじゃねえよ」
そう、告げた魔犬の巨躯が向かう先は、蘭子の身体より数メートル後方。そこに「居た」のは――
「ぐわああああああああああ…………あ?」
吹羅だ。蘭子に引きずられながらも、その加速能力を確実に無効化している彼女に、希瑠は狙いを定めたのだ。
「ちょ、兄上えええええええ!? 一体、何をっ」
驚きおののく、吹羅の白い肌に。牙の並ぶ、希瑠の凶悪な顎が喰らい付いた。




