29. Golden Light, Emerald Light
吸、吐、吐、吸、吐、吸、吐。
吸、吸、吐、吸、吐、吸、吐。
現代に残る忍者の秘伝書『万千集海』によれば、忍者は長距離を走る際、この順に呼吸することでどこまでも息が続いたという。
この『二重息吹』とよばれる呼吸法を小学生の頃に図書館で見かけてから、理里はマラソン大会で負けなしだった。長距離走には自信がある。
ともかくも、綺羅と別れてから一心不乱に走ってきた理里の視界に、ようやく蘭子の背中が見えた。
心の中でガッツポーズのひとつもするつもりだったのだが。そのあまりの"混沌"ぶりに理里は呆れた。
「……なんじゃこりゃ」
オレンジ色の光に包まれ、たてがみと尾を生やし、ごわごわと金色の体毛に覆われた手足で四つん這いで走る蘭子。身体には白い蛇が何匹も巻き付き、その起点である吹羅は引きずられて悲鳴をあげている。
そんな蘭子を両側から攻撃するのは、怪物態の恵奈と希瑠だ。
恵奈はグラマラスな上半身をぶるんぶるんと揺らし、こぶし大の宝石に刃を取り付けた武器で的確に蘭子の身体を切り裂く。蘭子はそれをものともせず、かわし、受けつつ走りつづける。
希瑠は人の身体に犬耳と尾を生やし、ひじから先とひざから先に純白の体毛を発達させている。目元には人の頭蓋骨のような黒い仮面を付けている。
いわゆる「半妖態」だ。完全に身体を怪物の姿に変えるのでなく、半分人間で半分怪物の状態。希瑠は怪物態がかなり巨大なので、恵奈の邪魔にならないようにこの形態で戦っているのだろう。
二人の攻撃を器用にかわしながら蘭子は着実に進む。だが蘭子のスピードが削がれているのは明白だ。吹羅の能力で蘭子の異能を無効化し、度重なるダメージで体力も落ちている。さらに左右からの絶え間ない攻撃により、蘭子はまともに走れない。
獅子化の能力でどれほど身体能力が上がっているか分からないが、最初に比べればかなり蘭子を無力化できていることは確かだ。
理里がここまで追い付いて来れたということは――
(……勝ち目は、ある!)
自分を送り出した綺羅のために、今ここで戦っている家族のために、そして――ひとり家に残る、珠飛亜のために。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!!!!!」
理里は強く、地面を蹴った。
☆
「――来たわね!」
「ああ、来たな!」
後ろの咆哮を聞きつけ。恵奈と希瑠は目を合わせる。
『……来たかッ!』
蘭子の目も輝く。この刻、この瞬間をどれほど心待ちにしていたことか。
遠いあの日、前世で最後の「駆け比べ」。美の女神アフロディティの林檎にかかった呪いにより、蘭子はその後良人となる男に敗れた。
確かにあの男は速かった。だが、こちらが追い抜かそうとするたび、「探しに行かせる」呪いのかかった黄金の林檎を投げられ、それを拾っている間に男との差は大きく開いた。
三度、それが続いた。もう少しで追い越せるというときに行われる、男の越権行為。それがどれほど歯がゆかっただろうか。
だから今度こそは、どんな計略も打ち破って勝利すると決めたのだ。そうでなければわたしの魂は満足しない。わたしの、このアタランテの人生は、いつまでたっても終わらない!
「げっははははははははははははアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!」
牙の並ぶ口を耳まで吊り上げ、蘭子はさらにスピードを上げた。
☆
柚葉大滝までの舗装された道程……通称、滝道。その道を彩る二つの光があった。
橙と翠。二つの光は、追いつき、また追い越しを互いに繰り返しながら、一直線に大滝の方へと駆けて行く。
橙の光の正体は、ギリシャ神話最速の英雄・アタランテ。当世に転生し「田崎蘭子」と名を変えた彼女は、今、間断なく仕掛けられる猛犬と蛇女の攻撃を軽業のごとくかわしながら、まるで新体操のリボンのような複雑な軌道で、四つん這いで進んでゆく。
他方・翠の光は、最恐最悪の魔神テュフォーンとその妻・エキドナの寵児、怪原理里。全身をエメラルドのような鱗に包まれた蜥蜴男は、意志を託し倒れた妹のため。今なお隣で戦う家族のため。そして――最も大切な、姉のため。一直線、実直にひた走る。
「グオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアッ!!!!!!!!」
「げっはははははははははははははははあああああああ!!!!!!!!」
猛り咆える蜥蜴。悦楽に嗤う獅子。
大いなる"勝利の女神"の寵愛は――果たして、どちらに。




