28. Roar -咆哮-
「へぇー。あの化け物ども、ずいぶん善戦してるみたいじゃん」
柚葉山上空、三十メートルほどの高さの空中。春の風が吹きすさぶそこに、翼の生えた白馬が滞空していた。
その手綱を握る、黒く長い髪の青年が、後ろで眼下の様子を見下ろす、ピンク色のツインテールの少女をたしなめる。
「麗華さん、そんなに身を乗り出すと危ないですよ」
「えぇ~、だって見えないんだも~ん」
双眼鏡を右手に持ち、くねくねと体をくねらせる麗華とよばれた少女。その姿を横目で見た青年は、いささか顔を赤らめて前を向く。
「またあなたはそんなに肌を見せて……か、風邪をひきますよ」
麗華が身にまとっているのは、肩と腹をあらわにした緑のニットのトップスと、白のホットパンツ。「♂」のマークをかたどった純金のバックルがごてごてと輝いている。
しかし、その露出度は、きまじめな青年には目の毒だったようだ。
「あら、籠愛ちゃん照れてるぅ? うふふ」
ニヤ、と意地の悪い笑みを浮かべた麗華が、手綱を握る青年の腰に抱きつく。
「……っ!」
「うふ……『英雄色を好む』って言うけれど、うちのオトコどもはみ~んな硬派だよねぇ。イヤンなっちゃう。よしっ♡」
かぷ、と濡れた八重歯が籠愛の首筋を甘噛みする。
「なっ、なああ!?」
籠愛が思わず手綱を放す。
と、同時、天馬が息を荒げた。
「のわあっ!? ちょっと、ちゃんと制御しときなさいよっ!」
「誰のせいだとぉぉぉぉ!? あっ」
ふわ。宙を舞う感覚が二人を包む。
この後、かろうじて手綱を掴んだ彼らは数分間宙吊りの目に遭う。
四月二十一日、二人もの英雄が戦わずして欠けていた可能性があったとは、怪原家の面々はついぞ知ることがなかった。
☆
ところ変わって柚葉滝道。大滝までのコースも後半にさしかかった杉が立ち並ぶ山の中。
白く巨大な三つ首の犬が、黒いアスファルトの路面に蘭子を踏み敷いていた。
『俺の大事な家族に好き勝手してくれやがってよ。覚悟はできてんだろうなあ、アァ?』
「がっ……あ」
蘭子を前足で押さえつけた、黒鎧を纏う白犬……希瑠は、さらに蘭子に体重をかける。
「げぼっ」
血を吐く蘭子に、希瑠は頭蓋の兜からのぞく紅い眼を光らせた。
『痛いか? だが母さんはもっと痛かったんだ。
能力なんざ使うまでもねえ、このまま一気に潰してやるよ』
ぐぐ、と前傾する巨犬。それに伴って、みしみしと地面がきしみ、細かいひび割れが入ってゆく。
希瑠もまた瞋っていた。弟と自分をさんざんに愚弄し、残酷な勝負を仕掛けたこの女に対し。
だが、最も希瑠の堪忍袋の緒を大きく削ったのは――蘭子のすぐそばに倒れている、母の傷ついた姿だった。
『俺は父さんに頼まれたんだよ。父さんが居ない間、母さんとみんなを守ってくれってな。そう何度もそれを破るわけにはいかねえんだよ!』
それは自分への怒りであったかもしれない。母を傷つけた蘭子への怒りであると同時に、母を守れなかった自分への怒り。
「ぐっ……ハハァ……。絶体絶命、だなぁ……」
蘭子が、笑っている。この期に及んでも笑っている。
『何がおかしい!』
希瑠が問うと、蘭子は愉しそうな顔で目を見開いた。
「おかしくなどないさ。『楽しい』んだ。いまだかつて、ここまでわたしを追い詰めた相手は居なかった……!」
頭から血を流し。真っ赤に染まった顔で、なお。
蘭子は笑っていた。まるで、とてつもなく欲しかったおもちゃをもらった子どものように、笑っていた。
「ようやく全力で戦わなければならないところまで追い詰められた…………! これ以上の歓喜が! 幸福が! このわたしに存在するだろうか!」
そう言うと蘭子は、空いた左手で、自身を踏みしめる巨犬の足を掴む。
『何ィ……!?』
蘭子の行動に希瑠は犬の貌を歪ませる。彼女の身体を押さえつける前足をさらに強める。
『てめえはもう終わりだ、これ以上の出番なんてねえ!』
象よりも巨大な彼の六トンにもおよぶ体重を、ついに希瑠は全て前足に掛けた。
「ぐっ……お……」
流石の蘭子も苦しいとみえる。当然だ、通常の生物はおろか、鋼の鎧でも容易に踏み潰すその「重み」。
――だが。
『何……だと…………?』
「ぐっ……おおおおっっっ!!!!」
蘭子は潰れない。いや、それどころか希瑠の足を押し戻している。身体は傷だらけで、左手一本しか動かせない状態で希瑠の重量にあらがっている。
その肉体が橙色に輝き始めたのを、希瑠は確かに見た。
「私はッ、負けないッ! たとえどのような策を弄されようとも! どのような強者が立ちはだかろうと! たとえ……
どんな姿になってでもッッ!!!!」
それは、あってはならない光景だった。人が、まぎれもない人間が、人ならざるものへと変生してゆく。生まれ変わってゆく。
スマートで筋肉隆々、血管の浮かぶ蘭子の腕から、徐々に金色の毛が伸び始める。蘭子の両肘、両膝から先を金毛が覆いつくす。
細長い指、よく手入れされた爪が鋭くとがる。鼻が猫のように丸くなる。黄金に染まる虹彩、歯はぎらぎらと発達し、だんだんと"牙"に変わっていく。
はじけ飛ぶ陸上のユニフォーム。一糸まとわぬ姿となった、その乳房の先と股間が、わずかに体毛で覆われる。かろうじて中身が透けない程度。
最後に、腰まで伸ばされた黒髪の前髪あたりから、新たにふさふさと金の毛が生え、周りの髪もまた同じ色に変わる。逆立つそれはまるで……たてがみのようだと希瑠が感じたとき。
「オォラア!!」
『ぐあっ!?』
希瑠の前半身がはね上がる。間髪入れず飛び上がった"獣人"は、無防備になった三つ首の魔犬の脳天に一撃。
『がっ……!』
拳一発で吹っ飛ぶ、全長十五メートルの体躯。それは地面を転がるうちに縮んでゆき、にわかに白く発光したかと思うと、人間態に戻ってしまった。
「ぐっ、う…………!」
どうにか意識を保った希瑠は倒れたまま、自らを転がしたモノを見上げた。
言うなれば「獅子人間」。山の風に金のたてがみをなびかせ、凛々しくたたずむ百獣の王――否、女王。
「驚いたか? だが、貴様も知らなかったわけではあるまい。私が、どんな最期を迎えたかを」
「ぅ…………」
希瑠は、言葉を返す気力すらない。だが、頭では理解していた。
女狩人・アタランテの末路。それは、神帝ゼウスの聖域で夫と姦通したことによって天罰を受け、夫婦ともにライオンに変えられてしまったというもの。一説ではその後、夫とともに太陽神アポロンの戦車を引くことになったというが……。
「まさか……そのときの姿を利用できるのか」
「ご明察。異能ではないからヒュドラの能力で無効化されることもない。これは正直なところ恥ずべき姿なのだが……これを使うことは貴様らへの敬意とも言えよう。私をここまで追い詰めた貴様らへのな」
恥ずべき姿とのたまう割に蘭子の顔は得意げだ。肉食獣の犬歯を見せてニヤリと嗤う。
「嗚呼、嗚呼、非常に残念だよ。この姿を開帳したということは、私の勝利が確定してしまったということ……楽しかった君たちとの闘いも終わりを迎えてしまうわけだ。非常に、非常に、残念だなぁ」
「……このっ!」
思い出したような吹羅の攻撃を軽々とかわし、蘭子は希瑠に背を向ける。
「待てよ……まだ俺は息があるぞ。とどめを刺さないのか」
「何の意味がある? これはあくまで『かけっこ』だ。私と理里くんとのな。であるなら、そろそろ主題に集中した方がいいだろう?」
下卑た笑みを残した蘭子は、吹羅を引きずって走り去って行く。
☆
「クソッ、このまま引き下がれっかよ」
ふらつく頭で希瑠は立ち上がる。
このままでは蘭子の勝利が現実のものとなってしまう。そうなれば、満身創痍の怪原家はひとたまりもない。最初の条件どおり、抵抗する間もなく全員が命を奪われてしまうことだろう。不死身の吹羅がどうなるのかは知らないが。
ともかく、「かけっこ」の敗北だけは避けなくてはならない。そのために希瑠が、何としても蘭子を止めなくてはならない。
大きく息を吸い、希瑠は再び怪物態になろうとして――
「待って」
「のわあ!?」
いきなりズボンの右裾を掴まれた希瑠は、その力の強さにつんのめって転んだ。
「っ痛ぇ、誰だ……って、」
苛立ちとともに振り返った希瑠は、明らかになった犯人に一驚した。
「か、母さん!?」
恵奈だった。蘭子に受けた気絶から目覚め、重体ながらも、どうにか意識を保っている。
血まみれの顔で、恵奈は請い願うような表情を浮かべる。
「お願い……わたしも戦わせて。翼は折られてしまったけど、まだ動ける」
「馬鹿言うな! そんなボロボロの身体で戦ったら、今度こそ終わりだぞ! 悪いことは言わないから、母さんはここで休んでた方が……」
希瑠がなだめるのも聞かず、恵奈は首を振る。
「お願いよ。アタランテはなぜだか放っておけない……親の愛を知らずに育ったあの子を、見過ごせないの」
「……そう言われてもなぁ」
恵奈の言うことは希瑠にはさっぱり分からなかった。だが、母のいつも真っすぐな瞳が、その意志の強さを物語っていた。
希瑠はしばらく黙考し。やがて、やれやれと恵奈に手を差し伸べた。
「……分かったよ。ほら、立てるか?」
そのてのひらを恵奈は確と掴み、蛇の尾でゆっくりと身を起こす。
「ありがとう」
ニコッ、と笑った恵奈の顔は傷だらけながら、どんな女優より美しく見えた。
「……お、おう」
母親に何を照れているのだと自省し、希瑠は自分の頬をぴちぴち叩いて蘭子の去った方を向く。
「最終決戦だ! 終わり良ければ全て良し、ってなぁ!」
啖呵を切って、希瑠は恵奈を「お姫様だっこ」の形に抱え上げる。
「け、希瑠くん!? 急に何をっ」
戸惑う恵奈のほおがにわかに赤らむ。希瑠はキョトンとした。
「母さんだけで追いつくのはその消耗じゃ無理だろ? 俺の能力で『加速』して一緒に行った方が速いじゃねえか。論理的に」
「……そんなだから、あなたは万年独身なのよ」
「何の話だ?」
首をかしげる希瑠に、恵奈はほとほと溜め息をついた。希瑠は怪訝な顔をしていたが、すぐに気を取り直す。
「"楽園の王"、『摩擦無効』!」
希瑠の肉体からほとばしる銀の炎が、彼を中心に円を描く。
ぐぐ、と希瑠は前傾し――恵奈を抱えたまま、スピードスケーターのように、地面を滑り出した。
怪原家のほぼ全員を巻き込んだ、蘭子と理里との「かけっこ」。その閉幕の刻は、近い。
☆解説☆
・獅子化
前世において、ゼウスの聖域で夫と交わった天罰により、ライオンに変えられてしまったアタランテ。その後彼女は、同じく罰を受けた夫とともに、太陽神アポロンの戦車を牽いていたが……テュフォーン襲来の折に彼らは罰を解かれ、人間の姿に戻された。
しかしながらアタランテは、獅子の力を己の中に残してほしいと懇願。結果、前世では得られなかった人ならざる領域の力を得た。
この能力は、「魂の力によって世界に影響を及ぼす」異能力とは違い、自身の中に眠る獅子としての姿を呼び起こすものである。そのため、異能力ではなく、吹羅の能力で無効化することができない。
使用した場合、肉体が変化するほか、身体能力が通常時の4倍に引き上がる。無論、異能力による最高速度も引き上げられ、マッハ8となる。
また、心なしか動きが動物っぽくなる……ような気もする。
☆異能力解説
・楽園の王・『摩擦無効』
効果範囲内の摩擦をゼロにする。
希瑠はこれを使用し、スタート地点から蘭子に追いついてきた。




