1. 姉に気をつけてね
《西暦2018年 4月7日 AM7:00》
桜舞う季節の朝、怪原理里を襲ったのは二種類の熱気であった。
ひとつは、まとわりつくような春の陽気。もうひとつは物理的に彼の身体に絡んだ年中無休の暑気。
誰あろう、姉である。
「珠飛亜。起きてるんだろ」
「んん~……あと五年……」
どこの神竜の巫女だお前は、と脳内でツッコみ、理里は自分に抱きついた姉をたしなめる。
「冗談言ってる場合かよ。さっさと離してくれ……蒸し焼きになりそうだ」
「むにゃあ……すぴー」
反応が無い。理里の首に回された細く長い腕、そして胴を締め上げるスレンダーな太股は、全く剥がれる様子を見せない。
(……やむを得ないか)
そう考えた理里は、少し声の質を柔らかくし、珠飛亜の耳元に囁きかけた。
「この世で最も美しい、私の愛するお姉様? そろそろお目覚めの時間です。早く起きないと……このお耳、食べてしまいますよ?」
「はぁん♡……も、もう1回」
「だめだ」
「ちぇっ、りーくんのいじわる」
不満げにつぶやいて、珠飛亜はようやく理里を解き放った。ベッドから起き上がると、ねぐせのついたボブカットがふわりと揺れる。
(こいつ、やっぱり起きてやがったな)
理里は察する。今の声色は明らかに寝起きのものではない。この姉貴、とうの昔に目覚めていたのに起こされるのを待っていたわけだ。
(まあ、これもいつものことか……)
顔を洗いに部屋を出て行く姉。それを、ぼうっとした頭で理里は見送る。
しかし、そう分かっていても彼は辟易していた。二つ年上のこの姉のブラコン(ブラザーコンプレックスの略)度合いは、年々常軌を逸している。毎日一緒に寝させられるのはもちろん、「たまに『お姉ちゃん』と呼ばれた時萌えるから」という理由で呼び捨てを強要されてもいる。
おまけに、さっきのセリフを聞いた時のあの表情……あれは完全に女の顔だった。
「…………っ‼」
ぞぞぞ、と背筋が寒くなり。姉の寝ていたあたりのシーツのしわを、必死に手の平で消す理里だった。
☆
「りーくん、はやくはやくー!」
真っ白な三階建ての洋風住宅。玄関を出て車庫の脇に停められたママチャリに理里が目をやると、当然のように姉の珠飛亜が荷台に座っていた。今年で十八になるはずの彼女は、無邪気な少女のように弟を急かしてくる。
(二人乗りが違法だってのをわからせんのはもう諦めてたんだが)
今日ばかりは理里も引き下がるわけにいかない。
「あのさ。俺、高校の入学式の日に逮捕されっとかマジ勘弁なんだけど」
本日四月七日は、県立柚葉高校の入学式である。辛い受験勉強を乗り越えて掴みとった自分史に残るハレの日を、理里は人生初の逮捕歴で台無しにしたくなかった。
しかし、理里の困った顔を気にせず珠飛亜は笑う。
「わたしはりーくんと一緒ならどこまでもついていくよ? 交番だって刑務所だって地獄だって!! きゅん☆」
「いや話逸れてるぞ……」
ぱちっ♡、とウインクを決める珠飛亜に理里は苦い顔をする。
が、そんな彼の葛藤が伝わるはずも無く。
「あっ! おめめ逸らしてるぅ~! ってことはりーくんもそうなんだ! どこまでもお姉ちゃんについてきてくれるんだぁ~……♡ やだぁ、お姉ちゃん愛されてるぅ~♪」
「……はぁ」
あさっての方向へ考えを飛ばす珠飛亜。あれか、お前の頭の中はお花畑なのか。
「とりあえず、今日は二人乗りはナシにしてくれ。ってか在校生の登校って新入生の集合より後だろ? 後から車で送ってもらった方が楽だって」
「やだ、わたしはりーくんと一緒がいいの!」
(子供かこいつ)
餓鬼か。餓鬼なのかこいつは。JKの皮を被った幼稚園児、いやまだ乳離れもできてないのではないか。
面長な顔立ち、高く通った鼻筋、ぱっちりとまつ毛の長い目元、おでこを出したショートボブ。背もそれなりに高く割と大人っぽい外見のはずだが、精神の成長が全く追いついていない。いっそのこと小学校、保育所、いや胎児からやり直したほうがよいのでは。
理里の脳内に愚痴が巡り始めた時。
「おや、奇遇ですね。怪原先輩」
低い声。
振り返ると、理里と同じ紺のブレザーを着た男子学生が白い家の前に足を止めていた。
その一瞬で珠飛亜の顔が嫌悪に歪む。
「げえっ、手塩くん」
「どうしました? 内臓の飛び出たイモムシでも見たような顔をして」
青年は眉ひとつ動かさず、フレームレスの眼鏡を指で掛け直す。肩幅が広く背も高く、制服で分かりにいものの、相当に鍛え上げられた肉体を持っていることがわかる。
また、天然パーマの茶髪をうなじの辺りでまとめていた。
「あの……」
珠飛亜の知り合いのようだが、理里とは初対面。遠慮がちに見上げた理里に、青年は手を軽く挙げて返した。
「ああ、失礼。君が理里君ですね?
私は手塩 御雷。『ミカヅキ』ではなく『ミカズチ』です。県立柚葉高校にて生徒会長をしています。……昨年度の生徒会では、お姉様に誠にお世話になりました」
去年、珠飛亜は生徒会に所属していた。手塩はその時の彼女の後輩、理里から見ればひとつ上の先輩になるわけだ。
「それはどうも、姉がご迷惑をおかけしました」
「りーくんそれ前提かな!?」
「しかし……いけませんね」
ムキーとうなる珠飛亜を視線で黙らせた理里だが、目の前の手塩の眼光が鋭い。
「……えっと、何が?」
問うと、手塩は眉根を寄せて理里のママチャリを指差した。
「私の記憶するところによりますと……自転車の二人乗りは道路交通法第五五条及び五条等において禁止されており、違反すれば五万円以下の罰金等が科されるはずだったように思いますが?」
キラーン、と光るフレームレスの眼鏡。珠飛亜が苦虫を見たように顔を背ける。
「キミのそういうとこ、わたしホント好きになれない……」
「先輩が警察に捕まろうが私は知りませんが、弟さんにまで迷惑がかかるのは見過ごせない。今すぐ荷台を降りなさい」
「えぇ~、やだ」
「何と!?」
手塩が眼鏡を掛け直す。珠飛亜の幼稚な答えが彼の地雷を踏んだらしい。
「だいたい、いつまで姉弟でそんな恋愛ごっこをしているのです! 家族とは互いに敬うべき存在であり、決して恋愛対象ではないのですが!」
「いいじゃん好きなんだし!」
「倫理観の欠片もありませんね!? 破廉恥な」
「っなあ!? 弟が好きで何が悪いのよ!」
「あの、ヒートアップしてるところ悪いんですが」
「なに!」
「何ですか!」
手塩と珠飛亜が同時に振り向く。この二人本当は息が合っているのではといぶかりつつ、理里は残酷な事実を告げた。
「入学式まであと一〇分しかないんですけど」
理里が掲げた左腕。手首に巻かれたデジタル式腕時計の針は八時五〇分。絶望的な数字が示されていた。
「…………」
「…………あちゃー」
ひとときの沈黙。
そののち、手塩は脱兎の如きスピードで走り去って行く。
「あ、逃げるのぉ!? このイクジナシー! はあー」
ため息をつきながら、どこか嬉しそうに珠飛亜は走り去る手塩を見ていた。
「……ま、悪い人じゃなさそうだな」
理里が頭を掻きながら言うと、珠飛亜は苦笑する。
「ダイヤモンド並みの堅物なのが玉に瑕だけどね。半年も一緒にいろいろやってりゃなかよくなったよ。わたしの一番大切な場所かな、生徒会は」
信頼か、愛情か。慈愛のこもった瞳で、珠飛亜は一本道の先を見つめていた。
「そうか……いやそれはそれとして、アンタらのせいで遅刻しそうじゃんかどーしてくれんだ」
いい話で終わってくれればよかったのだが、状況はかなり切迫している。理里がジト目を姉に向けると、
「ふっふっふ。そういうときのためのおねえちゃんなのら!」
少し時代のズレた語尾で、珠飛亜は得意げに笑う。おもむろに背中に手を伸ばし、ブラウスの肩甲骨あたりのボタンを外すとーー
ばさり。
音を立て、珠飛亜の身長ほどもある翼が出現した。
舞い落ちる純白の羽根。美しい容姿も相まって、珠飛亜のその姿はさながら天使のようだ。
「さあさあ、お姉ちゃんエアラインへどうぞどうぞ♪」
「……」
口をヘの字にしながら理里は自転車を車庫に戻し、姉の腕の中へ。
「今日は安全運転で頼むぜ? ……今日こそはな」
「全速力でブッとばすよ!」
「ちょ待っ、人の話聞けやああああああぁぁ……………………!」
哀れな少年の悲鳴が、朝の柚葉市にこだまする。




