26. Beauty and the Beast, Lolita and the Reptile
蘭子は奔る。両腕と首に巻き付いた大蛇を気にも留めず、悲鳴を上げ続けるその大元を引き回しつつ。
生き埋めにされる前に比べれば、速度はかなり遅くなっている。しかし、それでも時速100kmはゆうに出ているだろう。
ゴールの大滝までは、残り約二km。果たしてそこに辿り着くまでに、理里が追い上げてくるか、否か。
蘭子が後ろを振り返ると。恵奈がゆっくりと翼をはためかせ、追跡してきている。
その両手に……何か、光るものが見える。
(何だ、なにか仕掛けてくる気か? ……そういえば奴の姿、どことなく違和感があるような)
はた目には変わったようすはない。しかし、どこかが、なにかが違う……蘭子の本能がそう呼びかけている。何か、危険が迫っていると。
そして、次の瞬間――恵奈の両腕が、消えた。
……いや、消えたわけではない。超人的動体視力を持つ蘭子には、何が起こったのか容易に視える。
投げたのだ。両のてのひらに握っていた何かを、こちらに向けて。
すぐに目で追う。判る、詳細まで見て取れる。金のひし形にふちどられた、手の平大サイズのアメジスト。
(ああ、解った)
違和感の正体が。恵奈が投げたものと同じ宝石が、じゃらじゃらと付いた恵奈の腰巻き、そのうち二か所に不自然な空白がある。
つまり……そこに付いていた二つを取り外して、投げた。
ただの宝石でないことは容易に予想がつく。閃光弾か、はたまた爆弾か?
と、予想した刻――宝飾の金色の縁から、すっ、と突き出す刃。
「ははぁ……」
どうやら蘭子の想定ほど、物騒なものではなかったらしい。要するに、アクセサリーを模したただの投げナイフだ。
「そんなものでこのわたしを止められるとでも? 貴様如きの投擲、避けることは造作も無い」
宝石の軌道を計算。狙われているのは恐らく……両脚。その予想着地点から外れるよう、蘭子は前に向き直り、少し左に移動して――
ぐさり。
「な――――」
右脛の裏側、ど真ん中に、何かが皮膚を突き破り、筋肉を切り飛ばして侵入してくる。
(馬鹿なッ! 刃は確かに躱した、はずっ)
そう思い、蘭子は己の右脚を見やり――
そして、驚愕する。
「……これは……!」
先ほど、蘭子の右側を通り過ぎて行った二つの宝石……その先端に付いていた刃だけが、一本、蘭子の右脚に突き刺さっている。
よく見ると……その刃のもとに、小さな孔が空いており。そこからキラリ、光る糸が伸びている。
(そうか……そういうギミックか)
孔に結ばれた糸は二本。一方は、すでに道路に転がっている宝石へ。もう一方は後方の恵奈へ。
つまり……投げられた宝石は、糸で恵奈の手元に繋がっている。それを引くことで、刃を外し、飛んでいく方向を変えられるというわけだ。
だが、しかし。
(この女……私が油断することを分かっていたとでもいうのか)
刃の方向を操れると言っても、刃を外すタイミングを誤れば、標的に命中させることはできない。しかし、この女の『タイミング』はあまりに完璧すぎる。何せ、刃が脛のど真ん中を貫いているのだから。
まるで、蘭子の動きを全て先読みしていたような――
「……ぐっ!?」
と、思い至った蘭子に。続けざまに二、三発、宝石の暗器が突き刺さる。
「ぐあっ……」
それを見た吹羅が勝ち誇るように、犬歯が発達した口の端を釣り上げる。
「フハハハ、見たか獣女! これこそ母上の異能のひとつ、"暗神の瞳"よ! 五秒先までの未来を予知し、視界に投影できる規格外の……」
「吹羅ちゃん! 敵に能力をバラさないでぇ!」
絶叫じみた声で、恵奈は飛行しつつも叱責する。いや、懇願にも近いだろうか……。
だが、聞こえてしまったものは仕方ない。
「み、未来予知、だとっ……ぐっ、ごほっ」
蘭子は走りながらも吐血する。脇腹に刺さった一本が効いた、のか。
(……恐るべき女だ)
その能力も、狡猾さにおいても。蘭子の心の底に、恐怖の種が芽生えた。
(いや、おののいている場合でもあるまい)
荒い息を吐き、身体を大蛇に拘束され、刃をいくつも突き立てられながらも、蘭子の心は明鏡止水。冷静に状況を分析する。
とはいえ、絶体絶命の状況には変わりない。不死身の蛇に縛られ、異能力が発動できない有様で、こちらの動きを全て先読みできる相手と戦わなくてはならない。
逃げることはおそらく不可能。今の蘭子の速さでは、すぐに追いつかれて終わりだ。向こうは飛び道具も使ってくることだし。
最早、万事休すというところか……。
(――いや)
宝石の刃を構えた恵奈が、最後の一撃を下そうと飛来する中。蘭子は、思いついた策にほくそ笑んだ。
☆
ヴァイオレットに光る宝石の暗器を両手に構えて、恵奈は蘭子めがけて突進する。
恵奈の視界には今、五秒後までの蘭子 (と吹羅)の動きが残像のように投影されている。だんだんと進みゆくその「像」をなぞるように、蘭子が前方へと走ってゆくのが視える。
この能力を持つゆえ、恵奈は上空から蘭子を監視する役を請け負っていた。希瑠が最初に失敗しなければそれで終わりだったが、彼の失敗以降は土砂のトラップで蘭子を確実に捕えるため、吹羅と「もう一人」に指示を出す役割を担っていた。
そして、その「山崩し」作戦さえも破られた今。ついに恵奈は、一兵卒として戦闘に参加している。
どれも捨て鉢の作戦だったわけではない。全て、確実に仕留めるつもりで考えたものだ。
だが、だがこの女は、その全てを力で打ち破ってきた。いくら巡らせた策謀も、この女の速さ、膂力の前には無力だった。
ならば、こちらもまた膂力で彼女を破るまで。この"怪物の母"直々に、この女に終焉をもたらすまで!
「終わりよ、アタランテ!」
すでに彼女の動きは視えている。今、黑き翼を大きくはばたかせて、一気に蘭子の背に距離を詰める。両手の宝石を逆手に持ち替え、高く振り上げて――
突如、見知った顔が視界に割り込んだ。
「……え?」
恵奈の思考が停止する。
自分によく似て切れ長で、まつげの長い目。高く通った鼻筋、ぷくっと愛らしい唇。そして――
左目に、黒い星形のペインティング。
その少女は、恵奈の視界に投影された像をなぞって、恵奈の前に突き出された。
「なっ……?」
彼女もまた、何が起きたのか理解できていない。ただ、気づいたら目の前で母親が刃物を振り上げている。そんな状況。
その、小さい頃の恵奈によく似た顔を――少女が恐怖に歪ませたとき。
恵奈は掲げた刃を、振り下ろすことができなくなった。
「ひ……卑劣なっ」
吹羅だ。蘭子は吹羅を盾にすることで、恵奈に攻撃を止めさせたのだ。
「甘いわアアアアアァ!」
鋭い蹴りが、吹羅の脇から飛び出し、恵奈の腹部をえぐる。
「がっ、あ……」
恵奈の身体が「く」の字に曲がる。いや、蛇である下半身を含めれば「ろ」だったり「る」であるかもしれない。
その隙を、蘭子は逃さない。
「ハアッ!」
腰が折れ曲がってあらわになった恵奈の背中。肩甲骨あたりから生える二枚の翼に、それぞれ一発ずつ、痛烈なかかと落とし。
「ああっ!」
一撃で、それぞれの翼の骨が砕け散る。
「あっ…………痛っ……」
恵奈はそのまま、アスファルトの地面に突っ伏した。あまりの痛みに、起き上がることすらできない。
さらに――投影された『五秒後の視界』が、恵奈の希望を奪う。
「…………」
「"視えた"な? ならばその世界へ、速やかに墜ちて行け。漆黒の、意識の深淵へとな」
黒いフィルムのように、アスファルトを上書きして恵奈の網膜に映し出された、『五秒後』に訪れる暗闇――それが一秒、二秒、三秒と、色濃さを増してゆく。
☆
「……凄いな、こりゃ……」
滝道に入り、山道をつらつらと(しかしながら、常人の数倍の速さで)駆け上がってきた理里は、ようやく蘭子が転倒した曲がり角に辿り着いた。
そこからの景色は、まさに「無残」としか表現しようがない。右手に見える山の、上半分ほどが消し飛んでおり、おそらくそこから流れ落ちて来たであろう土砂で川が寸断されている。
土砂は滝道にもその魔手を伸ばしており、普通の人間であればまず越えることができない高さの土塁が築かれていた。
その悲惨なありさまを見た理里の心に、少し、モヤモヤした思いがこみ上げる。
そもそも理里は、今回の作戦には少し不満がある。それは、この作戦のコンセプトが『遅い理里を速くして勝つ』のではなく、『遅い理里のために、速い蘭子を潰す』ものである点だ。
理里はできれば、自分の力で勝ちたかった。自分で練習して速さを身につけて、蘭子に勝ちたかった。それを、真っ向から理里の可能性を否定して、希瑠は走路妨害作戦に走った。いや、本当は彼が蘭子に復讐したかっただけなのだろうが、結果的にそういう構図になってしまった。
『家族全員に助けてもらって、ようやく勝てる』というこの状況。それは生まれ持った、『一人だけ雑魚』という劣等感を彼に思い出させた。
(……まあ、蘭子さんみたいに速くなれるわけもないしな)
理里は走りながら、自分に言い聞かせる。
彼女のスピードは音速を超えている。それはスタート地点でのあの惨状を見ればわかる。もともと弱いリザードマンである理里ごときには、一生かかっても追いつけないだろう。となれば相手の性能を下げるしかない。
つまるところ、今回のような作戦しか選択肢は無かった。所詮自分は、誰かの助けなしには生きていけない男なのだ。
理里は家族がいなければ、なにもできないのだ。そう、理里があきらめを決め込んだとき。
「……ん?」
理里は気付いた。
土塁のふもとに、小柄な人影が倒れている。
「――!」
それが誰か気付いたとき、彼は蜥蜴男の身体を人間態に戻し、すぐさま駆け寄った。
「綺羅! 大丈夫かっ、綺羅!」
「う……お兄、ちゃん……」
うつ伏せに倒れていた末の妹……綺羅。その華奢な身体を助け起こし、彼女の顔の青さに理里はおののいた。
「おまえ……まさか、能力を」
「うん……ちょっとだけならだいじょうぶかな、っておもったけど……まけちゃったみたい」
抱き寄せた綺羅の肌から時折、青い火の粉が散っている。それは、ほんの一瞬光ったかと思えば、小さな氷の粒となって消えていく。
血の気の無い頬をどうにか持ち上げて、綺羅は笑顔をつくる。だが、それが理里を安心させるわけはなかった。
「俺が……俺があんな勝負なんて受けたから……俺があの女の申し出に、軽々しく返事なんてしなければ! ごめん、本当にごめん、俺なんかのせいでっ」
「だいじょうぶだよ。きらは、じぶんでおさえられるから。だから、はやく行って」
「無理するな! 綺羅たちがここまでやってくれたんだ、もうあいつは沈黙したんだろう? すぐ母さんを呼んでくるから、お前は安静に――」
「……だめ」
きゅっ、と。小さな手が理里の体操服の襟を握る。
「……綺羅……?」
戸惑う理里。
綺羅は、はあ、はあと息をついて、再び口を開く。
「まだ……まだ、おわってないの。あのおねえさんは、つちのなかからゾンビみたいにふっかつしたの。ママと、ひゅらが、おいかけていったの」
「……なんだって」
綺羅の言葉に、理里は戦慄する。
「だからおにいちゃんは、はしって。きらもがんばるから。じぶんのなかのかいぶつにまけないように、がんばるから。おにいちゃんもがんばって」
「そんなこと言ったって……お前がこんななのに、置いて行けるわけないじゃないか! しかもお前は、俺のための作戦でこんなことに!」
「いいの。きらが、じぶんでやりたいっていったんだもん。だからきらは、いいの」
「いいわけあるかっ! せめてどこか安全な場所にっ……?」
綺羅を抱き上げようとする理里。その頬に、今にも溶けて消えてしまいそうな、ひどく冷たい手が触れた。
その右手で、綺羅は優しく理里のほおを撫でる。
「おにいちゃんは、きらにいつもやさしくしてくれるもん。たまにはきらもやさしくしたいんだ。
ほら……これ」
「……?」
綺羅は、震えるもう一方の手を握り、理里に差し出す。
彼女を抱きかかえていない、空いた左手を理里が持って行くと、ぎゅ、と綺羅はそこに何かを握らせた。
「――!」
それは、綺羅のお気に入りの、赤く細いリボンだった。短髪を好む彼女は、それを髪留めとしては使わず、襟元に結んだりチョーカー代わりに首に巻いていることが多かった。
「おまえ……これは」
「これを、きらだとおもって。きらもいっしょにはしるから。おうえん、してるから。
だからがんばって。おにい……ちゃん」
その言葉を最後に、綺羅は目を閉じた。
「っ…………」
脈拍はある。小さな鼓動が、まだ矮躯を生かしている。
彼女は戦いに赴いたのだ。己を飲み込まんと荒れ狂う、獣との戦いへと。
「……ああ。お兄ちゃんも、がんばるよ。だから……だから綺羅も、絶対に負けないでくれ……」
妹の身体を、優しく地面に下ろし、理里は立ち上がる。
(……さっきみたいに腐ってはいられない。 俺にも、できることがあるんだから……‼)
一歩、二歩。駆け出す度に、理里の身体が緑色の鱗で覆われていく。衣服が『魂』に取り込まれ、蜥蜴男の肉体へと変態を遂げてゆく。
快晴の空。陽光を反射する赤いリボンだけが、翠の腕に輝いた。




