Heretical white
「…………」
怪原恵奈は半人半蛇の姿をとどめたまま、先ほどまで斜面だった場所にとぐろを巻いていた。
清流がきらめき、モミジやクヌギなどさまざまな植物が生い茂っていた谷間の姿は、すでに其処に無い。木々はその根を張った大地もろとも小川に滑り落ち、川は倒木と土砂によって寸断されてしまった。
そして、大きく削り取られた山の中腹。蘭子が叩き付けられ、埋められた場所を、恵奈は怜悧な瞳で見下ろした。
「哀しいものね、自らの疾さに殺されるなんて。『おごれる者も久しからず』とはよく言ったものだわ」
己の策略で葬っておきながら、恵奈はうそぶく。
……と、そこに、ずるずると何かが這うような音。
「母上ー! 首尾はどうなりましたか!?」
次女の吹羅である。編み込みの解かれた長い黒髪を振り乱して、せかせかと恵奈の方へと這ってくる。
彼女の姿もまた既に、人のソレでは無い。恵奈と同じく下半身が蛇になっているが、しかしその鱗の色は母と対照的な純白だ。さらには、腰の辺りから六匹の大蛇がのたくり、頭にも角のように小さな蛇が二匹顔を出している。
「上出来よ。無事、生き埋めにできたわ」
「それは重畳! これで我が宿敵の勝利も決まったということですな、はっはっは!」
腰に両手を当てて、吹羅は高らかに笑う。
「……そのまわりくどい話し方、何とかならないのかしら……」
「ほよ? 何かおかしなところなどございましたか?」
(なぜなの……普通の言葉でも難しく聞こえる気がする……)
小首をかしげる吹羅に恵奈は頭を抱える。
「ほら、貴方も女の子なんだから、もう少し女の子らしい振る舞いをしてもいいんじゃない?」
「あーっ! 母上、この現世においてそのような発言はご法度なのですよ! 男らしさとか女らしさとか、そういうのを押し付けるのは"せくはら"なのですよー!」
「そ、そうなの……?」
ふふーん、と吹羅が得意げに中学生にしては大きすぎる胸を張る。
あまりメディアに触れることがない恵奈は社会の情勢に疎い。もっとも「人間社会」に限った話だが。
「そうです! あまり表立ってそういうことを口にすると、社会的に抹殺されてしまうのです! おお、表現の自由などあったものではない……なんと恐ろしい世紀末!」
「そ、そんなに言論統制が敷かれている感じはしないけれど? あ、その辺りはアタランテが埋まっているところよ」
「にゃんとぉ!?」
驚いた吹羅が、蛇の身体をエビのように反って跳び退く。
「母上、もっと早く教えてくださいよぉ! いきなり復活したらどうするんですかぁ!」
「だって、あなたがまくしたてるから言うタイミングが無くて……」
「いやいやいやいや! 我の命にかかわることじゃないですか! 真っ先に教えてくださいよ、あー怖っ」
恵奈の横で尾を体育座りのように抱え込んで、吹羅はがくがくと震える。その様を見て恵奈は溜め息をついた。
「命にかかわるって、あなた死なないでしょ」
「はっ! そうでした! 我こそは誰人にも滅されぬ永劫不滅の蛇竜……その名もヒュドラ! またの名を、"時の裁定者"! わーっはっはっはっは!」
「毎度毎度よく違う二つ名を考えられるわね……感心しちゃうわ」
低い声で高笑いをする吹羅に、恵奈は嘆息しながらも続ける。
「まあ、さすがにアタランテが復活することは無いと思うわよ。すでに十五分ほど経過したわ……山の三分の一近い土砂を被せたのだから、仮に死んでいなくても当分は動けない。これも吹羅ちゃんのおかげね」
座り込む吹羅の頭をぽんぽん、と恵奈は撫でる。
蘭子を土の下にうずめたのは、恵奈が「プランB」としていた作戦である。スタート地点で希瑠がしくじった場合の保険として立てておいたものだ。恵奈が蘭子の動きを監視し、ポイントにたどり着き蘭子が転倒したところで、吹羅に合図を送る。その指笛を受け、吹羅は先日の豪雨によって緩んだ地盤の要を爆薬で破壊し、土砂崩れを引き起こす……というのが作戦の概要だ。
無論、予備プランは他にいくつも有る。一つ目は失敗に終わったものの、二つ目が功を奏したので一安心、というところだ。
「ぐふふ、そんなに褒められると照れちゃいますぅ……」
吹羅が満足そうに目尻を落とした――その時。
聞こえるはずのない声が、恵奈の耳に入る。
『う…………随分と勝った気でいるじゃあないかァ、オイィ…………!』
「!?」
「っ!? 誰だ!」
聞き覚えのないその声に、吹羅は辺りを見回す。だが恵奈には分かる。
傷ついていながらもなお強さを失わない、ハスキーな女性の声。スタート地点で初めて耳にし、そしてつい先ほどまで、己の膝元で聞いていたはずの声。そう、それは紛れもなく――
「田崎蘭子……!? いったい、どこからっ」
「……!? アタランテだとっ!?」
声の正体を知った吹羅は動揺する。
「そんなバカな! 先ほどわたしが埋めたはずではっ」
「ええ……確かに彼女はそこに埋まったはず。そのはずなのに!」
恵奈と吹羅、その両者の視線が、必然的にその位置に吸い寄せられる。
『この私が……この、わたしが…………! これしきのことで、くたばると思ったかァ!!!!!!』
河川を上書きした、固まりつつある土の大地に、小さな亀裂が走る。それはだんだんと広がり、ひびを超えて溝、土が砂に還り――
拳。
強く握られた左手が、地面を割って突きいでた。
「ひいっ!?」
吹羅が思わず後ずさる。恵奈は苦々しく顔をしかめ、その拳を睨む。
『ただ道でズッこけて、土砂の下敷きになったくらいでこのわたしが斃れるだと……? 笑止、笑止、笑止千万ッッッ!
我はあのアタランテだぞッ! 月女神の信奉者、カリュドーンの猪狩りの魁にして、アルゴナウタイの冒険者の一角! そして何より最速の英雄! 凡百のノロマ共なんぞに、負ける道理は無いわァッッッ!!!!!!!』
土を押し退けて、泥まみれの身体が、ゆっくりと生えてくる。そう形容できるほど、吹羅たちからはその様は異様に見えた。
長身が、長い手足が、土砂を破ってにょきにょきと。さながら地中から芽吹く双葉のように。
ばさり、とのけ反って、長い黒髪が広がる。髪留めはいつの間にか解けていたらしい。
「ふうゥ~ッ………………」
しばらく反った身体で天を仰いで……ふいに、ぐいん、と身体を戻す。髪が柳のように大地にしなだれかかる。
俯いた蘭子、しかし視線は恵奈と吹羅を捉えて離さない。その眼を見た吹羅は、再び、「ひっ」と声を上げて身をすくませた。
獣。それは獣の眼だった。
飢えた獣。どうやって獲物の首にかぶりつき、どう血を啜ってやろうということしか考えていない獣。その在り方を表すように、カッと見開いた瞳は絶対零度。それはまるで深淵。こちらは見つめられている側のはずだというのに、否応なく視線が吸い寄せられる底無しの虚。
「吹羅ちゃん! 早くそれを縛り上げなさい!」
恵奈の一喝に、吹羅はハッ、と正気を取り戻す。
「は、はいっ!」
腰から生える白い蛇たちの首をヒュッ、と伸ばし、蘭子の両腕・首・腹部を捉える。太腿から下はまだ抜けきっていないため、今はここまでだ。
が、動きを封じられたにもかかわらず、蘭子は不敵に嗤う。そもそも、避けようとする動きすら見せなかった。
「ふふ……蛇の怪物か。その頭の数を見るに、ヘラクレスの第二の難行にて斃れた蛇だな。不死でありながら殺されるとは、滑稽の極みよ」
「ぜ、前世の話など覚えておらぬ! 知識として知ってはいるがっ」
声色を強くする吹羅だが、いまだ怯えているのが丸分かりである。蘭子はくす、と笑って続ける。
「思えば数奇な話よなぁ。そこここの英雄どもに倒されて全滅した、魔神と女怪の餓鬼どもが、生まれ変わって前世の親の元に集い、我々と戦いを繰り広げているこの事実。無論、全員が再集結したわけではないが……まるで何者かが、神話の再演を行おうとしているようにも思えないか?」
含み笑いを浮かべる蘭子に、恵奈はぴしゃりと断言する。
「妄言ね。そんな、個々人の運命にまで干渉できるような存在はいない。少なくとも、この世界には」
「ふふ、どうだかな……確かに貴様は長寿だろうが。四千年かそこらで解き明かせるほど、この現世は易しくないぞ?」
「……何が言いたいの」
恵奈が眉根を寄せると、蘭子はフッ、と鼻で笑う。
「さてね。我々以外にも、貴様らの安寧を脅かすモノは在るかもしれない……そういう、可能性の話さ。
……ところで、こんなものでわたしの動きを止められると、本当に思っているのか……?」
おのれを縛る白蛇に目をやって、蘭子は視線を吹羅に向ける。
「ひいい!?」
吹羅が動揺し、蘭子を縛る蛇の拘束が、わずかに弱まる。その瞬間に、蘭子が恐るべき脚力で大地を爆散させ――
ふにゃ。
「……………………む?」
と、蘭子が想定したようなことは起こらなかった。
……というか、何も起こらなかった。
神速を誇る異能"疾風が如く"を発動しようとした途端、蘭子の身体から嘘のように力が抜ける。
「……も、もう一度」
再び異能の発動を試みる。しかし、同じようにふにゃ、と身体の力が抜けるのみ。
「? ……?」
不可解な現象にさしもの蘭子も困惑していると、ハッ、と吹羅が顔を上げる。
「そ、そうだった……! 我、何も怖がらないでもよかったではないか!
我が異能"穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆す"は『触れた異能力を無効化する能力』! こうして我が縛っている限り、こやつは異能を発動できない!」
「……………………………………………………は?」
耳を疑う蘭子を余所に、恵奈が嘆息する。
「吹羅ちゃん、あなた自分の能力も忘れていたの? 私はそれを計算に入れて、貴女に拘束を頼んだのだけど」
「は――そ、そんなこと知っていましたとも!? 見たかアタランテ! まさに我の計画通りだ、わーっはっはっは!!!!!!!」
苦し紛れの高笑いに空気が弛緩し、蘭子は状況把握の追い付かない頭を抱える。
「どういうことだ……『異能を無効化する異能』、だと? そんなものが存在していいのか…………? いや、それ以前にヒュドラの能力は不死ではなかったのか?」
「ええ……それもまた、この子の能力の一側面。どうもこの子の異能は、多面的に定義できる能力らしくてね……詳しいことはこの子自身にも分からないらしいけれど。……まあ、とにかく。
これで『詰み』よ田崎蘭子! 貴女の神速を誇る異能は封じられた。その命……このエキドナが、直々に貰い受けるわ!」
びゅう、と恵奈の黒い尾がしなる。今度は脅しではない。俊速の彼女の尾は、必ずや蘭子の身体をしたたかに打ちつけ、その生命を滅却せしめる。
しかし、しかし、しかしながら。
「……ハハァ」
蘭子の口元には、依然変わらぬ笑みが浮かんでいる。
「珍妙な異能力だ……いくばくかは面食らったが。それでも私の勝利は揺るがんよ。
異能を封じられたならば、異能を使わなければいいだけのことだ」
「な……?」
蘭子の言葉に恵奈は戸惑う。
「何を言うの! いくら英雄とはいえ、生身の人間がわたしたちに敵うとでも!?」
「『生身』……『生身』ねェ。
だが、英雄というのは……『生身』で強くあったからそう呼ばれるのではないかな?」
再び、蘭子の身体に力が籠もる。露出度の高いユニフォームで露わになった腹筋が引き締められ、広背筋がぐぐ、と縮み、腕を曲げてもいないのに上腕二頭筋がコブのように発達する。
「――吹羅ちゃん、拘束を!」
「ええ、すでに強めています! しかし、この力……!」
ずるずる、と吹羅は少しずつ、蘭子の方へと引き寄せられている。蛇腹が少しずつ砂を押してゆく。
「……チッ!」
やむを得ず恵奈が、ついにその尾の先を蘭子へ飛ばす――
しかし。
「!?」
爆発音にも近い、土砂が弾き飛ばされる音。その音と同時に、蘭子の姿が、消えた。
否、蘭子だけではない。彼女を拘束していた吹羅までもが、その場から消え去っている。
「ぎゃあああああああああああああああ!!!!!」
後方から聞こえた悲鳴にハッ、として恵奈が振り返る。その遥か彼方、滝道の上に激走する蘭子の背。
それも、自らを縛っていた吹羅を引きずったまま走っている。お陰で、アスファルトの道路に身体を擦られる吹羅はたまったものではない。あまりの痛みに吹羅は悲鳴を上げたのだ。
「ちょ、我をひきずるなあああ!!!! そのスピードで走られたらさすがの我もギブ! ギブギブっ!」
「ほう……ならば解き放ってみるか? このわたしを。その瞬間、君の兄上の敗北が決まるがな」
「……! そ、それは困る! 決して放さぬぞおおおおおおおあ痛い痛い痛い――ッ!」
「――っ、吹羅ちゃん! その子を絶対放さないで、今私も追いつくっ!」
すぐさま恵奈はその黒翼を広げ、蘭子の後を追う。
一度、二度、三度。羽ばたくたびに、幾間も距離を詰める。
その中で、恵奈はほとほと呆れていた。
(全く……何てデタラメな女なの? 異能無しで、手負いでさえ、まだここまで膂力があるなんて。
……けれど)
道路すれすれの超低空を飛行しながら恵奈はほくそ笑む。
(ここまでは想定範囲内。これ以上はどれだけ足掻こうと逃れることは叶わない……私の、この眼からは)
追いすがる恵奈の、睫毛が長い切れ長の目。その黄色い瞳が、あたかも獲物を捕らえた蛇のごとくギラリと光る。
☆異能力解説☆
・穢れた世に生まれ堕ちた嬰児の奏でる旋律は、仄暗い概念と確かな唯物論を覆す
保有者:怪原吹羅
効果範囲:自身、及び自身が触れているもの
不死の能力。さらに、触れた異能を無効化することができる。その2つの性質を両立させている、『ひとつの能力』。
相手の身体に触れることで異能力の発動を無効化するほか、自身に向けられる異能力の攻撃は一切彼女には通用しない。たとえば珠飛亜の能力で、水を操って攻撃した場合、その水は吹羅の身体に触れた時点で珠飛亜のコントロールを失い、重力に従ってその場に落ちる。理里の邪眼の光を浴びせても、「体が石になる」という効果が無効化され、何の影響も受けない。希瑠の結界については、吹羅が結界に触れた時点で結界が霧散する。
また不死については、肉体が再生不能なほど細切れにされたとしても死なないというが……その詳細は今後明らかになることだろう。
なぜ1つの能力が2つの性質を持つのか? 肉体を失っても死なないとはどういうことなのか? なぜこんなに能力名が長いのか?
いまだ謎多き異能である。