24. Sleeping Beast
「くっ…………あ…………」
木々を吹き飛ばして向こう山に激突した蘭子は、身体が上下逆さまの状態で斜面にめり込んでいた。
マッハ二で走る際の衝撃波に耐えられる鍛錬はしてある。だが、「マッハ二で転倒し、壁に激突した場合の衝撃」は、彼女にとっては想定外だった。
ごふう、と血を吐く。頭が下になっている関係で、唾液と混ざった血が、顔面にふりかかる。
「アバラの数本は、イカれたか……? これは……」
もう走れないか、と思いかけて蘭子は否定する。否、否否、断じて否。走ることこそ私の存在意義。私の個性にして、誰にも劣らぬ才覚。弓術もそれなりのものとは自負するが、射手座や真なる英雄とは比べようも無い。
わたしは誰よりも疾い。それだけが真理なのだ。たとえどんな妨害を受けようとも必ず勝利する。それがわたしなのだ。あの日、あの一回を除いては――!
「随分と苦しそうね。もう諦めたらどう?」
甘く低い声。
「誰だ……いや、その声は。確かスタート地点で聞いたな」
「ええ。うちの息子を誘惑しておいて、そう簡単に忘れてもらっては困るわよ」
怪原恵奈……いや、エキドナだ。黒い大蛇の下半身をぬめぬめとのたくらせ、蘭子の前に現れた。
黒く大きな翼は、木々の枝に引っかかりそうで、少しばかり窮屈そうに見える。
「あの路面凍結……やはり貴様の仕業か」
さかさまの視界で蘭子が問うと、恵奈は小首を傾げた。
「わたしではないわ。いえ、策を立てたのはわたしだから、そういう意味ではわたしだと言えるかもしれないけれど」
「やはりな……そういった狡猾なやり方は貴様の得意とするところ。流石は海千山千の女怪だ」
「……レディに年齢の話はマナー違反よ」
ひゅう、と恵奈の尾がしなる。
「おお、怖い怖い。……それで? わたしを始末しに来たのではないのか?」
「本当ならそうしたいところだけれど。一応確認を取らせて欲しいの。貴方に、レース続行の意思があるのかどうか」
あくまで無感情に、恵奈は問いかける。その二択の先に待つ未来が、どんなものかを暗示する冷徹さを放ちながら。
「仮におりると言ったら、貴様は見逃してくれるのか?」
「さあ、どうでしょうね。少なくとも殺すことは無いと思うわよ? それがあの子の意思ですもの。わたしは、息子の心を尊重したい」
「よくできた親なことだ……うちのとは大違いだな」
瞼を伏せて蘭子は苦笑し――次の瞬間、かっ、と目を見開く。
「断るッ!
結果も出ぬうちに自ら敗北を認めることは、己の生まれてきた意味すら捨てることッ! そうまでして手に入れた余生に、何の価値があるというのか!」
「…………」
言い放った蘭子を、恵奈は変わらぬ冷たい瞳で見下ろして、告げる。
「そう。残念だわ」
恵奈は蘭子に背を向けて、ぴいっ、と指笛を鳴らす。すると、山の上の方から、何やらゴゴゴゴゴ、と響く音。
「何だ……貴様、何をした」
「説明する理由も意味も無いわ。直ぐに身を以て知ることになるでしょうから」
そう言い残して、恵奈が虚空へ飛び去った刹那――
蘭子の体は、大量の土砂に埋められた。
☆
『はあ、はあ、はあっ』
理里は走る。先ほど蘭子が駆け抜けて行った市役所前の大通りを、必死に走破してゆく。
その姿はすでに蜥蜴男のものと化している。体操服は肉体の外側に張る『魂』に取り込まれ、今は一糸まとわぬ姿。しかし、全身を鱗に覆われた身体では、誰に見られたところで恥じらいも無い。
理里の速さは時速十六.五キロメートル。これは男子高校生の五〇〇〇メートル走の平均スピードにわずか及ばないほどの速さであり、二十分ほどでゴールできる計算になる。
当然、蘭子と比べればウサギとカメも同然だ。理里が一秒で四.六メートル進む間に、向こうは六百八十六メートル進んでいる。まともに競えば到底敵う相手ではない。
だが、理里は負ける気など微塵も無い。自分にはあの、世界最強の家族がついているのだ。理里はただ、走り続けるだけでいい。それだけで、間違いなく勝利は訪れるのだ。
『グオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!』
雄叫びを上げ、いっそう速さを増す理里だった。




