23. スノウフォール
「げっははははははははははは!!!!!! どうした理里君、キミの力はその程度かァ!」
蘭子が疾る。高笑いを、乗用車の行き交う朝の国道に響かせて。
その速度は実にマッハ二。並の人間では視認すら難しいほどの速度で、蘭子は柚葉市を駆け抜ける。
高校から市役所や郵便局、警察署等が並ぶ1.5kmの大通りを通り過ぎ、左折すればバスロータリーと柚葉駅に至る通りの突当りに。この間、わずか2.2秒。
柚葉高校から大滝までの距離は4.6km。マッハ2とは秒速686mであるから、単純計算だと蘭子は約6.7秒でゴールにたどり着けることになる。上り坂やカーブの際の減速を考慮しても、せいぜい7秒。本来の基準であれば長距離走に分類されるこの距離も、蘭子にとっては50m走ほどのものでしかない。
T字路を左折し、衝撃波が抑えられるよう減速しながらも、駅前の人波を器用にすり抜ける。その様はまさに疾風。あっという間に、観光客向けの土産物屋が立ち並ぶ滝道の起点にたどり着く。
週末ということもあって、平日よりいくらか人が多い……ということは無い。実は滝道は今、一ヶ月前に降った豪雨による土砂崩れのせいで、駅から大滝までのちょうど半分辺りの位置で封鎖されているのである。そのため、土曜日であっても平時の滝道よりは人通りが少ない。蘭子が滝道をコースに選んだのはそういった理由もある。
無論、山育ちの彼女としては、異郷の山といえども走りやすいという理由もあったが。
(天は快晴。風は東。ああ、何と絶好の日和!)
鼻腔に抜ける爽やかな風。圧倒的な速度がもたらす心地良い風。常人ならば吹き飛ばされるであろう突風、空気抵抗にも、鍛え上げた彼女の肉体は耐え抜く。結果、どんな人間にも到達できない生身の速度の快感を彼女は手にする。
地面を一蹴りする度に、筋肉が軋む。筋繊維が破壊されるのを感じる。だが、それすらも快い。破壊と再生を繰り返すことで彼女の肉体は剛くなってきたのだ。傷つくことすらも、彼女にとっては快感だ。
「あはァ…………!」
しだいに口角が持ち上がる。眼球が裏返りそうなほど黒目が上を向く。
「げひひひ、げははははははははははははははははは!!!!!!!!」
獣の貌で彼女は嗤う。快楽にふけるその様は、もはや人であることを忘れた獣。いや、すでに彼女は人ではなかったのだった。
(さて……そろそろ通行止めポイントか)
疲労の悦楽に満たされていても、理性が飛んだわけではない。彼女は、楽しむときは思い切り楽しむ性格なだけだ。
『この先立ち入り禁止』の立札をひょい、と蘭子は飛び越える。誰にも見られてはいない。否、誰も彼女を見ることなど叶わない。
この辺りになると、道沿いに滝から続く浅い川が流れはじめる。そも、滝道はこの柚葉川の流れる谷沿いに造られているのだ。明治四年にこの国ではじめての「公園地」に指定され、同三十一年に「柚葉滝道公園」として開園し、高名な学者も訪れたという。老いた母をおぶる彼の銅像が、今も滝道沿いに残されている。
この先は特に道が険しい。かつて大滝を訪れた唐の旅人も、あまりの山道の厳しさにここで引き返したといわれる岩の伝説がある。
(だが、どんな山道だろうと)
幼き日より野山を駆け回ってきた蘭子にとっては朝飯前。この世に二度目の生を受けてからも、この山は頻繁に訪れていたので、最早我が家の庭も同然だ。しかも、このように舗装された道など『山道』と呼ぶことすらおこがましい。
大きなカーブが見えてくる。ルート自体は一本道だが、川沿いの道だけに、ここからはうねりが目立つところだ。
(まあ、その程度の減速でわたしの優位が揺らぐことは有り得んが)
圧倒的な速さでもって勝利する。今度こそ勝つ。たとえどんな妨害を受けようとも、その全てを跳ね退けて勝利してみせる。勝たねばならない。それこそが、彼女の二度目の生における最大の目的。
相手などどうでもよかった。それが魔神テュフォーンであろうとその眷属であろうと。ただ、ただ一度にして最後の敗北の記憶を、塗り替えたかっただけだった。
もうすぐカーブを曲がる。そのために、重心を傾けかけて――
つるり。
「――――!?」
指の先から着地した右足が、アスファルトを蹴らない。硬く走りやすく舗装されたはずの地面が、あまりにも滑らかすぎる。
そう――足を滑らせてしまうほどに。
「ああっ!?」
バランスを崩し、前につんのめる。身体が宙に浮くのを感じる。
普通の人間であれば、ここで単純に、うつ伏せに転ぶだけで済んだだろう。
しかし、蘭子の速度はマッハ二。今まで疾風の走りを可能にしてきた速度は、心地いい風を与えてくれた速度は――
川の向こう岸の山壁へと、勢いよく彼女の身体を突き飛ばした。
「あああああああああああああああああ!?」
落下防止にしては低すぎる柵を飛び越えて、蘭子は一直線に向こう岸の山へ飛ばされていく。
(なぜだ……なぜ、こんなことに!?)
蘭子は動揺していた。なぜあんなところで転んでしまったのか。なぜあんなにも地面が滑りやすくなっていたのか。いや、一瞬だが道路に触れた足の感覚で、「何が起こっていたのか」は分かっている。だが、あの感覚は――なぜ、この時期に!?
「うわあああああああああああああああああ!!!!!!!!」
疑問に支配された刹那――蘭子は山の斜面に、痛烈に激突した。




