Perfect Strategy
蘭子の姿が見えなくなったころ、ようやく理里たちの身体の硬直は解けた。
「大丈夫か、兄さん!」
まだ股間を押さえて起き上がれない希瑠に、理里は駆けよる。
「ゆるさん……あの女、マジにゆるさん……ひぐっ」
理里が助け起こそうとすると、希瑠は内股になってくずおれてしまう。
「に、兄さん!」
再び肩を貸され、ようやく希瑠はゆっくりと歩き出した。
「ハア、ハア……理里ォ……俺はあの女に、目にもの見せてやりてえぜ……」
「……そうだな。それは俺も同じだ」
ここまで理里たちは田崎蘭子に翻弄されっぱなしだ。圧倒的な強さと速さ、そしてあの奔放な性質に。
「けど、ちゃんと勝負してあいつに勝てるかな? さっきはつい、気圧されて返事しちゃったけど」
「無理だろうな……ヤツは"最速"だ。
けど、知ってるか? 神話上で似たような勝負をヤツがやった時に、勝利した男のやったことを……」
「いや、知らないけど」
おそらくそれが、先ほど蘭子と希瑠がほのめかしていたことだろうと理里は悟る。
何か悪だくみするように苦笑して、希瑠は続けた。
「そいつはアタランテの走る道の上に、リンゴを投げ入れたのさ……アタランテはリンゴを拾いに行ってしまって、その隙に追い抜かれてしまったんだ」
「……何だそのバカな話は」
希瑠の語った内容に理里は呆れる。いや、あの女ならやりかねないかもしれないが。
「ここで大事なのは、リンゴを手に入れることじゃねえ……つまり、走路妨害だ。俺たちが勝つにはそれしかねえ……!
見てるがいいぜ、田崎蘭子ォ! どんな手を使ってでもてめえを足止めしてやるッ……うっ……」
気合いを入れた刹那、希瑠はまたしてもその場に倒れこんでしまう。
「……はぁ……」
一体誰と誰の勝負なのか、分かったものではない。ため息をつきながら、もう一度兄を助け起こす理里だった。
☆
「と、いうわけで作戦会議じゃああああああああ!!!!」
家に帰るや否や、リビングに珠飛亜以外の家族(理里、恵奈、吹羅、綺羅)を呼び集めた希瑠は、さっそく理里と田崎蘭子の競走について説明した。
「何事も命を懸けるものは心が躍る……滾る、血が滾るぞぉ! この身に宿る黒き龍の血がぁ!」
「その意気だぜ吹羅、お前はいつもノリがいいな! そんな血は一ミリも流れちゃいねえが!」
吹羅は今日も左眼の黒い星のペイントを欠かさない。「くるりんぱ」と呼ばれる髪の編み込みもいつも通りだ。
「どうしてかけっこを申し込まれたのはりーくんなのに、希瑠くんの方が張り切ってるのかしら……」
「俺はあの女が気に食わん! 何としても一杯食わせてやらなきゃ気が済まねえ! 以上だ!」
「と、いうことだそうで」
希瑠は開き直り、理里は諦めたように首を振った。
「理里ォ! 決戦の土曜日まであと何日だ!」
「えっと、今日は四月十六日の月曜だから……今日含めてあと六日かな」
「そう、あと六日だ! それまでに俺たちは奴に勝てる万全の策を見出さなきゃならねえ! でないとみんな死ぬ! だから死ぬ気で考えるんだ!」
ダンッ、と希瑠はテーブルを叩く。
「……殺される、なんて言うけれど。どれだけそのコが速かろうと、あなたが油断しなければ勝てたのではなくて?」
「うっ……」
痛いところを突かれた希瑠の顔が引きつる。
「そ、そりゃもちろんさ。だけどほら、まさか英雄がウソをつくなんて思わないだろ?」
「……甘すぎるのよ、貴方」
恵奈が軽蔑の目を向ける。
「大兄上は頭が良いのか悪いのか分からぬな」
「う、うん……」
吹羅と綺羅にも、希瑠はジト目を向けられる。
「ま、まあまあ! 兄さんが俺を守ってくれたのは事実なんだし! 今は『かけっこ』のこと考えようぜ!」
雰囲気が悪くなりかけたのをやわらげようと、理里は精いっぱい明るい声と笑顔を作った。
家族の中で責任を追及していても仕方がない。今は、待ち受ける難題に対処することが先決だ。
「……そうね、受けてしまったものは仕方がないわ。
りーくんを守るためだったらわたしは全力を尽くすわ。母親ですもの」
恵奈は肩をすくめて苦笑する。
「土曜日なら我らも中学が休みだ。"死の体現者"の力、とくと見せつけてやろうではないか!」
「う、うん……きらも、がんばるよっ」
いつの間にか二つ名が変わった吹羅と、少し自信なさげな綺羅も、それぞれに大小のガッツポーズをする。
「ありがとう、みんな。わざわざ俺なんかのために……」
理里が頭を下げると、クハハ、と吹羅が笑った。
「良い良い! 前世から因縁のある貴様に恩を売れるとは、我も胸がすく思いよ!」
「そんな因縁は微塵もないと思うけど……家族だし、当然のことよ」
「おにいちゃん、いつもきらにやさしくしてくれるもん。だ、だから、おんがえし、したいんだ」
「お前はオレの大切な弟だ、それくらいお安い御用だぜ!」
最後の鼻につく美声だけは、いささか信用ならないような気がしたが。それでも少しばかり、元気づけられた理里だった。
☆
「それで、作戦はどうする? 家族総出でかかるって決まったのは良いが……」
希瑠が皆の顔を見回すと、恵奈が小さく手を挙げた。
「すでに考えてあるわ」
「マジか!?」
「やっぱ母さんはすごいな……」
希瑠と理里から、感嘆の息が漏れる。
「それほどでもないわ。たまたま思いついただけ……」
恵奈は謙遜に肩をすくめた。
「さて、作戦の概要だけれど。
喜びなさい、希瑠くん。上手くいけば貴方の力で、相手を一歩も動かさず、りーくんを勝たせることができるわ」
「へっ……………俺?」
腑抜けた顔をした希瑠に、恵奈は自信に満ちた笑みを浮かべる。
「ええ。まずは――」
恵奈の語った作戦は二つ返事で皆の承諾を受け、実行に移されることとなった。
決戦の日まであと六日。どこかで、開幕のベルが鳴っている。