kid, I like competition
「……かけっこ……だと…………?」
身体の底から湧きあがる、どうしようもなく強烈な『寒気』に硬直したまま、理里は問う。どうやら、口だけは動かせるようだ。
「ふざけ、てるのか」
薄ら笑いを浮かべる蘭子を睨みつけ、歯ぎしりする理里。
しかし、同じく硬直させられている希瑠の反応は違った。
「まさか、貴様!」
驚きに目を見開き、即座にその目が、憎悪の籠ったものに変わる。
「どこまで野蛮なんだ! 貴様、本当に英雄か!?」
「ああ、広くはそう呼ばれているな。己で意識したことは無いが」
蘭子は希瑠の視線を歯牙にもかけず、長い黒髪を掻き上げる。
「……? どういう、ことだ」
唯一理解していない理里が眉をひそめる。
「……ああそうか、君は知らないのか。昨今さまざまな方面で取り上げられることも多いから、わたしも少しは名が知れたものと思っていたが……まあ、わたしの過去の所業などは後から調べればいいさ。今重要なのは、この『競い合い』のことだ」
ぐっ、と蘭子は理里に顔を近づける。生暖かい吐息が頬にかかる。
「ルールは簡単だ。この学校の校庭から同時にスタートし、先に柚葉大滝前まで辿り着いた方の勝利。ルートは市役所前の大通りを突き当りまで直進して左折、そのままロータリーを周って、あとは滝道に沿って進む。どうだ、単純だろう」
「柚葉大滝って、かなりの距離じゃないか」
柚葉大滝とは、柚葉市が誇る観光名所のひとつである。落差三十三メートルにも及ぶ巨大な滝で、秋には紅葉に映える美しさ目当てに観光客が殺到する、柚葉市の大きな財源でもあるが……かなり山奥にあり、起伏の激しい山道を駅から三キロ近く歩かないと到達できない。
「だから良いのだよ。……言っておくが、これは私から与えるハンデなのだぞ? 百メートルかそこらの短距離走では、一瞬にして勝負がついてしまうからな……
そして。わたしが勝てば、君たち家族全員の命を貰おう」
「!? いくらなんでも、それは」
激昂しかけた理里を、蘭子は右手で制す。
「ただし。君が勝てば、今後一切君たちに手出しはしない。それに加え、君の言うことを何でもひとつ聞こう。死ねというのならば死ぬし、二度と顔を見せてほしくないのであれば遠い町に引き払おう。……望むなら、この身体を捧げることすら惜しまないぞ?」
そう言って蘭子は、ブラウスのボタンをひとつ、ふたつと開け始める。
「くっ……! やめろ、やめろって!」
理里は顔を真っ赤にして、目を背ける。
「クソ痴女が……色事しか頭に無えのか」
「……ほう?」
悪態をついた希瑠に、蘭子は耳ざとく反応した。
「犬っころが一国の王女にかような戯れ言を申すとは、どういう了見かな」
「てめえみてえなゲス姫様が居てたまるか。それに、その身分にあったのは前世の話だろうが……ああ、どっちにしろ親に捨てられた身だったか」
「……思い上がるなよ、駄犬が」
そう、蘭子がつぶやいた次の瞬間――希瑠の股間に、何かが砕けるような痛みが走る。
「ぼべあっ!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
まばたきもしないうちに希瑠の前まで移動した蘭子の右脚が、しっかりと希瑠の股を蹴り上げていた。
「ほぉ……おほっ……」
よく分からない声を上げて、希瑠は膝から崩れ落ちる。
「はっはははは! 怪物でも男はタマが弱いのは同じようだなぁ!」
「ひえ……」
理里は、心なしか股間が冷たくなった気がした。
「理解したか? 貴様らに拒否権などない。わたしは今ここで貴様らをいかようにもできるのだ……無論、殺すこともな。
理里くん。君もこの駄犬のように転げ回りたくなければ、迅速に回答することをお勧めするが?」
「……わかった。その挑戦、受けて立とう」
もがき苦しむ希瑠から目を離せないまま、理里は蒼白な顔で承諾した。
「よし、決まりだ! 日程は今週の土曜朝九時。それまで、せいぜい準備を整えておくことだ……ふふふ、ふはははははははは………!!」
自信に満ちた高笑いを残し、動けない理里たちに背を向けて、蘭子は悠然と歩み去って行った。
☆英雄データ☆
・アタランテ
ギリシア・ペロポネソス半島中央部に存在した国、アルカディアの王女。
男子を望んでいた父王により山に捨てられ、雌熊に乳を与えられたのち、狩人に発見され育てられる。
狩人の中で生きてきたために、純潔と狩りの女神・アルテミスを信仰するようになり、処女を守ることを誓った。
その後成長した彼女は、黄金の羊の毛皮をめぐる航海冒険・アルゴナイタイに参加したほか、カリュドンの大猪狩りで初めに矢を当てるという功績を残す。
これらの功績、そして外見の美しさから、アタランテの名は一気にギリシャ中に知れ渡る。そして、彼女に求婚する男性も後を絶たなかった。その状況に、元来競争好きであったアタランテは一計を案じる。
「自分と結婚したいならば、駆け比べに勝って見せよ。ただし、負ければ首を切る」
足の速さで彼女に勝てる者がいるはずもない。アタランテの山には美丈夫たちの首が積みあがっていっていた。
しかし、そんな彼女にも敗北の時が訪れる。最後に挑戦した英雄・ヒッポメネスは、美の女神アフロディティにより授かった"黄金の林檎"を彼女の眼前に投げ込み、彼女の注意を逸らし勝利した。
その後の二人は仲睦まじく暮らし、息子パルテノパイオスをもうけたが、ゼウスの聖域で情事にふけったために神罰を受け、ともにライオンに変えられてしまったという。
この末路から、結婚後アタランテは性に目覚め、もともとの山育ちもあって野蛮さに拍車がかかったのではないか……という想像から誕生したのが、今作の田崎蘭子である。