夕凪、トリビュート
それ以降、その日は特に何事もなく終わった。
「朝のアレをのぞけば、今日はわりに平和だったな。珠飛亜も居なかったし、折邑さんに絡まれることもなかったし。兄さんがついてくれてたおかげかな」
夕暮れの校舎。駐輪場へと向かう廊下で理里が笑顔を向けると、希瑠は照れ臭かったのかそっぽを向く。
「う、うるせー。こんなヒキニートが何の役に立つんだよ」
「兄さんが居なきゃ、俺はまちがいなく死んでたよ。朝の襲撃の時、俺の反応はぜんぜん間に合わなかった……矢が脳天に命中してたはずだ。
俺が今ここにいられるのは、兄さんのおかげだよ。それは間違いないんだ」
理里が微笑みかけたとき、希瑠の顔が紅かったのは夕陽のせいばかりではない。
「買い被りだぜ」
「そんなわけないよ。いっそのこと、兄さんがずっと俺も珠飛亜も守ってくれたらいいのになあ……あ、そ、そういう意味じゃないぜ!? 俺は珠飛亜のことなんかどうでも……」
希瑠の足音がしないことに気づき、理里は振り返る。
「どうしたんだ、兄さん?」
希瑠はうつむき、たたずんでいた。白いセーターは、今はオレンジ色に燃えている。
「それは……俺には、できない」
希瑠の表情は深刻だった。何かをこらえるように、そしてどこか申し訳なさそうに、彼は歯を食いしばっていた。
「た、ただの冗談だよ。言ってみただけだって」
理里が雰囲気をやわらげようとするが、希瑠は苦悶をこらえる表情を崩さない。
「俺は、お前らだけ守ってるわけにはいかねえんだよ……」
「……兄さん?」
理里が怪訝な顔をしたとき――
低くよく通る女性の声が、無人の廊下に響いた。
「ごきげんよう、理里くん! そして怪原希瑠! この再会、実に待ち遠しかったぞ!」
「っ!?」
艶やかな黒の姫カット。理里よりも少し背が高い、スマートな、しかし鍛え上げられた長身。そして、猛禽類のように鋭い切れ長の目。
「田崎蘭子……!」
「待て、そう逸るな。
今回はひとつ、君たちに提案をしに来たのだ」
「そんなこと信じられるか! 最初におまえがどんな戦法をとったのか、こっちは忘れてないぞ!」
「ああ、てめえだけは信用できねえぜ」
理里と希瑠が身構える。すでに理里の頬には緑色の鱗が浮かび、希瑠の皮膚を、だんだんと白い剛毛が覆い始め――
『待てッッッッ!!!!!』
瞬間、変化しかけていた理里と希瑠の身体が硬直する。
「何だ、これは……!」
「からだ、が……」
今の声は、蘭子の叫び声……いや、咆哮とでも呼ぶべきものだった。それを聞いた途端、理里たちの身体が、痺れたように動かなくなってしまった。
「物分かりの悪い男は嫌いだぞ? わたしが『提案をしに来た』と言ったのだから、素直に信じればいいものを」
ゆっくりと、蘭子は理里の方へと歩いてくる。しかし理里も希瑠も、身動きひとつ取れない。
「くっ……」
「何、それほど難しい話ではないよ。ほんのちょっとした、嗜好の話さ。
――理里くん。わたしと、『かけっこ』をやらないか?」
「……………………………………は?」
目が点になる兄弟。神速の乙女は、不敵に嗤った。