桜の回廊 (All duets lead to the?)
「ったくよう、まさか俺が働かされるなんてなあ……」
翌朝、怪原家前。希瑠は愚痴をたれながらも、理里が自転車を押し出すのを待っていた。
「いいじゃないか、たまには外の空気を吸った方が。ずっと引きこもってたら体壊すだろ」
「バーロー、俺は地獄の番犬だぞ。前世じゃ何千年とくら~い冥府の門番やってたんだ……覚えてないけど」
「ダメじゃん」
理里以外の怪原家のきょうだいは、神話の時代に死んだ恵奈の子どもたちの生まれ変わりらしい。ケルベロスが死んだという情報は神話にはないが、希瑠はなぜか恵奈のもとに生まれてきた。
無造作に頭の後ろでまとめた白髪を掻きながら、ふあ、と彼はあくびをする。
「しかし、柚高に行くのなんざ久々だな……いや、そんなに久々でもないか。お前の入学式以来だ」
「そういえば兄さん、柚高の卒業生だったな」
ようやくママチャリを出してきた理里が、納得して苦笑する。
「おうよ。これでも昔は優等生で通ってたんだぜ」
「それはよく知ってるよ。いったい何度学年一位の通知表を見せられたか……しかも、何のためらいもなくゴミ箱に捨てちまおうとするし」
「まあ……な。たいして努力して取ったもんでもねえからな」
希瑠は、いわゆる"天才"とよばれる人種だった。学業、運動、芸術、そして遊び。全てにおいて、彼は非凡なる才能を発揮していた。
「そんなヒトが、今じゃ一銭の役にも立たないニートだなんてな。母さんの涙が目に浮かぶよ」
「ははは……耳の痛い話だぜ」
希瑠は引きつった笑みを浮かべる。気にも留めず、理里は自転車にまたがって伸びをした。
「んー……さて、そろそろ行きますか! じゃあ兄さん、今日はよろしく頼むぜ」
「おう! ……さて、と……」
きょろきょろ、と辺りを見回して、希瑠は人目のないのを確認する。
そして。
「……ぬんっ!」
気合いとともに、ぐっ、と腹に力を込める。すると――
希瑠の足元から銀色の、炎のようなオーラが立ちのぼった。それは見る間に彼のスマートな長身を覆い、姿をゆらぎの向こうに包み込む。
「へへっ、ざっとこんなもんよ。どうだい、俺の"オーラ"は?」
「ああ……さすが兄さんだ。これで、人間から姿が見えなくなるんだよな」
この銀の焔のようなゆらぎは、希瑠の異能ではない。怪物であれば誰もが使用できるものだ。
怪物は通常の生物と違い、肉体の外側に「魂」(=霊体)が薄く展開されている。通常の生物では魂は肉体の中におさまっているのだが、怪物はそうではない。この肉体の外側に張った「魂」は、一定以上の体積になると、「光の電磁波を打ち消す磁場」を発生させる。磁場によって光を散らすことで、怪物は肉体の不可視化を可能にする。
ただしこの「魂の光学迷彩」は、同じ怪物や英雄には通用しない。そもそも「魂」は通常の光を透過するが、それと別に『霊光』とよばれる特殊な光を反射する。霊光は太陽光線に含まれているほか、魂そのものもそれを淡く発している。怪物や英雄はこの霊光を視認できるため、この世ならざる怪物を見ることができるのだ。
「英雄どもにはバレるが、警備員に気づかれず学校に入るくらいなら十分だろ。よっ、と」
希瑠は黒いパンツをはいた長い脚で、理里の自転車の荷台をまたぐ。
「なんでうちの兄妹は、こんなに二人乗りしたがるかな」
理里が呆れると、
「なんでぇ、良いじゃねえか。どうせ人間には見えやしねえんだ、行け行け!」
希瑠は「しゅっぱつしんこー!」とばかりに前をゆびさす。
「……しかたないな」
渋々ながら、理里は重いペダルを踏みだすのだった。
☆
「おおっ、こりゃ見事だ」
通学経路の半分あたりにさしかかった、桜並木の下り坂。車道の両脇に走る歩道それぞれに、等間隔で桜の木が植わっている。道路の両側から伸びた枝が、いくつもの連続したアーチを形成している場所だ。
特にこの季節は満開となった花々が武骨な枝のアーチを彩り、まさに「桜のトンネル」といった様相である。
「ああ……いいもんだな」
後方で興奮した声をあげた希瑠に、理里ははにかむ。
車道の端を、にわかにスピードを落として走る。ふわっ、と、薄桃色の花びらがひとひら、理里の目の前を舞って行った。
それを目で追っていた希瑠が、しみじみとつぶやく。
「普段はパッとしねえ田舎町だけどよ。こう、季節感というか? そういうのを直に感じられるのは、柚葉市の良さだよなぁ……」
「これが秋になったら、またオレンジ色のトンネルになって綺麗なんだよな」
「そう! どっからかキンモクセイの香りも漂ってきて、風情があるんだこれがまた……。父さんと母さんがこの街を選んでくれたことに、マジに感謝だぜ!」
心からそう思っていることが伝わる、希瑠の明るい声。それに、理里は苦笑する。
「いつも交通アクセスの悪さに泣いてるヒトがよく言うよ」
「そ、それは言いっこナシだろ!?」
柚葉市は、県の中心都市から車で三〇分ほど走ったところにある山沿いの市だ。だが、どういうわけか鉄道が一本しか通っていない。しかもそれすら、たった四駅しかないさびれた路線。車を持つ住民にはさほど不便がないが、希瑠のように車やバイクを持たない者にとっては過酷な環境だった。
「アニメ系のグッズなんかは、県の中心まで行かなきゃ売ってねえんだからよ。俺ペーパードライバーだから、家の車借りるわけにもいかないし。あのド不便路線に頼らざるを得ないのがもどかしいぜ」
「……通販で買えばいいじゃないか」
「バーロー、それじゃダメなんだよ。自分の手に取って選ぶから、買い物の満足感ってもんが……」
そんな話をしているうちに、最後の桜のアーチを自転車は通り抜けた。数分ほど続く坂を下って、国道沿いの大通りで信号に引っかかり、理里はブレーキを握る。