160. Battle 7 知恵比べ
『おおっと、ついにヘラクレスの体が燃え尽きてしまったーーーーッ!!!!』
無慈悲なアナウンスが、闘技場に響き渡る。
炎上したヘラクレスの体が、灰となって崩れ落ちる。彼の巨体があった場所には、黒い粉の山だけが残った。
「ふ……やはり人の子では、神々に届くには程遠いようだね」
アテナが金の短髪を撫で、その瞳が元の灰色に戻る。
それをラードーン達は、信じられない面持ちで見ていた。
「ウソだろ……ヘラクレスが負けた!?」
「ぬぬう……あれほどの強者でも、やはり神には勝てぬのか」
「あっははは、やはり神々は最強だー! 胸がすく思いだ!」
「ボクには信じられない、あのヘラクレスが……」
ラードーン、ヒュドラ、ルピオネ、カルキノス。めいめいの反応を受けている。
最初の三匹は、今回の戦いでヘラクレスと拮抗した。しかしそれでも、まだ力の隔たりがあったと感じている。ルピオネが敗けたあたりからは、誰が相手でもヘラクレスならどうせ勝つという諦めがあった。
だが、そのヘラクレスが簡単に敗けた。ただ触られただけで。
「これが、神の力……!」
ラードーンは戦慄する。
アテナは終始、余裕を見せていた。致命傷を追ったヘラクレスをわざと回復させた。雷神化したヘラクレスに生身で追いつき、全ての攻撃をいなしてみせた。その上で、手で触れただけで彼の体を燃やし、灰に変えた。
(格が、違いすぎる……!)
ここまでの相手も決して弱くはなかった。
筋力を異常に増加させる帯をもつ女王。
何にでも変身する河の神。
猛毒の牙をもつ不死の蛇。
必中の矢を放つ音速の人馬。
石化の瞳を宿した黄金の龍。
星の化身となった毒蠍。
天界・冥界に広く集った、強者たちから勝ち上がった十二名の半数。
だがーー
(オリンポス十二神は、それよりまだ"上"にいるのか)
恐らくアテナは、それまでの挑戦者たちを瞬殺できるほど強い。雷神化したとはいえ、ヘラクレスはまだ神の力を使いこなせていない。それに対してアテナは、数え切れないほどの昔から、天界最高の「オリンポス十二神」の第三位に座している。神としても、戦士としても、ヘラクレスではまだ及ばなかったという事か。
(それでも信じられない……あのヘラクレスが)
『勇者ヘラクレス、ついに敗北! 肉体ごと消し飛ばされての決着です! 人類史上最強の英雄も、やはり十二神には勝てなかったーーッ!』
興奮した実況が、ラードーンの胸に虚しく響く。
ただアテナひとりが立つ闘技場を見ていられず、木彫りの矮躯で背を向けたーーその時。
『おい……
勝手に、終わらせんなよ』
低い、声がした。
とっさにラードーンは振り返る。
『まだ……己は負けちゃいない』
どっしりと重い声が闘技場に響く。
絶対に決着がついたとは言わせない、執念のこもった声が。
「ーー笑わせる!」
アテナは少し驚きを見せたが、鼻で笑う。
「肉体が滅んだ時点で負け、がルールじゃなかったか? お前の身体は塵も残さず消えただろう」
『どこに目をつけて物を言ってる……? 下を見ろ!!』
言われてアテナは下を見る。客席の映像も、アテナの足元の灰の山に焦点を合わせる。
そこに居たのはーー
「……っははははは!!!!!」
目玉。
黒黒とした瞳の、大きな目玉だ。
灰の山の中に、眼球1つだけが燃え残っている。
そしてその下にーーなぜか小さな胴体と手足が生え、闘技場にこぢんまりと立っていた。
「……あっははははは!!!!! まさか君、ヘラクレスか!? その目玉だけで生き残ったのか! その生命力にも脱帽だが、人類最強の英雄はユーモアも抜群だな!! 笑わせてくれるっ」
アテナは笑いが止まらなくなっている。鍛えられた腹筋を押さえて、裸で笑い転げている。
『え……? 何アレ……?』
『あれが、ヘラクレス……?』
客席は理解が追いついていない。
「キミ、そんな姿でどうやって僕に勝つつもりなんだ? せ、せめて蟻にでも武術を習って出直してこいよ、あっははは!」
『もの分かりが悪いな……本当に知恵の女神サマか?』
「……あ?」
この言葉には、さすがにアテナのひたいに青筋が浮く。
「貴様……今何と言った」
『「愚か」だと。そう言った、馬鹿の女神よ』
ブチブチブチッ、と。
何かが切れる音を客席の全員が聞いた。
「お前……そのちんまい体で何を言ってる? 馬鹿って言う奴が馬鹿なんだぞ、馬鹿が」
『じゃあお前も馬鹿だな。今言ったろ』
「……殺す」
アテナの足が消える。
目玉の立っていた灰の山にその足が振り下ろされた。
だがーー
『己はーー負けない』
「……!」
アテナが殺気を感じて振り返ると、
「っあああッ!?!?!?」
電撃。
それが、アテナの両眼を穿った。
『お前……勝負がついたと思ってから権能の使用を止めただろ。最後まで油断するな、馬鹿が』
ヘラクレスの目玉が浮いている。その両手足は、雷の槍に変わっている。
『そうか!』
ケイローンが叫ぶ。
『あの手足は、おそらく彼の目に繋がっている血管か何かが形を変えたもの! ヘラクレスは肉体を雷に変えられる……その形も自由自在なのか!』
「くっ……」
アテナの目尻から血が流れ落ちる。
(私の権能の鍵が……)
混沌神と彼女を繋ぐのは、灰色の両眼だった。
『そして、魂を宿す楔が、この世に欠片でも残っているならばーー』
「!」
背筋に寒気をおぼえたアテナはとっさに盾を構える。
ずどん、と。一筋の落雷が闘技場に落ちる。
アテナはそれを盾で防ごうとしたが、しかし雷は彼女に当たらなかった。
「っ……こけ脅しが! 小さくなって権能の精度も落ちたのかい!」
虚空に向かってうそぶいた時……彼女の肌がひりついた。
「!?」
気配。見えない瞳の先にある何かの。
バチバチ、とそれは激しく音を立てている。その音が、ザ、ザと、一歩ずつこちらに歩を進めてくる。
(馬鹿な……気配が大きくなった!?)
先ほどまで目玉サイズだったヘラクレスの気配が、今、もとの巨体に戻っている。その場に立っているのを感じる。
(そうか、自分に雷を落として肉体を補充したのか……何て奴!
だが、私にもまだ他の四感はある。足音、空気の匂い、流れ、味で奴の動きは分かる!)
ここからは純粋に戦士としての勝負。盾と槍を構えるアテナ。
(……来る!)
閃く空気。考えるより先にアテナの左手が反応する。
アテナには見えない右の拳を盾で受け流し、アース付きの槍を繰り出す。直撃。気配が小さくなったのを感じる。
「っおおおおおおおおっ!!!!」
間髪入れずアテナは連撃を繰り出す。盲目などものともしない正確な槍さばきで、的確にヘラクレスの雷体を穿つ。
天上から雷の雨が降る。その全てを僅かな空気の動きだけで察知、盾で受け流し、躱し、アテナは槍を繰り出す。
だがヘラクレスも負けない。体の雷を吸収されるのを覚悟、槍が当たる前提で捨て身の攻撃を仕掛けてくる。
ついにヘラクレスの気配が半分ほどまで小さくなったその時、アテナが待ち望んだひとつの隙が生まれた。
(今ッ!)
ヘラクレスをこの世に繋ぐ唯一の楔。眼球への道筋が、開く。
「終わりだッ!!!!」
正確なルートで槍を突き出すアテナ。光が一点から差し込むような、一直線ーー
『……なあ。ひとつ、気付いたことがあるんだ』
「……は?」
アテナの槍が空を切る。
背後から聞こえるのは、ヘラクレスの声。
『お前もラードーンも、俺の雷を地面に逃がした。それは広く散って、瞬時にどこかに消えてしまうが……
逃げたからには、それを追いかけて捕まえることもできるはずだ』
その言葉を聞いた時、アテナの肉体はすでに、後ろから雷の拳に貫かれている。
「な……に……」
『地面に散る前に、俺の体をその線の中で止めておけば……小さくはなるが、もうひとつの体をそこに作ることが可能だ』
アテナの背後。右手に持った槍から伸びる線。その線から、ヘラクレスの雷の体が生えている。
「……ふふ……認めよう。お前は、大した知恵者だ……」
アテナが血を吐く。少しの笑みを浮かべて、彼女は闘技場に倒れた。




