145. Battle 4 ケンタウロスの願い
「アルテミス、それは」
「だってお父様、いつまでも後継ぎを決められないのですもの。いい頃合いではなくて? ちょうど今、皆揃っているのですから」
「だが……」
ゼウスは戸惑う。しかし、アルテミスは彼の耳元に口を近づけてくる。
「アポロンお兄様なら、必ずヘラクレスを一矢で打ち倒してみせますわ。たとえお父様から受け継いだ雷だって、太陽たるお兄様には届かない。お兄様こそ、次の神王にふさわしい存在なのです」
「……控えよ、アルテミス」
ゼウスの右肩にアルテミスの手が触れたところで、彼は彼女を振り払った。
「そなたは処女神であろう。そのように男を誘っては、信者が泣くぞ」
「あら、わたくしは誘ったつもりなどありませんが? 何を勘違いしていらっしゃるのかしら」
小さな口に手を当てたアルテミスがおほほと笑う。
「くどい。もう出ていきなさい」
「はぁい」
不満げに首をかしげてから、白衣の少女神は静かに部屋を出ていった。
「……どいつもこいつも」
アルテミスは自分の兄を王にしようとしている。そして王の妹として、権力を握りたいのだ。
十二神では今、ゼウスの後釜を狙った権力争いがこのように泥沼化している。
「この状態で外敵が襲ってきたら、オリュンポスは壊滅するであろうな……」
つくづく、ゼウスは頭を痛めるばかりだった。
☆
翌朝、英雄戦争は問題なく再開の運びとなった。
晴天の闘技場に再び立ったヘラクレスは神の姿ではなく、はじめと同じ人の姿に戻っている。
そして、彼の眼前にはすでに次の挑戦者が立っている。
「よもや、貴方と再び戦えようとは……! 光栄です、ケイローン先生!」
「私もですよ、ヘラクレス」
そう、微笑を浮かべるのは、人の上半身に馬の下半身をもつ茶髪の美青年。
「亡くなる前の老体でない、全盛期の貴方と戦えるとは、恐悦至極!」
ヘラクレスは感激に打ち震えている。常人の頭ほども大きい拳が強く握られる。
「これも冥府だからこそ! ケンタウロス族の英雄と称えられた貴方と、全力で戦えるとは!」
「ふふ……楽しみましょう、この時を!」
巨体が舞う。馬体が疾駆する。
神話となった師弟の戦いが、今始まる。
☆
(どうする……あのヘラクレスに勝つには)
黄金の庭園でひとり、ラードーンは黙考している。
ヒュドラとカルキノスは、対戦を間近に控えたラードーンに気を遣って客席に行った。今はこの場所で一匹、気持ちを整えている。
(やはり星器が鍵か……)
ラードーンの星器は一撃必殺の邪眼。初手から使用し、ヘラクレスを一歩も動かすことなく勝利したいところだ。
炎を吐いたところで、太陽から生還したヘラクレスに効くとは思えない。かといって接近戦は論外だ。となると、石化の邪眼で一撃で葬るのが最上策といえよう。
(神に借りた力で勝つのは癪だが)
そうも言っていられない。何せ相手は人界最強の英雄なのだから。
『おおっとケイローン、猛スピードでヘラクレスを翻弄する! これはあの"神速"アタランテをも凌ぐスピードではないのかッ!?』
水晶玉から熱い実況が聞こえる。
☆
「さあヘラクレス、この私を捕らえてごらんなさい!」
疾走するケイローンはヘラクレスの周りをぐるぐると周回しているようだが、その姿は速すぎて見えない。
青年の声だけが途切れ途切れ聞こえてくる。
「くっ……さすがは先生!」
ケイローンは時折弓や剣で攻撃を仕掛けてくる。だが、ヘラクレスの視力でもその姿を捉えることは難しい。
竜巻の中心にいるように、周辺で土煙が舞い上がっている。その煙の中から時折繰り出される斬撃、刺突。ヘラクレスはかわすので精一杯だ。
「ほら、余所見をしていると!!」
「くっ……!」
飛来した矢がヘラクレスの脇腹に突き刺さる。
「どうした、ヘラクレス! その調子では神々に勝つなど夢のまた夢ですよ!」
「先生が厳しいのは、変わらんな……ぐはっ」
叱咤の声を掛けながら、ケイローンは容赦なく矢の雨を降らせてくる。
「だが俺も戦士として……このまま負ける訳にはいかん!!」
カッとヘラクレスの青い眼が見開かれる。
「ウオオオオオオオオッ!!!!!」
闘技場に再び落ちる雷。
ヘラクレスの「神化」の兆しである。
「やはり使ってきますか……だが! 雷ごときで私を捉えることはできません!」
なるほどケイローンの速さは神の域、生半可な物理現象程度で捉えることは難しそうだ。雷の狙撃では捉えられまい。
だが、
「それは、己があなたを狙撃する場合においての話!」
「……? どういう意味です」
誰にも見えないスピードの中でケイローンは怪訝な顔をする。
「認識のスピードにおいて劣る己が、貴方を狙い撃つなど土台無理! だが、己自身があなたのスピードに追い付ければ、その差はなくなる! 思考速度も動体視力も、全て追いつければ!」
「可能と思うか、その巨躯で!」
「ああ……可能さ」
ヘラクレスの体が帯電する。
……否。雷を纏うのではない。指先から、雷そのものに変わっていく。
「……あなたは」
ケイローンの声に動揺がみえる。
「己自身が雷となり!! 雷の視力、雷の速度、雷の思考速度を持てば! 必ずや、貴方に届く!」
雷電。
肉体を失い、人型の雷となったヘラクレス。その姿、まさに雷神。
「捉えたァアーーーーーーッ、先生!」
視覚した。ケイローンは今、ヘラクレスの右斜め前で弓に矢をつがえている。
「覚悟ォオーーーーッッ!!!!!」
雷拳を握り、雷の速度でヘラクレスが跳躍するーー
「がっ!?」
「先生……己の、勝ちだ」
雷そのものとなったヘラクレスの剛拳が、ケイローンの上半身を掴む。
「ごおおおおおあああああああああああ」
感電。
水をかけたハリガネムシのようにケイローンがのたうち回る。
黒焦げになった人馬は、ヘラクレスによって丁重に地面に降ろされた。
『第四回戦勝者、ヘラクレスーーッ!!!!』
無慈悲なアナウンスが石造りの闘技場に響き渡る。
「先生……」
「よいのです、ヘラクレス。あなたがここまで成長した……そのことが私には喜ばしい。貴方なら、きっと神々の王に……」
それだけ言い残し、ケイローンは事切れた。
「先生ェーーーーーーッ!!!!!!!」
英雄の慟哭が、憎らしいほど青い空に響いた。




