144. 幕間 新時代の到来
「ふ、ふふふ……」
闘技場の中心に立つヘラクレスが二階席を見上げる。
「見ていてくださいましたか、父上! これが己の力! 貴方の息子は、ここまで大きくなりました!!!」
『…………』
二階席からは何の返答もない。だが、ヘラクレスは満足げに笑っている。
笑って、いた。
「ごはあぁ!?」
ひときわ大量の血を吐き、ヘラクレスがその場にひざまずく。
『おおっとヘラクレスが倒れた!? 救護班、救護はーん!』
実況の妖精が急かして呼びかける。すぐに何人かの女性のニンフが駆けつけ、ヘラクレスに薬を飲ませようとする。
が、
「要らん!」
「!? 何を仰せでヘラクレス様!」
ニンフ達が慌てふためくが、ヘラクレスは彼女らを右手で制す。
「この苦しみは己の犯した失態の対価! 最後まで味わわねばならないッ」
「馬鹿なことを! ネクタルを飲めば治ります、早くお飲みに!」
『無駄だ』
低い声が闘技場に響く。
二階・特別席に、白髪の神が立っている。
「ゼウス様!」
『ヒュドラの毒にはどんな薬も効かん。ネクタルだろうと、それを凌駕する薬だろうとな』
「し、しかし……!」
『ここは死ぬのを見守るしかない。今日の戦いはこれまでだ。新たな肉体を用意し、ヘラクレス復活の準備に入れ』
「……はっ!」
ニンフたちは返事と裏腹に、後ろ髪を引かれるように去っていく。
それを見送るヘラクレスは、苦悶の中でも笑みを浮かべていた。
「ふ……やはりこうなる運命か、ヒュドラ……」
そう残し、神となった英雄は倒れた。
☆
「ヒュドラ……」
親友の消滅を、ラードーンはまだ受け入れきれずにいた。
天界は魂が住まう国であり、肉体を失ったとしても新たな肉体を作って復活できる。しかし、そう分かっていても、あそこまでの完敗を見てショックを受けないわけがない。
呆然自失の状態になっていると、庭園に立つドアが叩かれる。
ラードーンが首の一本を伸ばしてドアを開けると、見知った顔が立っていた。
「カルキノス……!」
「ラードーン……」
蟹の表情は暗かった。
「あんな、あんなのってないよ! ヘラクレスが雷を操れるなんて、誰も知らなかった! あんなのヒュドラだって太刀打ちできないよ!」
「ああ……」
慟哭するカルキノスに、ラードーンはかける言葉もない。
「僕は悔しいよ。僕にはヒュドラの仇を打てない……その資格を僕は持っていない。そのことが今、たまらない」
「…………」
ラードーンは何も返さない。だが、一つの思いを受け取った事は感じていた。
「僕がもっと強ければ! ヒュドラを守れるくらい強ければ、あの時だって……!」
「もうよせ。過ぎたことは忘れよう」
頭を抱える蟹の背を口のひとつで舐めて、ラードーンは励ました。
「任せろ。ヒュドラの仇は、俺が取る」
『何が仇かーーーーっ!!!!!!!』
「「!?」」
聞き慣れた高い声が庭園に響く。
「ヒュドラ!?」
「ヒュドラ、ヒュドラなのかい!? どこにいるんだ!」
ラードーンとカルキノスはめいめいにその友の名を呼ぶ。しかしその姿はどこにも見えない。
『ここじゃーーーーーーっ!!!!!』
と、やけに低い場所から彼女の声が聞こえた。
「……おい」
「まさか……これがヒュドラなのかい!?」
ラードーンとカルキノスは、度肝を抜かれた。
カルキノスが入ってきた、開けっぱなしのドア。その下、庭園に生える草花の陰に、小さな木彫りの蛇が置いてある。
声は、まぎれもなくそこから聞こえていた。
「ほんとにこれがあの!?」
『何を驚くことがある。少しくらい見た目が変わったくらいで取り乱すでない、凡骨ども!』
「「少しじゃないから取り乱してるんですが!?」」
二匹が驚くが、木彫りの蛇はカタカタと身体(?)を震わせる。
『肉体など所詮は魂の器よ。だが、我ら怪物の肉体は再生成に時間がかかるそうでな……しばらくここに入っていろとさ』
「そうだったのか。誰か説明でもしてくれれば良かったんだが」
「ふふ、でもなんかかわいいね」
カルキノスが鋏で木彫りの蛇をちょいとつまんで背中に乗せる。
『な、なんだとう!? この不死の毒蛇に向かってかわいいとはなんだ』
「だってかわいいんだもーん、うりうり」
『あ、こらくすぐったい、やめろ!!』
鋏の先で木彫りの蛇をくすぐるカルキノス。ヒュドラは笑い転げている。
「……ふ」
ラードーンは生暖かい目で、イチャつく二匹を眺めていた。
☆
「ヘラクレス……やはりか」
ところ変わって闘技場二階特別席。神王ゼウスは、大理石の玉座の上で頭を悩ませていた。
「他の半神の子らと比べても、強すぎるとは感じていた。……やはり、余の血を濃く受け継いでいたか」
すでに、若かりし日のゼウスの再来との噂が観客席に広がっている。雷を操り、あそこまで強大な力を見せつければ当然だろう。
「できればお前には、権力争いとは無縁であって欲しかったが……この余の後継者をめぐる争いに、必ずやお前は巻き込まれていくだろう」
そして、兄弟たちと争うことになる。
現在、ゼウスの後継者は複数存在する。最有力とされるのが、ゼウスの頭部から生まれた知恵の女神アテナ。正妻ヘラの子で最も勇猛果敢なアレス。聡明な太陽神アポロン。カリスマ性に長ける葡萄酒の神ディオニュソス。この四柱が最有力候補だと言われていたが、そこにヘラクレスも参入することになる。
「本人の意志とはかかわりなく、な」
ゼウスは再びため息をついた。
「王の任は、ただ強いだけでは務まらん。民の心を知り、民に寄り添える者だけが就ける。その点では、もともと人間であり、さまざま過酷な運命を経験したお前は適任だろう。
……だが、やはりお前は戦士。常ならざる力を生まれつき得てしまった戦士だ……常人とは価値観が違う。お前には無敵の盾として、神王を守ってもらいたいのだ……」
眉間に皺を寄せて、ゼウスは闘技場に倒れたヘラクレスを見つめた。
「お父様、何かお悩みですか?」
「む……」
石の扉の向こうから鈴のような声が聞こえる。
「いや、大した事ではないよ、アルテミス。入りなさい」
「はい」
ゼウスが促すと、石の扉がひとりでに開き、小柄な女神が姿を現した。
「どうしたのだ?」
ゼウスが問うと、青白いロングヘアを伸ばした少女神は微笑する。
「いいえ、大したことではありませんわ。アポロンお兄様とヘラクレスの勇姿を、お父様と一緒に見たいと思って」
「そうか……」
ゼウスは苦笑した。
そんな父の素振りも気にせず、アルテミスはゼウスの玉座の肘かけに座る。
「ねえお父様。この戦いには、お父様の後継者といわれる者たちがほぼ全員参加していますよね」
「ああ、そういえばそうだな」
アテナ。アレス。アポロンーーそして、ヘラクレス。ディオニュソスを除く全員がこの戦いに出場している。
「だったら……この戦いでヘラクレスと最も良い戦いを演じた者を、お父様の後継者にするというのはどうかしら?」
「……!」
驚愕するゼウス。アルテミスの長いまつげが、妖しく歪んだ。