自覚
「終わっ………………た…………」
光が収まって、理里はその場にどさっと両膝をつく。
目の前には、自分が石化せしめた、有村大河の像がある。しばらくそれから目を離せないでいると、ぴしっ、何か固いモノがひびわれる音がした。
「あっ…………?」
石化した大河の頬に、亀裂が一筋、走っている。
だんだんとその亀裂は、ぴしぴし、みしみし、と硬い音を立てながら全身に広がり。
ついには、大河の身体はばらばらに砕け散った。
「うっ…………おえっ」
その一部始終を見ていた理里を、唐突に吐き気が襲う。
「うっ……ううっ」
せり上がる胃の中のモノたちを、腹に力を入れ、口を膨らませて、ぐっ、と抑える。
ひとりの人間だったものが、今はただ石の「部分」となって泥沼に転がっている。腕、脚、中心から二分された胴、筋繊維、血管、リンパ管、大腸、小腸、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、胃、肺、心臓、そして四つに割れた頭部からのぞく右脳と左脳――
そこで、ダメだった。
「――――っ!」
吐いた。全て吐いた。中にあったもの全部吐き出した。つん、とくる胃酸の臭いが鼻腔を刺激して、さらに吐いた。
もう吐くものがないくらい吐いても、まだ透明な胃液を吐いていた。全て、全て、全て全て全て吐いてしまって、再び前を見た。
もう大河の身体はほとんど残っていない。床に落ちて割れたチョークのような欠片と粉が少しだけだ。よろよろと四つん這いでそこまで行って、それを拾い上げた。
「はあ…………はあ…………」
塵になって消えていくそれらを目にして、悟った。
「おれが……ころした…………」
先ほどまで彼は動いていた、言葉を発していた、血液を身体中に送っていた、息をしていた、考えていた。その全てを自分が止めたのだ。あたりまえのように行われていた生命の活動を、この自分が止めてしまったのだ。
「りーくん……だい、じょうぶ…………?」
近くの茂みの中に倒れている珠飛亜が、か細い声を発する。
「ああ……珠飛亜……」
今にも泣きだしそうな、嗚咽混じりの声で、理里は姿の見えない珠飛亜にすがろうとした。が、
「来ないで。蜂に刺されてボロボロの顔なんて、りーくんに見せたくない」
「あ、ああ……わかった」
仕方がないので、理里はひざ立ちのまま話すことにした。が、もう立つ気力もなかったので、脚を曲げて正座した。
「俺……人を殺しちまった。さっきまで、俺と同じように生きてた人間を……おれはっ」
地面にくずおれる。
理里は人間ではない。だが、人間の世界で、人に化け、人と同じように生きてきた。
そんな「人間のような怪物」の理里が人を殺すことは、人が人を殺すのと何も変わらなかった。
「オレ……オレは、とんでもないことをっ」
「……りーくん」
珠飛亜の顔は見えなかった。しかしその声は、どこか辛く、もの悲しかった。
「……罪を背負って生きるのは、とてもつらいよね。……だけど」
一度言葉を切って、彼女はさらに続ける。
「『どんなことをしても生きぬく』……それがわたしたち怪物の正義」
「人を殺してもか!」
「うん、そうだよ」
珠飛亜の声には迷いがなかった。
理里は姉のまっすぐな言葉が恐ろしくなった。人の中で生きてきて、なぜそんな考えに至れるのか、とんと理解できなかった。
だが、珠飛亜の言葉には続きがあった。
「でも、今のその罪悪感を忘れちゃいけないよ。
わたしたちの生きる権利は誰にも否定できない。でも、他人を殺してまで生きる苦しみや悲しみを忘れた時、わたしたちはきっと『獣の道』すら外れてしまう。
いくらわたしたちが人間でないとしても、この世界で生きるマナーを忘れちゃいけない。そのマナーって何だと思う?
愛、だよ。他者を愛し、己を愛すること。
どんな生きものだって自分の子を愛する。他の同種との争いもなるべく避ける。でも、己を守り、愛するものを守るとき、生きものは徹底して戦うんだ。
それがきっと、この世界で生きるための資格。『愛』を持たないものは、もはや獣ですらないよ。
それを覚えている限り、りーくんは、きっとりーくんでいられる」
「珠……飛亜」
だんだんと、意識が深層へ向かっていく。眠い。
ぬかるんだ泥の上に理里は倒れる。だが、姉の愛は、我を失ってほしくないという願いは、しっかりと感じていた。
(俺……決めたよ、この、『左眼』の名前)
暗くなる視界の中で、思いついた、あの名前を理里は記憶に刻み込む。
(名は、"蛇媓眼"……俺たちのひいばあさん、蛇神メデューサにあやかった名前さ。
俺は、多くの英雄をこれから殺すことになるだろう……この禍々しい凶器には、多くの人々を犠牲にした神の名前がきっとふさわしい。
……けれど、どれだけ屍を積み重ねようとも、俺は生きるのをあきらめない)
そう思いながら、理里はふたたび、自分が殺した男の断片を見る。
(俺の……俺たちの生きる権利は、誰にだって否定させない)
桜彩る、四月の夕。空を覆った灰の雲は、いつの間にか山吹色の焔に変わっていた。
☆
この戦いの結末を、公園近くの電柱の上に一人立ち、見物していた者がある。
橙色の空、風になびく黒髪と、赤いチェックのスカート。全てを見届けた切れ長の眼は、その勝者を嬉しそうに眺めている。
「あの状況からアリスタイオスを下すとは興味深い。もう少し熟れるまで待とうと思っていたが、そろそろ収穫の時期かねぇ……
……ふふっ」
気取った笑みを残した次の瞬間、その影は電柱の上から消えている。
ひゅう、ひゅう、吹きすさぶ疾風。理里たちの次の戦端は、既に開き始めていた。