122. 喪失と邂逅
《現在――2018年5月9日》
「……」
月が見えない黒雲の夜。
訳もなく目が覚めた理里は、冷たい風が吹くベランダで、雲の向こうに微かに光る半月を見つめていた。
(珠飛亜が、死んだ……)
復讐を果たした後も理里の心は晴れない。
麗華の城での戦闘後、吹羅と綺羅が理里と恵奈を助け出してくれたそうだ。だが目を覚ますと、隣に珠飛亜がいなかった。あの太陽のような笑顔が傍に無い。いつもあったのに。昨日までそこに咲いていたひまわりの花を、突然切り取られたような。
(俺のせいだ……)
目の前で石になっていく姉の姿が、右だけの眼に灼きついて離れない。
(俺があの時、蛇媓眼を使わなければ……)
まさか往魔麗華が、石化の光を反射する手段を持っていたなんて。
考えなしに蛇媓眼を使ってしまった自分の失態だ。
(死ぬほど、迷惑してたはずなのに……)
彼女ひとりがいないだけで、怪原家の空気は沈鬱としていた。
誰も話さない。そのことについて触れない。吹羅は明るく振る舞おうと努めているが、空回りしている。
特にダメージが大きかったのは母だ。
希瑠も瀕死の重傷を負い、まだ意識が朦朧としている。しかし、先に目覚めた恵奈は珠飛亜の死を知って、誰よりも傷ついた。ヘラクレスとの戦闘で相当な怪我を負い、肉体的にも動ける状態ではないが、心の方はさらに重傷だ。普段通りに振舞っているが、常に何かをこらえているような表情をしている。
怪原家から家族がいなくなるのは、これで三度目だ。さすがの恵奈も精神に限界が来ているのだろう。
(せめて俺がしっかりしないと……なのに)
今まで通りの事ではあるが、母が打ちひしがれている今、特にその義務感をおぼえている。
今まで自分は弱かった。だが、力を手に入れた今、皆を守ることができる。
くり抜いた左眼は、とりあえず冷凍庫に入れて保存している。身体を離れてしまったが、まだ石化の能力は使える。外出時には冷媒で冷やしながら、常に持ち歩くようにしている。これがないと身を守れない。
(……いや、守れなくてもいいのか? 珠飛亜を殺した俺は、もう「正しく」ない……そもそも人を殺してる時点で、正しくなかったけど……)
そんな自分に生きる価値を見出せない。
前に兄にも言った事があるが、人は自分が正しいと思っているから生きていられる。その「正しさ」の性質は人によって異なるが、どこかそう感じている。あるいは、自分のなすことに何らかの側面での正当性を感じている。自分が間違っていると知った時、人は自分の存在価値を見失う。
(いっそ死んでしまった方が、楽な気分だ……)
あのやかましい姉のもとに行くのは癪だが。
微かな光が頭上に漏れる。雲が割れ、月の光が理里を照らす。
(このまま月にでも行けたらな……)
ウサギが餅をつく夢の国。本当はそんなファンシーな生き物なんて居ないあばた面の荒野だけれど、それでいい。
かぐや姫だったなら、いつか月から牛車が迎えに来てくれるのだろうか。そうだ、俺はこの一家でただひとりの雑魚。実は初めから貰い子で、本当は竹から生まれた……なんて、そんな訳はないか。
月の光を背に、黒い影の鳥が飛んでいる。あの鳥のように翼を生やして、夜空のどこまでも飛んでいけたら。その時は宇宙の果てで塵になって消えよう。
鳥の影がだんだん近付いている。きっとこの家を飛び越えて、どこか理里の知らない、あるいは見知った場所まで飛んで行くのだろう。そう、遠く南の島まで。
「……あれ」
理里は気付く。ひょっとしてあの鳥、ここに向かっていないか……?
鳥の影はどんどん大きくなる。Vの字が一直線に飛んでくる。理里の視界のなかでそれはみるみる近づき、大きくなり、もしかしてこれは鳥ではな、
「いぎゃあぁ!?」
「うわあぁ!?」
影はベランダに突っ込む寸前で見えない壁にぶつかった。
怪原家の外周には父・テュポンが張った結界が張り巡らされている。その結界は怪原家の者が出入りする時に入口だけ解かれるが、その他の場所の結界が解除されることは無い。理里が鳥だと思っていたものは、それにぶつかったのだ。
「お、女の人……?」
悲鳴は若い女性の声だった。何か翼らしきものを生やした影が、怪原家のベランダに突っ込もうとし、阻まれて落ちた。
恐る恐る理里がベランダの下を見ると、
「い、いたいですわ……! いたいですわぁ~~~~!!!!」
お嬢様口調の、三十歳前後の女性が隣の家の庭で泣きわめている。
(……女の人……だけど)
女性の薄紫の髪は、ハーフアップのポニーテールにされていて、長いその髪が、ひざまずいて泣きわめく彼女の周りに広がっている。
そして彼女の靴から、およそ日常では見かけることが無いものが生えている。
(……白金の、翼?)
靴の側面から伸びる、白い金属でできた一対の翼。その羽根の一枚一枚が、青白い光の粒子を噴き出している。関節部分には水色の宝玉が埋め込まれている。
(怪しすぎる……!)
明らかに現代日本のテクノロジーではない。いや、科学技術で生まれたものかどうかすら分からない。あの神々しい見た目は、もしや天界の産物か?
そう邪推している間も女性は泣き続けている。隣の家は留守のようだが、向かいの家のおばさんが2階の窓から顔を出した。
「……ほっとくわけにもいかないか」
理里はベランダのガラス戸を開け、家の中に戻った。




