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120. ひだまりの記憶

「ム!?」


 ヘラクレスはその殺気(・・)を感知した。


「きさま、まだ息が……?」


 すでに理里の左手に握られた邪眼は輝きはじめている。最後の力で抵抗するつもりか。


「面白い。だがその前に、キサマの息の根を止めてやる!」


 にかっ、悪魔像のような口を開き、ヘラクレスは剛拳をふりかぶる。


「死ね!」

「お……まえらを……ゆるさ、ないッ!」


 ごう、と邪眼の光がヘラクレスに向けて放たれる。彼はそれに向かい、一直線に跳ぶ。


「無駄ァ!」


 石化の光など知った事か。あとでネクタルで治せばいいのだ。

 光と巨体がぶつかり合う、寸前に――


 彼は、黄金の光に飲み込まれようとしている少女を、見た。


「……………………!」


 少女は心身を喪失していた。ヘラクレスの言葉によって。

 鏡の鎧を作る機転など、もう彼女は持ち合わせていなかった。


 ヘラクレスの判断は速かった。





 往魔麗華は――否、オムパレーは気付いた。

 懐かしい温もりが、自分を包んでいる事に。


「ヘラ……クレス……?」


 その腕は暖かかった。かつて潮騒が聞こえる中、陽の光の照らす甲板の上で、自分を抱いてくれたときのように。


「ああ……やはり安心するな、お前の腕の中は……」


 そう言って少女/女王は、たくましい彼の胸にひたい(・・・)を寄せる。


 夫に先立たれ、背負ってきた女王の責任。一国の主として、民を守らねばならない。その重圧は想像を超えていた。


 彼女の国、リュディアは交易上の要衝であった。東の大国フリギアと西のギリシア世界に挟まれ、両国の間で国を保たなければならなかった。

 他人は信じない。それが、自国の王族との勢力争いと、外交での騙し合いの中で生き抜いてきた彼女の信条だった。そのストレスの為に、侍従の男どもを女装させて遊ぶこともあった。


 そんな時、ヘラクレスがリュディアを訪れたのだ。


 殺人の罪を清めるために奴隷となった彼を、オムパレーは初め玩具のようにしか思っていなかった。他の侍従と同じように屈辱を与え、ひとり愉しんだ。


 だがヘラクレスは、恥じるようすを一切見せなかった。それが己の罪に対する罰だとして悲観するわけでもなかった。ただ、「女王様は面白い趣味を持っているのだな」と、笑うばかりだった。


(あれは……気に食わなかったな……だけど)


 森の中で刺客に襲われた時、ヘラクレスは身を挺して彼女を守り、敵を棍棒で打ち倒した。多くの矢を身体に突き立てたまま、彼はただ一言「大丈夫か」と、心の底から心配そうな顔で言った。


 自分の痛みなど何も気にしていない。ただ、オムパレーだけを案じている。そんな人間が、まだこの世に存在したのだ。


 そう気付いたとき、彼女は涙を流さずにいられなかった。女王になったときに捨てた心が、あとからあとから溢れて止まらなかった。そんな彼女を、ヘラクレスはただ黙って、優しく抱いていた。


(懐かしいな……オムパレー。こうして、この身体を捧げて誰かを守り抜くことが……(オレ)の、一番の幸せなんだ)


「ヘラクレス、何を言って……」


 陽光の中の彼は答えない。


「眠ったのか、ヘラクレス。ならば私も、眠るとしよう」


 そうして女王は、愛する者の腕の中で、眠りについた。





「はあ、はあ……」


 理里は息を荒げている。


 全身に悪寒が走っている。身体が震えている。意識を保っているのがやっとだ。


(この状態での二発目は、流石にヤバかったぞ……!)


 なぜだか分からないが、目覚めた時点で理里の身体はボロボロだった。右腕と左脚の関節が逆に曲がっており、折れた肋骨が胸から飛び出している。加えて、すでに蛇媓眼を一度使ったあとだ。


 だが、目の前の巨人(ヘラクレス)は、まだ倒れていない。


「クッ……なかなかに、キツイな……!」


 背を向けていたダルマの眼がぎょろりとこちらを睨む。

 しかし男の身体は、すでにほとんどが石に覆われている。

 ヘラクレスは麗華をかばい、その背に蛇媓眼の最大出力の光を受けた。山のように盛り上がった背筋は完全に石になり、残っているのは顔と、両腕の二頭筋くらいだ。


 理里があざ笑う。


「おまえの、負けだ……! 石化は止まらない! その腕ではネクタルを飲むこともできない……! くだらない女を守ろうとしたのが仇になったな……あっはは……


 ……あ?」


 びちゃっ。

 理里の頬に何か、液体がかかる。


 見ると、ヘラクレスが阿修羅のような眼で理里を睨んでいる。


「オムパレーを侮辱することは許さん。この気高い女王を」


 彼が唾液を吐いたのだ。十歩も離れている理里に向かって。


「おまえも、侮辱してただろうが……」

「己以外にはさせん。外道が」

「無茶苦茶……だな……」


 それだけ言い残して、理里の意識は暗闇に沈んだ。





「ここで、倒れるのか……」


 ヘラクレスは、少し欠けた丸い月が光る、()()()()()()夜空を見上げる。


「やはり対策も何も無くては、あの瞳には敵わんか……

 そりゃあそうだ、あの伝説の蛇神(メドゥサ)と同じ。いや、それすら超える邪眼だ」


 がっはは、とヘラクレスは笑う。その度に石になった身体がきしみ、砂が落ちる。


「後悔はないぞ! (おれ)はもう、全てを手にした……!

 得られる栄光は全て得た! 一人の女の為に消えるも、また一興!」


 ただ、後ろめたい事があるとすれば――



「こんな強敵を残して先に逝く事、か……」



 あとは頼んだぞ、テセウス。おまえが、決着を付けるのだ。


 そう願い、至高の英雄は石像と化した。

 達磨の瞳から、爛々とした光が、消えた。





「御注進! 御注進!」


 白亜の都、オリンポス。その宮殿、「Ⅹ」の扉にひとりの天使が駆け込んだ。


「どうしたんだい、騒がしいね……」


 扉の中には、あらゆる贅を尽くした、それでいて雑然とした部屋が広がっていた。


 最も目につくのは古今東西の楽器。竪琴からバイオリン、トロンボーン、クラリネット、バンジョー、ティンパニ、篳篥(ひちりき)、エレキギターまでが雑然と床に置いてある。その他、トーテムポールや琥珀、陶人形、マトリョシカなど、各地の珍品もその中に混ざっている。壁には能面、ヴェネツィアのマスク、南米のシャーマンの仮面など、世界各国の仮面が飾られている。その中に一本、立っている帽子かけには()()()()()()がひとつ掛けられていて、部屋の奥の祭壇のような場所には、()()()()()()()()()()()が厳かに置かれている。


 その中に、藤色の髪をした青年が寝転がっていた。


 痩身長躯の青年は、右手に持った羽根ペンで、男らしい体の天使を指す。


「この僕は忙しいんだ。今も新作の詩に取り掛かっているところなんだぜ。

 その僕の貴重な時間を君に渡す価値がある伝令かい?」

「お休みのところ、失礼いたします! しかし急を要する知らせにて!」

「なんだい」


 面倒臭そうに青年は身体を起こす。


「それで? 急の知らせとは」

「はい……」


 天使は厳めしい顔を歪める。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()






《第1部第5章 『姦淫女王の城』 了》

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