119. 再起
(ここは……どこだ……おれは……どこにいる……)
(おれは……何だ……? 何も……思い出せない……)
彼か? 彼女か? あるいはそのどちらでもないのか。その者は今、空洞だった。
目の前は真っ暗だ。特に左側の視界には、二度と光が差すことは無いように思える。それだけは何となく、直感で分かる。
(おれは……何者なんだろう……)
言葉は覚えている。論理的思考にも耐えうる。しかし、自分が誰なのか、何を為してきた存在なのかが分からない。ありていに言うと、心に穴が空いている。
歩こうとしたが、四肢を動かせない。ねばねばとした糸のようなものに絡め取られていて、動けない。
(なぜここに縛られている? 縛られているということは……何か、罪を犯したのか……?)
それに対する罰なのか?
思考を止めたら、自分の精神はただ衰退していって、純粋な新品に還っていきそうな気がする。言葉も何も知らない、再び生まれるための新品に。
辛うじて今の自分には何かが残っている。それを思い出さなければ、二度と元の場所には帰れない気がする。元いた、暖かい場所には……
(寒い……)
ここは寒い。暗い。凍えるようだ。肉体ではなく、精神が。
自分は、いま肉体を離れているのだと何となく感じる。あるいは眠っているのか……
(だけど、起きなきゃ)
ここは寒い。悪夢だ。温かい場所へ、帰りたい。
ひとりではない、だれかのいる、ところへ。
どぅううん!!!!!!!
(!?)
真っ暗な空間が揺れた。大地震でも起きたのか、もしくは目の前で最大音量のコンポを鳴らされたような衝撃だ。
だが今の衝撃で、ぺり、と、手足を拘束する糸が剥がれたのを感じる。
(……よし……これなら……)
金縛りに遭っている身体をどうにか動かそうとするように、彼/彼女は全身に万力を込める。
(っ……ぐっ……!)
みし、みし。少しずつ、少しずつ。
あと、少し。
(っあ!!)
蜘蛛の巣から、彼は解き放たれた。
(何もわからない……けど、歩き続けよう。
いつか光に出会える時まで)
そして彼は、暗く長い道を、あてもなく歩き始めた。
☆
……そして彼は、全てを思い出した。
肉体が記憶を教えてくれる。
右目だけの視界には、半壊した城の天守閣の、最上階とおぼしき光景が広がっている。金髪の大男(見ているとなぜか胸騒ぎをおぼえる)が欠けた木の手すりから身を乗り出しており、その近くでピンク色の髪の少女が、虚ろな目で床を見つめている。
そして自分は意識を失う前のように、ぼろぼろのメイド服を着て、左手には丸い、ぬるぬるしたものをしっかり握っていた。
「戻って……これたのか……」
全身が痛い。おそらく体の骨が何ヶ所も粉砕されている。
だが俺は――怪原理里は、大丈夫だ。この、左眼さえあれば。
金髪の大男が何か独り言をつぶやく。
「奴の気配が消えた……テセウスが宿主を打ち取ったのか?
だが、奴が弱った様子はなかった……どういうことだ」
あの男を見ていると、無性に胸騒ぎがする。まるでカエルが遠巻きに蛇を見ている時の感情のような……。
(珠飛亜は、どこに……)
見渡すが、この天守閣の頂上のどこにも珠飛亜の姿は無い。理里が意識を失う前には、石化しかかっていたはずだ。
(早く助けないと、いけないのに……
もしかして、もう風化しちまったのか……!?)
(だとしたら、俺は……!)
珠飛亜が死んだのは自分のせいだ。
(俺が……俺が、珠飛亜を……! そんな……)
理里は家族を守るために、人の命を奪う覚悟を決めた。そしてそれを実行に移した。その結果、敵である英雄の命は奪えずに、珠飛亜の命を失わせる事になってしまったというのか。
(……いや、まだそう決まった訳じゃない。どこかに落ちたのかも)
必死に自分を落ち着かせようとするが、身体の震えが止まらない。
珠飛亜が、いない。この場所にいたはずの彼女がいない。それだけでどうしようもないほど理里は動揺していた。
(俺が……俺が、本当に……!?)
考えなしに邪眼を使ったせいで、珠飛亜を傷つけてしまった。否、殺してしまった……のか。
(珠飛亜……俺のせいで、珠飛亜が……!)
動揺。動揺する。
(俺が間違っていたのか? 俺は、ただ家族と生きていたかっただけだ……! それを邪魔する人間を排除しないと、俺たちは生きることさえ許されない! 生きるために……そのためだけ、だったのに)
誰かが欠け落ちるなんて、考えてもみなかった。ずっと皆で生きていくために、戦っていたのに。
(俺は敵を殺す決意をした……俺たちには、英雄と仲良くできるような余裕なんてない。そんな余裕をあいつらは与えてくれない。殺さないと、生きていけないのに)
(あいつらは余裕があるのに。たとえ死んだって二度目の人生だ。もう悔いなんかないだろ。だけど俺たちは違う。新しい存在として、生きていこうとしているんだ。好きで相手を傷つけたいわけないだろ。そうしないと仕方ないんだ……なのになぜ、俺たちが傷つかないといけないんだ)
沸沸と、怒りが湧いてくる。
(そうだ……そもそも、邪眼の光を反射したのはあの女だ。俺のせいじゃない。珠飛亜を殺したのはあの女だ……
あの女と金髪の男は、珠飛亜が消えていくのをあざ笑いながら見ていたんだ……そうだ、きっとそうに違いない)
そう思うと、目の前の二人への憎しみが、烈火のごとく燃え盛る。
(お前が……おまえたちが!)
背を向けている二人は気付かない。
邪眼の光が、ふたたび輝く。




