118. 黒牛と白犬
「何を黄昏ている?」
「どわぁ!?」
唐突にかけられた声に、中庭の噴水前を歩いていた希瑠は飛び上がった。
「誰だ!? ……いや、その声は……!」
「『かけっこ』以来ですね。ケルベロス」
暗い森の中、背後に手塩が立っていた。右手に黒い剣をたずさえている。
「感じる……おまえの中から、奴の力を」
手塩が剣を正眼に構える。
「……なんの話だ?」
希瑠はぼりぼりと首の後ろを掻く。
「……とぼけるな。おまえの中に、居たのだな」
ごわ、と手塩の体が黒く染まる。
ぼき、ごき、と異音を立てて、人型の影が歪み、夕陽に当たったように長く伸びていく。
ただしそれは地面にではない。彼の立つ地面から、垂直にだ。
そそり立つ牛のような角。倍以上に伸びた身長、その倍以上に太くなった剛腕。
牛の頭に、人の体。その歪な姿を知らぬものはいない。
「名称『Minotaurus』反映」
それは、手塩の前世での宿敵。彼を英雄たらしめた、最大最強の敵の姿。
「貴様を……潰す」
剛腕の半人半牛が、大剣を構える。
☆
(……やべ、何言ってるか全然わかんねー)
殺気立つ手塩を前に、希瑠は戸惑っていた。
『奴』とは誰だ? 『中にいる』とは? そして、この男はなぜこれほど憤っている?
(……けど、まあ)
巨拳が鼻先をかすめた。
希瑠はそれを軽々と避ける。
「英雄が怪物になんのか? 滑稽だねェ」
『どこかの学者が言っていた。「怪物を倒す最も効率が良い方法は、自らが怪物になる事」だと。
私は、最も効率が良い方法を取っていだけだ』
野太く、低く変わった声で手塩/ミノタウロスは剣を振り下ろす。大地が割れる。手塩が巨大化するのに合わせて剣も巨大化している。
「てめーのそういう機械みてーなとこ、俺ぁ嫌いだぜ」
銀の炎が希瑠の身体を包む。
(……と啖呵きったは良いが、もう限界が近いんだよ……)
ピグマリオン戦の後、マッチョ共との鬼ごっこ。加えて「空間歪曲」という大規模な能力の長時間発動。すでに希瑠は憔悴しきっている。
(……出し惜しみは無しだ)
キッ、と希瑠は手塩を睨む。
『……死ね!』
「こっちのセリフだぜっ!」
牛が走り来る。希瑠は両手をそれにかざす。
「『重力変向』!!」
希瑠の周辺の白い敷石が、地面から引き剥がされ、大つぶての雨となって手塩を襲う!
しかし――
「……効いてねえ!?」
牛人は瓦礫の雨を蹴散らしながら突進してくる。
『GmOOoooooooooooo!!!!!!!!!!』
「クソッ……」
ここは防御に転ずべきだ。『重力変向』はおおよその物を弾き返せるが、その重力を超えるパワーには抗えない。
ミノタウロスの黒剣はすでに振り上げられている。
「……『空間歪曲』!(一瞬だけ!)」
振り下ろされる剣。その軌道は希瑠に当たる直前で彼を強引に避け、白亜の床石に深い溝を刻む。
『その能力……やはり!』
ミノタウロスは何かを得心したように唸る。
「だから『やはり』って何のことだっての!」
『まだ分からないのか……! 貴様がテュポンを宿しているのだろうが!』
手塩の言葉に希瑠の動きが止まる。
「なん……だって?」
(行方不明の親父が、俺の中に……?)
『我々は、お前たち怪原家の誰かに魔神が宿っていると信じて戦ってきた……奴をおびき出す為に! しかし奴は、一向に姿を見せなかった……
だが今ヘラクレスが、ここに奴が居る事を感知した! そして貴様のその強大な能力……黄色い瞳! もはやお前の中に奴が居る事は、決まったも同然!』
そう言ってミノタウロスは再び剣を構える。
「……」
希瑠はまだ混乱している。しかし徐々に冷静さを取り戻していた。
(俺の中に親父がいる、だと? 馬鹿も休み休み言いやがれ……だとしたら出てくるタイミングなんていつでもあったよな。俺に言葉のひとつも掛けてきたはずだ。それをしない親父じゃねえ……だが)
何か事情があったのかもしれない。そこのところは誰にも分からない。
「……くよくよ考えたってしょうがねえ! 今は戦いに集中するぜ」
ふたたび希瑠は両手を手塩にかざす。
『守るだけでは私には勝てんぞ!』
黒牛が突進。希瑠はそれをヒラリと躱し、
(精神力は限界だ……なら、膂力には膂力!)
わぉおぉぉぉおおおおおん、と響き渡る遠吠え。
純白の毛が広がり、黒い水に落とした白の絵の具のように、美しい犬の巨体が夜闇を塗ってゆく。
ほどなくして、黒い髑髏の面を被った三首の魔犬の四つ足が敷石を踏みしめた。
『ケルベロス……真の姿を顕したか!』
『お前こそここで死んでもらうぜ、俺たち家族のためになァ!』
『やってみろ! 貴様を倒し、世界を平和に導く! ここで我らの戦いを終わらせる!』
三つ首の白犬の光る牙が黒牛を襲う。
黒牛はそれを真っ向から受け止め――
『GmoooooOOOOOOOOOOOOoooOOooOOOOooo』
『『『WOOOOOOOoooooOOOOOOOOooooOOOOOOOOOOOO』』』
黒毛と白毛が、剛腕と剛顎が、そして漆黒と黄金の双眸がぶつかり合う。
巨獣と巨獣の揉み合い、衝突、格闘は、互いの牙を削り、剣を削り、殴り、斬り、掴み、嚙みつき、蹴飛ばし、血飛沫が舞い肉が躍る。
『GMoooooOOooooOOOoooOOOOOOOO!!!!!!!!!!』
『WOOOOOOOOonooooooOOOoOOOOooOONNNNNNN!!!!!!!!!』
黒牛が咆える。
三つ首の犬が吠える。
両者一歩も譲らない。
白犬が体当たりで黒牛を押し返す。
『GmooOO!?』
ぐら、と牛人の身体が揺れた刹那、三つ首の犬が飛び上がる。月光が白い体毛を照らす。
『WoooOOOoOOoOOOOOooOOOOOOOooOOO!!!!!!!!!!!!!』
髑髏の面がぬらりと輝き、剛爪と尖牙が巨牛を狙う――
しかし。
『Wo…O?』
ケルベロスの身体は、その咆哮をした空中で既に、
(お前……飛ん……)
ミノタウロスの握る黒剣に貫かれている。
牛頭の魔人は、赤茶けた鷹のような二枚の翼を背に羽ばたかせている。
『同時反映 Harpyia。お前の負けだ』
白い巨躯から剣が抜かれ、三つ首の番犬は地に墜ちる。ずしゃあ、と血飛沫が純白の敷石に広がる。
『魔神は現れなかった……お前ではなかったのか……? なら、誰が……』
ぬぬぬ、と体を縮ませて、人間の身体に戻った手塩は首を捻っていた。
「ヘラクレスが感じた気配は、いったい……」