116. 奴が居る
「あね……うえ……?」
吹羅がつぶやく。だが、頭の砕け散った像は返事をしない。
「目障りだ」
さらにもう一発、ヘラクレスが蹴る。
その一撃で、珠飛亜の身体は吹き飛んだ。
手も。足も。胸も。脚も。
原型も分からない。
そのうち夜風が吹いてきて、それらの破片は砂になって消えていった。
「さて……続きだ」
ヘラクレスは麗華が抱えている理里に歩み寄る。
だが、
「何をしている?」
「こ、これは、わたさない……わたしの、人形! もっと、遊ぶの……
おまえには、壊させない……!」
麗華は震えながら理里を抱きしめている。
「……お前のその趣味が、己は心底嫌いだ」
ヘラクレスは理里の肩を人差し指と親指でつまむと、強引に麗華から引き剥がした。
「人の尊厳を奪い、自我のない人形にして弄ぶ。精神を操って自分を愛させる。階下の男どもは哀れだな。そこまでして愛が欲しいのか? その愛は決して健康なものじゃないだろうに」
「だ、誰のせいだと……!」
「己もかつてはお前の奴隷だった……淋しがり屋が、愛しくもあった。
だが、全て昔の話だ。醜くなったな、オムパレー」
瞬間、麗華の顔は真っ青になった。
「みにくい……あたしが……」
瞳が生気を失っている。だらりと腕を垂らして、麗華はその場にくずおれた。
「……さて、最後の一発だ」
ヘラクレスがつまみあげた理里に拳を向ける。
と、
「もうやめろっ!!」
小さな蛇が、ヘラクレスの脇腹を噛んでいる。
「やめろ……! 我らから、これ以上奪うな……!」
吹羅だ。怪物化した彼女の腰から生える一匹の蛇が、ヘラクレスを捕らえていた。
「我らが何をした!? 我らはただ、静かに暮らしたいだけなんだ……! 何もお前たちに迷惑なんてかけてないだろ! それを邪魔するなら、お前を……!」
「ふむ。成体の牙だったら危なかったな」
彼女の毒牙は、ヘラクレスの頑強な肌に弾かれた。
「お前も、邪魔だ」
一蹴。
それだけで、吹羅も、綺羅も、恵奈も、天守の柵を突き破って落ちていった。
「さあテュポン……姿を、見せろ」
砲丸のような拳が、理里を打つ――
「――む」
寸前、拳が、理里の眼と鼻の先で止まる。風圧でメイド服のスカートが激しく揺れる。
ヘラクレスは、理里には見向きもせず、割れた窓の外を見ていた。
「奴の、気配だ……!」
いま彼が感じているのは、先ほどまで彼が蹂躙していた怪物たちと同質の感覚だ。
すなわち、恐怖。
圧倒的な力の差。
(己は怪物には勝てる……だが魔神には無理だ)
怪物はあくまでこの世のものだ。肉体があり、それを滅ぼせば魂と肉体の繋がりが切れ、死ぬ。
だが『神』は違う。神はどの世界にあっても死ぬことは無い。なぜなら、魂=霊体そのものが肉体だからだ。強すぎる魂の力により、肉体を介さずとも人界に存在できる。そして、肉体があるかのように人界の物質に触れ、干渉することができる。
彼らは強い魂の力がなければ存在さえ許されない世界――天界に住まう。ヘラクレスも死して神となったものの、末席にすぎない。半神とはいえ元は人間。本物の神には、勝てない。
その中でも極めつけの魔神の気配が、今、すぐそこに近づいている……!
「テセウス、奴がいる。インドの霊廟風の建物だ」
その先を凝視しながら、ヘラクレスは武者震いを止めることができずにいた。
☆
「そこどけ嬢ちゃん!」
「きゃ!?」
寝ぼけまなこの、パジャマ姿の少女の横を希瑠は走り抜ける。
(使用人の娘か? 良いパジャマ着てやがる)
ちら、とそんな事を考えるが余裕はない。まだマッチョ共が大挙して希瑠を追ってきているのだ。
(あいつらどこまでしつけえんだ! あれほど禁断症状が出るまで放っとく往魔麗華も許せねえ! ペットには責任持ちやがれーっ)
彼らは天守閣を飛び出し、タージ・マハルを模したと思われるこの豪邸の中まで追って来た。時折夜勤の警備員が被害に遭っているが、それを助けている余裕はない。
「「「れいかさまあああああああああああああああああ」」」
(ホラ、もう来た……って、)
マッチョ共の行く先では、先ほどの女の子が座りこんでいる。
(さすがにやべえっ!)
小学1年生くらいか。怖くて動けないらしい。このままでは筋肉ダルマの餌食になってしまう!
「やりたくなかったが……!」
楽園の王。発動すれば、裸であのマッチョ共とハグするような感覚に襲われるだろう。
だが、背に腹は代えられない。
「女の子にはいいトコ見せてえからなっ!」
立ち止まる。振り返る。そして、駆けだす。
「ここで終わらせてやらあ! 全力を出すぜ!」
白い毛が身体を覆う。犬歯が狼のように発達する。両肩からバキ、ゴキ、と犬の頭が飛び出し、髑髏の面がその目元を覆う。
「”楽園の王”……」
放たれる銀の焔。
少女と希瑠を囲うように、ドーム型に展開する。
「……『空間歪曲』!」
「「「「「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!?」」」」」
銀の焔に触れた女装マッチョは、トラックに撥ねられたように弾き飛ばされる。ある者は白い柱に激突し、ある者は廊下の先まで吹き飛び、ある者は同胞ごと噴水の池に落ちていく。
数分が経ったとき、彼らの周辺の床は意識を失ったマッチョで茶色く埋まっていた。
「うっへー、ひでえザマだぜ。この上歩いて行くのイヤだな」
結界と怪物化を解除した希瑠は、くんくんと二の腕を嗅いだ。
「汗臭いのが移った気がするぜ……おい大丈夫か、嬢ちゃん」
パン、と手で身体を払って希瑠は少女に手を差し伸べる。
だが少女は怯えた表情のまま、つぶやいた。
「おにいちゃん、どこからきたの……?」
「え? あ、そっか」
『光学迷彩』を発動していた希瑠は、少女には見えていなかった。彼女からしたら、マッチョが知らぬ間に弾き飛ばされて、希瑠が突然その場に現れたように見えただろう。
「ははは、兄ちゃんは風の妖精みたいなもんさ。君がケガしないように、あの男どもを風の力で吹っ飛ばしてやったんだ!」
(ほんとは空間を曲げたんだが……そんなこと言ってもわからんだろ)
「そうなんだ! だからおめめがきいろいんだね!」
「おお、そうさ……え?」




