109. 自慰行為
(どうする、この状況……!)
希瑠は意識が遠のくなかで状況を整理する。
ピグマリオンの『白銀の手』に操られ、身体の自由がきかない。能力を使おうにも首が絞まっており、酸欠で集中できない。
希瑠の〝楽園の王〟は複雑な能力であるため、発動と行使に非常に集中力を使う。
(異能も使えない、身体も動かせない……どうすればこのヤベエ状況を打開できる!?)
必死に頭を回転させる希瑠に、ピグマリオンが呼びかける。
「余はこれ以上おまえに近づかん。結界の間合いはすでに見切った。このままゆっくり、自らの手で果てていくがいい」
「げっ……」
さらに首のしめつけがきつくなる。もう声も出せない。
(なにか……なにか、この状況を打ち破る方法は……)
必死に探す。毛細血管が切れる音がする。目を皿にして、入念に、奴を観察し――
ふと、その彫像が目に入った。
(あれは……)
ピグマリオンがガラテアと呼んだ象牙の女。おそらく彼が現世で造り直したものだろうが、その造形は前世で造った物にも負けないだろうほど、
美しい。
(ミケランジェロのピエタ並だぜ……)
まるで生きているかのような精緻な造形。睫毛の一本一本、唇のしわまで細かく彫り込まれた像は、かの聖母に通じる不思議な微笑を浮かべている。
(こりゃあ、ゾッコンになるのもわかるわけだ……)
ましてそれが人間になったとなれば、喜びを表現しようもない。そしてそれを砕かれ、魂が失われてしまったなら……。
(……イチかバチか、やってみるしかねえぜ!)
見出した可能性。その一筋の希望に、希瑠は賭ける。
☆
「フン、犬畜生め……わが美の宮殿におまえのような蒙昧を招き入れたことが口惜しい」
ピグマリオンは歯噛みしている。
自分とガラテアの愛の巣。彼にとって神王ゼウスの神殿より聖なる場所に、獣ごときが土足で踏み込んだことが許せない。
「余は貴様らを許さぬ。十五年前のエキドナへの尋問で貴様らの無罪は証明されたというが、テュポーンの天界侵攻を止めなかった責任は重い。奴を匿っていたとしたらなおさらだ」
ピグマリオンは憎しみに燃えている。愛する者を奪われた憎しみに。
「貴様のように一匹ずつ、みずからの手で果てさせてくれる。窒息し、失禁し、恥辱と苦悶をさらして死ね」
慈悲はない。彼にとって怪原家は最大の仇、いくら苦痛を与えようと満たされぬ怨敵。
その怨敵が――辛うじて、口を開く。
「ハッ……うっせえよ、人形フェチのオナニー野郎……!」
「……何?」
ピグマリオンの眉が動く。
「このうえ戯れ言を申すか、下郎」
「オレが何か間違ってるか? この『糸をかけたものを操る』能力で、そこにいるガラテアの依り代も動かしてたんだろ? ラブドールで現実さながらのプレイってなぁー、笑えるぜ」
「貴様余とガラテアを侮辱するのか!」
ぎぎ、と銀の糸が張りつめる。首を絞める希瑠の手がさらに強くなる。
だが、希瑠は揺るがない。
「へへ、図星だろ? そうじゃなきゃその像のスカートのスリット、なんでそんなに大きく入ってんのかねェー」
「黄金比と女性美を究極まで追求した造形だ、貴様ごときが浅い解釈を語るな!」
「女性美! 女性美と来たか! 芸術家サマはその言葉を隠れ蓑に性癖を公衆の面前にさらすわけだ、やっぱりとんだド変態だぜ!」
「こ、この下衆が……!」
ピグマリオンは怒りに我を忘れていた。半妖態の希瑠の首は思ったより頑丈で、いくら絞めても意識を飛ばすにはまだかかる。
「ヘッ、そうかね……現実逃避の引きこもり陰キャよか、よっぽどマシだと思うがね」
「…………何……だと……?」
ぴく、と、ピグマリオンの眉間が動いた。
「余が、逃げている……?」
「おうとも! おまえは現実から逃げてんだよ、そのガラテアの像を使ってな! 行方不明になったカノジョの魂を探しもせずに、ただこの辛気クサい部屋に引きこもってお人形遊び! そんな調子で現実が変わるわけねえだろ!」
「……黙れ」
これまでより強く、ピグマリオンは両手の糸を引いた。切れそうなほどに引いた。自分でも驚くほどの力が出た。不思議と目頭が痛くなるのを感じた。
希瑠ももう顔が青い。しかしその口を、彼は閉じようとしない。
「全部をテュポーンのせいにして、それで何か変わんのか! 償わせたところで彼女が喜ぶのか!? それをお前は想像できんのか! 今お前がやってることに、意味は、本当に、あ、る、の、か……!」
熱く、希瑠は語っていた。真にピグマリオンを、そして彼とガラテアの行く末を案じるようにだ。
ピグマリオンの糸が、わずかにゆるむ。
瞬、間、
「『重力変向』ッッ!!!!!」
木の床板が砕け散る。
建物を支える鉄筋が、コンクリートが、希瑠の足元から瓦礫となってピグマリオンに襲い来る。
「ぐああああああああああああっ」
石が、木片が彼の身体を殴打する。切り裂く。鮮血が飛ぶ。すぐさま希瑠の首を絞めなおそうとするが、
「なにッ!」
すでに、その痩身はピグマリオンの目前に在る。
「ケルベロスキィィィィイィィィック!!!!!!!」
左足が顔面にめり込む。遠のく意識のなかで、ピグマリオンの脳裏に一言、よぎる言葉があった。
(余は……逃げていた、のか……?)
《ピグマリオンの幕 暗転》