8. レット・イット・ホーネット ①
「はあ……なんか今日は疲れたな」
理里の疲労を表すかのように、どんよりとした灰色の空。校門を出て十五分と少しの、自宅がある住宅街に差し掛かったところで彼は深いため息をついた。
「ふんふんふ~ん、ふんふふ~ん♪」
鼻歌を歌いながら珠飛亜が前を歩いていく。
理里の説得の末、二人乗りの問題にようやく納得してくれたのだ。怪原家から高校までは決して近くないが、歩いて行けない距離でもない。そのため、こうして徒歩で登下校することになった。
「そういえば、左眼の名前はもう決まったの?」
「ああ……いろいろ悩んでるけどなかなかだ」
異能力には名前が必要らしい。名前をつけることで、能力の存在をはっきり認識できるようになり制御がしやすくなるのだとか。
かつて中二病にかかっていたこともあり、理里はこの手の名前を考えるのは得意だ。が、これから一生付き合う名前となるとなかなか決まらない。いまのところ最有力候補は枯濁し君臨す蛇の宝玉だが…………。
「けど珠飛亜、機嫌いいな。何かいいことでもあったか」
「んふふふ~、だってりーくんといっぱい一緒にいられたんだもん♡ 機嫌もよくなるよっ!」
くるっ、とターンした珠飛亜は歯を見せて笑う。
「おねえちゃん、りーくんといるときがいちばん幸せだよ。りーくんのこと、世界でいちばん大好きだもん!」
「っ…………」
理里の白い頬に、赤みが差す。そんな彼に珠飛亜は歩み寄る。
「な、なんだよいきなり」
戸惑う理里をよそに、珠飛亜は理里の耳元まで唇を持っていく。
そして。
「だからね。きっと、守るよ」
ささやいた声は、微かに震えていた。
「どんな強い英雄にだって、指一本触れさせたりしない。あたしの知らないところでりーくんが居なくなるなんて……想像しただけで、泣いちゃいそうなの。そんなこと、絶対に起きてほしくない。たとえ……誰を敵に回したって、りーくんはわたしが守るから」
今にも壊れそうな、嗚咽混じりの声で、珠飛亜は吐き出した。
「…………っ」
理里はあっけにとられていた。姉のこんな姿など、見たこともなかったから。
きっと、珠飛亜はこの数日、不安で仕方なかったのだろう。生徒会室で倒れている理里を見つけて、まさか、と飛びついて、生きていると分かってほっとして。でも、三日間も目覚めなくて。気が気でなかったのだろう。
そして、その理里を襲った犯人が、生徒会の手塩だと知った。前にも言っていた……『一番大切な場所』。その、最も信頼する仲間の一人が、理里を襲撃したというのだ。
心安らかでいられるはずもなかった。だからいつもより多く理里と一緒にいたがったのだ。自責、後悔、不安……この三日間、珠飛亜はさまざまな負の感情に雁字搦めだったのだ。
そう悟った理里は、珠飛亜を抱きしめた。
「っ!? ちょっ、りーくん!?」
戸惑う珠飛亜の耳元に、今度は理里が囁く。
「俺はどこにも行かないよ。だから安心してくれ。約束する……この先誰が相手でも、俺はぜったい珠飛亜の味方だから」
「りーくん…………!」
ぱあっ、と珠飛亜の声が明るくなった。
「約束だからね! 絶対、だからね」
「ああ。約束だ」
春の夕焼けが、二人の肌を紅く染めた――その時。
「……ん?」
理里の首筋に、チクリ、刺すような痛みが走る。
不思議に思って、右手を首にやろうとしたその途端、
「くっ!? ぐあああああああああああ!!!!!!」
痛みが、激痛に変わる。
「!? りーくん、どうしたの…………っ?」
崩れ落ちた理里を支える珠飛亜の背中……右の肩甲骨あたりにも、チクッ、と軽い痛み。
そして――それは瞬時に。
「っ!?」
まるで剣山で血管の内側を蹂躙されるような、鋭い激痛に変わる。
「ッ……くうっ」
痛みをこらえながらも、珠飛亜はなんとか理里を助け起こす。
顔を上げ、視界に入ったモノ……いや、モノ達に、彼女は度肝を抜かれた。
「えっ……」
ヴヴ、ヴヴヴ、ヴヴヴヴヴ。
羽音。無数の羽音だ。それらはだんだんと大きくなり、珠飛亜たちを取り囲んでいく。視界が黄色く覆われる。
蜂だ。おびただしい数の蜂。オオスズメバチ、アシナガバチ、クマバチ……さまざまな種類の蜂が、珠飛亜たちの周りに密集してきている。
『さあ……駆除の時間といこうか、害獣共』
くぐもった声が聞こえ――黄色の群れが、姉弟に襲い掛かる。




