第二節
和やかであった朝とは裏腹に、学園についてからの俺を覆ったのは鬱屈とした気分だった。原因は学園内の端々から感じる視線……ではない。視線自体は最初から今まで常に一緒だったため、もうそれほど気にならなくなった。正確には視線が孕む好奇や興味が――となる。それらは決して悪意あるものではないからだ。しかし今俺を貫いているそれらに混じっているのは恐怖、または警戒といった明らかにネガティブな感情。針の筵と呼ぶに相応しい状況である。
あのエルグランデの一件以降、俺を取り巻く環境は多少複雑なものとなった。赦されざる処刑が発動する一部始終を収めた動画は見事に拡散された貴族派の間で好評を博した。小百合さんによれば翌日各方面から事の次第を問い合わせる報で大忙しだったそうだ。
そんなこんなで教室についても俺に近づくのはたった二人。
「いやあ、注目の的ですなあ」
「菖蒲大人気ですね」
茶化してくるこの椿とリラである。余談だがリラはパブリックな場ではこのように丁寧な言葉遣いを続けることにしたらしい。
「今の俺なら大混乱を引き起こせると思う」
前触れも無くダモクレスの剣を顕現させるだけの簡単な事だろう。自分で考えていて悲しくなるが俺は猛獣か何かか? 一人心の中で自嘲していると、ぐったりさせていた手がリラに引かれる。
「ほらほら、次は体育館でしょう? 早く行きましょう」
このような俺とリラの関係が皆を困惑させる一因でもある。第三者からすれば加害者と被害者の間柄のはずなのに親しくしているのは不思議に違いない。
「体育館といえば……。本当に直ってるのかな。床なんか裂けてたりしてたじゃない?」
半信半疑といった顔で首を傾げる藤花の言葉。それはエルグランデの決勝が終わってから昨日までの二日間に行われた体育館の修復工事の事を指していた。藤花のいう様に亀裂損壊等々、中々に壮絶な戦いの傷痕を残していた割りに二日という期間は尋常ではない突貫工事と言える。だがそれには訳があった。
「苺さんから聞いた話だと異様なまでにスムーズに済んだらしい。あの人も応援で駆りだされたけど手を貸す余地も無かったそうだ」
その手際の良さたるや陣頭指揮を任されていた小御門先生すらも置物にしてしまうほどだったそうだ。指示の必要すらなくテキパキと事が為されていくのを眺めているだけだったと彼女らは零していた。そんな話を聞いた藤花はわざとらしく顎に手を当てていかにも考え事をしているという振りをする。
「つまり……。こうなる事が分かっていて予め手配してた人がいるってことかな」
「もしくは以前に似たような事態に見舞われて以来備えがあった……」
便乗したリラも加わってミステリーごっこが続いていく。熱中しているのか歩みが遅くなり、並んでいた肩が次第に後ろに流れていく。二人は俺に追従する形であれこれと想像を膨らませていた。
そうして暫くの時間を進み俺はある扉の前で足を止めた。背中に感じる衝突。そして苦情。
「ちょっとぉ。急に止まらないでよ」
「……ここまでついて来るつもりか? 今朝の事もあるし俺は別に構わないが」
そういって一点を指差す。そこには特殊準備室と表示されていた。元は名の通り何やら特殊な用途の為に用意された部屋のようだったが、現在はその用途を果たせずして名ばかりの男子更衣室扱いとなっている。たかが一室であるので女子更衣室よりかは――入った事は無いが恐らく――圧倒的に狭い。それでも一人にはもったいないほどのスペースはある。
「あら、もう着いてしまいましたか。それじゃあ私達も行かないと間に合いませんね。また後ほど」
そう言ってリラは女子更衣室のある方角へと去っていった。残された藤花は俺の顔とリラの背中を交互に見やって何かを言いたげにしていたが。
「今朝……今朝って何? ちょ、ちょっと!」
次の授業に遅れるわけにはいかないと思ったのか、俺に聞こうとするのではなくリラを追いかけていってしまった。
(さて、着替えるか)
――――――――――――――――――
(ほぉ。綺麗に直ってるな)
男の着替えなどものの一、二分で終わる。他の生徒の誰よりも先に体育館へと入った俺は死闘の跡形も残されていないフロアーを見て感心していた。
(確かこのあたりだったか)
あの日リラが地を穿った辺りに立つ。当然そんな痕跡は消え去ってしまっているが、頭の中の鮮明に刻まれた記憶上の傷痕が現実にオーバーラップして浮かび上がる。それと共に当時は必死で考える暇も無かった疑問が湧き出す。
(結局俺が戦ったのは何者だったのか……。リラはその時の意識は無かったと言っていた。しかし一方で明らかに良い意味でも悪い意味でも知能を働かせる相手だった。それに言葉も伝えてきたことを考えると……)
リリィの話の通りならあれこそが神様なのだろうか。
「うーん……」
と深入りしそうな思考が複数の足音によって掻き消された。どうやら着替え終わった他の生徒達がやって来たようだ。やがて教官二人も登場して授業が始まった。ワルキュリア志望生はまず苺教官から先の健闘を称えられた後に二人一組でウォーミングアップがてらに練習試合をしろとのこと。今の俺と組んでくれる者など椿くらいだろうと思い立って彼女を誘おうと声をかける前に教官に呼び止められた。
「菖蒲ちゃんとリラちゃんはこっち」
手招してついて来いという素振りを見せている。心当たりのない俺とリラは互いの顔を見合わせる。彼女は不思議そうな顔で首を傾げ、俺は肩を竦めて返した。リラは苺教官に向かって話を切り出した。
「なぜ私達を呼んだのですか?」
「なんでだろうね」
「は?」
おっと、無責任な答えに思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。教官は笑って俺の肩をバシバシ叩く。
「やだなあ。そんな風に言わないでよ。私は二人を連れてくるように命令されただけなんだから。……おーい、連れてきたぞー」
他の生徒の邪魔にならないような体育館の隅の方、出入り口付近に到着した。そこにはダリア教官の姿があり、用事があるのは彼女ということだ。生徒の数人に何かを指導していたみたいだが早々に切り上げたようだ。ついでにその生徒達は何もしなくても俺の姿を見るとそそくさと立ち去っていった。
「んで、この子らに何の用があるの?」
「少し確かめたいことがありまして」
そう言ったダリア教官の雰囲気が張り詰める。同時に俺の体の底から得体の知れない何かが引っ張られる感覚がした。これは……対峙する者がギフトを使っている時のものだ。ギフトを視るギフト、だったか。教官の視線が俺とリラを交互する。そして確認するようにこちらへ問いかける。
「リラさんは本当にギフトを失ってしまったのですよね?」
「はい。間違いなく」
それっきり教官は沈黙してしまう。だがそれも数十秒ほどで終わり、ギフトの使用を止めたのか感じていた感覚も消えていく。
「うーん。不思議ですねぇ」
とだけ告げて教官は人差し指をくるくる回しながら俺とリラの周りを周回する。謎多き人だ。本題を教えられない現状に苺教官が痺れを切らした。
「あのねえ、せめて説明くらいしなさいよ。会った時から言ってるでしょ、その癖直しなさいって」
それを聞いたダリア教官はピタリと指と体の動きを止めた。考え事を始めると周りを気にしなくなる性質のようだ。少し親近感が湧いた。
「あら失礼。どうも不可解なことがありまして。聞くところによると菖蒲さんがリラさんのギフトを奪ったそうですけれど、私の眼には今でもリラさんの背中に翼が視えているんですよね」
そんな話をリラが頭に疑問符を浮かべながら聞いている。そういえばリラは教官のギフトについて知らなかった。俺は小さく彼女にその辺りの事情を伝えるとリラも表情を分かりやすく得心がいったものへと変化させた。
「わあ、そんなギフトがあるんですね。……あれ? でも私はもう自分のギフトは菖蒲に捧げましたけど……」
「そこが謎なんですよね。捧げたという表現はいかがなものかと思いますけど。菖蒲さんは相変わらず一片の羽も窺えませんし……。実演してもらえます?」
ここで実際にリラのギフトを行使してみろと言う。するとその提案に便乗して苺教官が踊り出でる。
「はいはい、私あれやって欲しい! 空飛ぶやつ、私ごと!」
楽しそうに縋りつかれて困り顔になった俺はリラに尋ねる。
「いいかな?」
この台詞の俺にとっての真意は使いたくない、というものだった。そもそもリラのギフトを頂戴してしまった事は目的ではなく、彼女を助けるための不可抗力の産物であった。客観的な事実は不変だとしても、主観的な心情としてはこのギフトはまだリラのものだと考えている。だから俺個人としては封印するくらいのつもりでいた。しかし今こうして色々な謎を前にして解明したいという思いの前に早くも意志が揺らぎ始めていた。
そんな俺の心中の四苦八苦を透かしているのかいないのかリラは縦に首を振って答える。
「私の許可なんて要りませんよ? 好きなだけ使ってください。そのほうが私としても嬉しいですから」
その言葉によって俺の中の天秤は完全に探究心へと傾いた。ダモクレスの剣を顕現させ自らの手に持つ。館内に幾分かのさざめきが生まれたが気にしていてはきりがない。軽く頭にイメージを浮かべるだけでギフトが再生されていく。教官の要望どおり背中に宙を舞うための翼が生まれていくのが分かる。そんな姿を見たリラが楽しげにしている。
「わぁ……。リラちゃんが言ってたみたいに本当に神様みたいだね。手触りは本物そっくりだけど感覚あるのこれ?」
そう言いながら翼が教官の手によってしなやかに撫で付けられる。自分でもまじまじと見るのは始めてだ。当然だが俺の体の一部ではないため感覚などあろうはずがない。だがあまりにも生々しさのある翼に神経が通っているかのような錯覚すら覚えてむず痒くなってきた。
「ないです。それよりも飛ぶ……と言いたいところですけど、俺は飛ぶことは出来ても飛ばすことはできませんよ」
「大丈夫、大丈夫。こうすればいいんでしょ」
おもむろに彼女は俺に近づいて首に両腕を回してきた。急に接近する互いの顔に動悸が激しくなる。青少年には少々刺激が強い行動だが気取られるといじられるので視線を外さず平静を装う。
「まあ教官がこれでいいなら構いませんけど……。その前にちょっと失礼します」
断りを一言入れておいて教官の膝裏からこちらの腕で掬い上げた。背中を支えるべき手はダモクレスの剣を握っているが、所謂お姫様抱っこの形で抱きかかえる。他の人に勘違いされるかもしれないがこの体勢には何ら不純な動機は無い。先ほどのままだと地上では問題ないが、宙に飛び上がれば俺の首に人一人の全体重が圧し掛かってしまう。だから止むを得ず、なのだ。
「それじゃ、いきますよ」
翼をはためかせ、いざという瞬間にダリア教官がボソっと呟いた。
「重さで落ちないといいけれど」
それに対する苺教官の抗議の声を引き連れて俺は天井目掛け舞い上がった。高さが七割といった所まで上昇を続けて滞空する。
「うわあ、本当に飛んでる!」
年端もいかない少女のようにはしゃぐ教官。より一層強くなった両腕の絞めつけに抵抗するべく話しかける。
「あなたも風を操って飛べるはずでしょう? 前に俺を浮かび上がらせてましたよね」
すると彼女はいたずらっぽい笑みをしながら俺の鼻先を指で弾いた。
「その質問はナンセンス。空を飛ぶ夢をもつ人に『飛行機に乗れば?』って言うようなものでしょう」
何やらこだわりがあるらしい。などと些細なやりとりをしていると俺の体が変な感覚に襲われた。体から得体の知れないものが剥がれ落ちる感覚だ。
(これはもしかすると……)
「教官、ちょっといいですか」
返事を受け取る暇も空けずに腕の中の温もりをギュッと強く抱きしめる。動揺する表情を浮かべる彼女を置き去りにしてギフトのコピーを終了した。
次の瞬間。発動していたリラのギフトが消失する。空翔る支えをもぎ取られた俺達は重力の糸に引かれて急降下していく。その最中、俺は以前に風によって運ばれた感触を思い起こす。記憶を頼りにそれを真似てギフトを発動した。柔らかなつむじ風がクッションのように地面すれすれに俺達を受け止める。直ったばかりのフロアーに早速穴を開ける事態は回避できた。
「あー、フリーフォールみたいで楽しかった!」
地に足を着けた教官はそんなことを言ってのける。肝の据わった人だ。こちらは少し冷や汗をかいたというのにアクシデント込みで楽しんでいた。呆れていると見慣れた顔ぶれがこちらにやって来るのが見えた。
――――――――――――――――――
「それで、意図せずにギフトが消えたと?」
「そうですね。そんな感じがしたので予め教官のギフトを借りたわけです」
俺が落ちるまでの流れを見ていたのか真っ青な顔をして駆け寄ってきた華香里を宥めながら、ダリア教官に起こった事を全て語った。次いでその予感のタイミングを聞かれ。
「たしか……。苺教官がはしゃぎ暴れてた時でしょうか」
「なっ、暴れたとは失礼ねー」
おどける人は互いに無視して話を進める。とは言っても俺に心当たりはないため他力本願になってしまう。本人の意思に反してギフトが中断されるという現象は経験が無い。その一方でダリア教官は何かを掴んでいるらしかった。
「可能性としては……。リラさん、ちょっといいですか」
なにやらリラに耳打ちをしている。どんな言葉を吹き込まれたのか彼女は顔を真っ赤に染め上げて肯定する頷きを一つした。教官はそのリアクションから確信を得たようだ。
「なるほど。どうやら菖蒲さんの力は他者のギフトを奪う……とは言い切れないようですよ」
その結論に一番喰い付いたのは俺でもリラでもなく、華香里であった。
「と言うと?」
「菖蒲さんのギフトの行使が途切れたのはおそらくリラさんの感情の揺れによるものでしょう。その感情がギフトを止めて欲しいと願ったからこそ……。つまりまだリラさんとそのギフトとの繋がりは絶たれていない。それなら私の眼に翼が視えていることにも説明がつきますよね」
先ほどの耳打ちはリラ本人にその感情の揺れとやらを確認していたのだろう。面白い仮説だ。俺は彼女からギフトを盗んだのではない。あくまで借りているだけ、というのが教官の言いたい事だった。更に教官は分かりやすく例え話に移る。
「そうですね……言うなれば著作権でしょうか。菖蒲さんはリラさんからギフトという著作物を代償があるのかは知り得ませんが、借用している。しかし権利そのものはリラさんのままのため、事と次第によってはその一存で菖蒲さんが使用していても差し押さえが可能。という具合です」
その話をずっと黙って聞いていた椿が難しい顔をしながら口を開く。
「でも結局ギフトを使用できるのは菖蒲だけですよね?」
おそらく誰もがその疑問を浮かべたであろう。華香里や藤花も同意の息遣いをしていた。しかしその質問も教官は想定していたらしかった。
「尤もですね。ですから私はこの力を菖蒲さんが持つ花嫁の力の延長ではないかと考えています」
「延長?」
「花嫁の力であるギフトのコピーというのは、一度完全に対象から切り取って記録し瞬時に返す。これを極短時間のサイクルで行った結果であり、今回はそれを中断した結果ではないかと。なので手段は分からないだけで実は菖蒲さんには自身の持ったギフトを他者に分け与えられるのではないか、展望ですがそうも思います」
飛躍した仮説ですけどね、と最後に加えて彼女は締め括った。誰も何も言わなかった。ばらばらに飛び交う視線はそれぞれが今の話を頭で反芻して咀嚼しているのが表れていた。
(……うん?)
たまたま泳がせた視線の縁に見覚えのある顔が映った。それは出入り口の扉からこちらを覗いている。
(彼女はクラスが違うはずだが……)
天竹葵。エルグランデで一度だけ俺と顔を合わせたことのある人物だった。一体何の目的で異なるクラスの授業を覗いているのか。それはきっと隠れるように様子を窺う彼女からは聞いても教えてもらう事はできないだろう。




