第十七節
「一体何が起きているんだ……」
第一に思い浮かんだ言葉がこれだった。異質な空気を纏うリラに生徒達は愕然としている。それよりも壁際に倒れている椿の容態は大丈夫だろうか。今は教官が駆け寄って介抱している。
衝撃波がここまで伝わっている時点で決闘場が消えている事は確実だった。椿が敗北したことで試合が終了したのかとチャリスを確認するが結果が表示されておらず、不正終了と書かれているため勝敗はまだ着いていないと考えられる。となると原因はやはりあのローブを纏ったリラそのものに……。
俺はリラの様子を詳しく視ようと立ち上がる。最前列まで歩み寄り欄干から軽く身を乗り出して観察。最も目に付くのは六枚の真っ白い巨大な翼。そして彼女の体をすっぽりと覆い隠すローブの陰は表情どころか顔の輪郭すら確認することを困難にさせている。神々しい翼との対比もあり闇そのものがローブに身を包んでいるかのようだ。
(本当にリラか? 何か別のモノにすり替わっているとかじゃないよな……)
手も足もゆったりとしたローブによって窺うことが出来ない。陰の奥を知ろうと注視しているとリラはぐるりと体を動かし俺と目を合わせた。フードの中は陰影が濃く当然目も見当たらない。だが俺は直感的に覗き込まれたと悟った。彼女は袖をゆっくりと俺に向けて突きつける。やはり手が存在していない。いよいよ人であるかを怪しみ始めたその時。男とも女ともとれない声が脳に響いた。
『欲しいか……』
さらに俺を襲うは身体の奥底から何かを引き出される感覚。すると俺の目の前で、あるものが形成された。華香里はもちろん藤花も見覚えがあるものだった。
「菖蒲、それってあの時の――」
ダモクレスの剣。俺のもう一つの聖具だった。小御門教官経由で沙羅さんから渡されたチャリスに格納していたはずの聖具が所有者である俺の意思を無視して顕現したのだ。
(どういうことだ。奴に呼び出されたとでも言うのか?)
状況からするとそれが最も可能性が高いが……。とこれ以上考える暇はなかった。奴の袖の中に微かな煌きがあることに気がついたからだ。嫌な予感が胸を過ぎる。
「兄さんなぜダモクレスの剣を――」
「伏せていろ華香里!」
立ち上がろうとした華香里を言葉で咎める。刹那、一筋の光芒が俺目掛けて切迫してきた。俺の後ろには生徒が何人も座っている。避けるわけにはいかない。選択の余地無くダモクレスの剣を眼前に構えて直撃を受けさせた。剣にぶつかった光芒はプリズムに射し込まれた光のように上方に全反射し、天井の一部を焼き切った。人に直撃したらと思うとぞっとする恐ろしい威力だ。
その一撃は生徒達に脅威を与えるのに十分すぎるものだった。俺の後ろにいる生徒は間近であったため特に煽られたことだろう。狙われたのは自分かもしれないという恐怖から次々と悲鳴を漏らしながら散っていく。
(それでいい。さっさと離れてくれ)
逃げてくれれば俺の制限も緩くなる。十中八九奴の狙いは俺だ。今もじっとして静かながら俺と視線を違わない。もう一度、次は両袖を俺に向ける。追撃を警戒して姿勢を低く、いつでも飛び出せる体勢にする。やがて光が照射された……がそれは少しだけ進むだけで停止した。続いて奴の足元に大きな紋様が現れる。それはやがてガラスのような透明な境界面で包み込んだ。
「これは小百合さんの……」
あの人にしかできない芸当。俺の指示通りに体を屈めていた華香里もひょっこりと立ち上がり状況を把握して言った。
「境界の鳥籠。これで被害の拡大は防げましたね」
境界の鳥籠。白羽小百合という人物が僅か二十四歳の若さで学園の長となった所以である。世界に重ねるように、また新たな世界を創造して境界線を引く。新しい世界は別の秩序で成り立ちそれを無視する事は神でもない限り赦されない。別の秩序とはそう、例えば別世界への干渉である。
創造主たる小百合さんが小走りでやって来る。彼女はその少し前に教師達へと指示を飛ばしていた。館内各所ではその教師大勢が生徒に対して避難誘導を行っている。
「無事ですか?」
構えていたダモクレスの剣を降ろして小百合さんと向き合う。
「ええ。おかげさまでこの通り。それで、これからどうしますか?」
境界の中にいるリラを示して話す。行動が意味を成さないことを理解しているようで、足があるのかも窺えないが両足でひざまづいて活動を停止しているらしく見える。小百合さんも困り顔をしていた。
「そうですね……。とにかく生徒が避難を完了するまでは閉じ込めておく他ないでしょう。境界線を挟んでいる以上こちらからも手出しはできませんがまずは安全の確保が優先です」
そこまで言ったところで小御門教官がこちらに。その背には椿が力なくおぶられていた。教官はゆっくりと席に椿を寝かせて小百合さんへと話しかける。
「学園長。生徒のほとんどと教官以外の教師の避難が完了しました。後は君らだけだ。申し訳ないが北山を連れていってくれ」
そう言って華香里や藤花、俺に退避を促す。小百合さんも頷いて同意を示した。
「そうですね。あなた達もここから早く出て行きなさい。後は私達で――」
「その必要はないわ」
小百合さんの言葉は何者かによって遮られた。いや何者か、ではない。なぜならこの声は俺も小百合さんも馴染み深いものだったからだ。声の正体は我が師、彼女のものに間違いはない。そして彼女は……。
「姉さん……」
白羽沙羅。小百合さんの姉でもあった。
「ハイ、小百合も華香里も久しぶりね。菖蒲には春の始め頃に会ったかしら」
どこから現れたのかギャラリーの席の最後方に立っていた沙羅さんが俺達に話しかける。そのまま予想外の人物の登場に呆気にとられる俺や小百合さんに近寄ろうとするが、それを遮る人がいた。小御門教官だ。
「貴様。何をしに来た」
「あら、あなたも御機嫌よう。私が預けた物、しっかりと渡してくれたようで何よりですわ」
敵意を剥き出しにして行く手を阻む教官に対して沙羅さんは小馬鹿にするような口調で挨拶をしている。矢継ぎ早に沙羅さんは俺達に向かって喋りかける。
「さて感動の再開の場面は終幕にしましょうか。菖蒲、私の言うとおりにしなさい。小百合がギフトを解除したらあなたはそのダモクレスの剣とあなたの本当のギフトであれを止めなさい。それが事態を解決する最善の方法よ」
沙羅さんの指示なら従う以外無い。出会ってからいつだって彼女の言は正しかった。だが彼女の言葉に納得がいかなかった小百合さんが異を唱えた。
「ちょっとまって姉さん。事情も分からずに解除しろと言われたって素直に従えない。せめて何が起きているかを教えて」
横槍を入れられたことに少しだけ腹を立てたのか、沙羅さんは腰に手を当てて息を吐いた。
「はぁ……。時間が無いのだけれど、まあいいわ。あれはリラ・ミシェーレであってそうでない者。彼女は"二日目"から"神化"によって神へと至る道中にある。今は人でも神でもない半端なところ、半人半神とでも言うのかしら。このままだと小百合の境界も神に近づくにつれて意味を成さなくなり、あれは解き放たれる事になる。だからここで菖蒲が止めるしかないの」
そこまで言ったところで教官が口を開く、変わらず沙羅さんに対しての警戒を示したまま。
「なぜそこで蘇芳が出てくる。ミシェーレか否かは置いておいてもあれは明らかに危険すぎる。決闘場を形成させてくれる訳もあるまい。ならば蘇芳の身を案じる意味でも私や八重垣のような教官職が相手をしたほうがいいはずだ」
確かに俺のような半人前よりも彼女の言う様に教官達の方が実力的に相応しい。しかし彼女は知らない事がある。俺で無ければ駄目な理由は恐らく――。
「ええ。その代わりにリラ・ミシェーレは死ぬ。言い方を変えましょうか。あなたでは殺すことでしか彼女を止める事はできない。だから私は最初に最善の方法と言ったでしょう。菖蒲でなければ必ず誰かが命を落とす」
――俺に備わったギフト、それしかなかった。沙羅さんはいつも重要な事は可能な限り伏せる。だから教官が納得できないのも仕方の無いことだが……。
「……だったら蘇芳だけでなく私も一緒に戦わせろ。攻撃の露払いくらいにはなる」
妥協策のように話しているが自らを肉壁にしろと言っているようなものだ。本気で俺のことを案じてくれていることが分かる。しかし沙羅さんは冷たい声で却下する。
「無理ね。あなたにはあなたの役割があるもの。……ほら、来るわよ」
鐘の音が鳴り響いた。教会のそれの音に似ているがどこから聞こえてくるのかを確認する余裕はなかった。鐘の音よりも更に不可解な現象が起きたからである。リラを囲むようにいくつかの光の柱が立ち上る。それぞれの柱の中から人の形をした何かが生まれつつあった。生まれたそれらは甲冑に全身を包んでいたりコートやドレスを着た上に不気味な仮面を被っていたりでやはり人間かどうかすら判別できない。
光柱が消え、生まれた謎の人型は六体。その全てが境界に閉ざされたリラに向かってひざまづいて祈りを捧げている。
「あれは使徒。彼女の出で的にはそう表現するのが相応しいかしら。小百合。菖蒲以外で戦力になる者は全てあの使徒にぶつけなさい。祈りを邪魔すれば神に近づくのを足止めできるわ。使徒はリラ・ミシェーレと違って完全にヒトに非ず、危険性で言えばあちらの方が上。早くしないともっと沢山出てくるわよ?」
「……譲葉さん。お願いできますか?」
まだ何か言いたげな小御門教官だったが事態は急を要する上に小百合さんに請われてはどうにもなるまい。ほんの一瞬だけ逡巡する素振りをみせてすぐさまチャリスへと手を伸ばした。
「では教官全員とカルミアも召集しましょう。奴も腕だけは確かですからね」
流石はと言うべきかそれともこうなる事を予期して待機していたのか、ものの数十秒で面子が揃った。小百合さんと小御門教官は少し離れたところで他の教官達とカルミアに指示を出している。使徒は主が脅威に晒されると排除にかかると沙羅さんは言う。それを教官らが阻み道を開く。俺はリラとの戦いに集中して彼女を止める。それが今回の手順である。リラも使徒も一切の身動きをせず彫像のように沈黙を続けていた。
教官がこちらに振り向く。準備は終わったようだ。後方で椿を介抱している華香里と藤花に一度だけ振り返り俺も前に出ようと一歩踏み出したところで沙羅さんに肩を掴まれた。
「待ちなさい。ハードボーラーは持っているわね? 最初はそれを小百合の境界に向かって撃ちなさい」
なぜ彼女がそんなことを指定するのかは分からないが言われた通りにホルスターから一丁取り出して構えた。
(決闘場に護られた試合とは違う。まともに喰らえば死ぬだろう。それもあの時とは比べ物にならない。きっと死ぬんだという実感すら得る前に逝ってしまうんだろうな)
怖い。死に直面することを繰り返したってその思いが拭える訳が無い。でもそれは俺だけじゃない。今目に映る教官達もリラも死ぬかもしれないんだ。それを阻止できるのは俺のギフトだけ……。
深く息を吸う。息を止める。息を吐く。息を吸う。息を止める。息を吐く。息を吸う。息を止める――。
「行ってきます」
そうして俺は静かにトリガーを引いた。
乾いた破裂音を伴って放たれた銃弾はリラを覆う小百合さんの境界面に遮られて粉々に砕けた。祈りを捧げていた使徒達が一斉にこちらを睨んだ。顔は隠れているが、そう感じるほどの威圧を受ける。足が竦む。俺は唇を強く噛み付けて無理やり奮い立たせた。使徒達がそれぞれ武器を手に取りゆっくりと起立。教官達がすかさず散開して使徒達とぶつかり釘付けにすることに成功。道は開かれた――。
「さあ行きなさい。私のかわいい子」
そう言って沙羅さんは俺の肩から手を離した。弾かれるように地を蹴り、リラの元へと一直線に飛び込む。後数歩でリラの眼前へというところまで詰め寄ると小百合さんの境界にひびが入った。ガラスが割れるようにあちらの世界が砕け散った。ヒトの秩序では制約できないほどに神に近づいたのだと肌で感じる。両膝でひざまづいていたリラがマリオネットの吊られるが如く立ち上がった。その両袖からは青い光の剣が。人であったリラが形成していたものよりもさらに精巧に見えた。
『欲しいか……』
また脳に直接打ち込まれるような声が響く。今度は更にはっきりと聞こえる。
『欲しければ汝の業によって奪ってみせよ』
挑発するようなこの声はリラか、それともまったく別の存在か。だが俺のする事は変わらない。ダモクレスの剣を突きつけて気合の声を吐く。
「上等!」
黒色のダモクレスの剣が赤く輝きを放つ。青い閃光と赤い閃光が激突した――。




