第十四節
リラと椿の大活躍があったヘスティアーグループ準決勝から翌日。今日はアプロディーテの準決勝……つまりは俺の試合がある訳だが……。競技用の少しだけ生地の柔らかい服に着替えて体育館までの道を歩く俺からまず出たのは溜息が一つ。
「はぁ……」
昨日の二人の試合は良くも悪くもエルグランデというイベントにおけるエンターテインメント性が最高だった。これが何を意味するか……。普通の試合では満足できない。より高いクオリティを求めて観客が勝手にハードルを上げてくるということだ。実際下馬評では男のブレイサー――つまり特殊――である俺が今日とてつもない事をすることが勝手に決まっているのだ。"するかもしれない"ではなく"する"のだ。噂では観客もさらに増えるとか。別に見られるのが嫌だとか緊張するとかではない。ただ好き放題期待を背負わされるのが気に食わない。
気分重く道行く俺の前から誰かが現れた。背の高いスーツ姿……小御門教官だ。今日立会うのは彼女なのか手には何かを挟んだバインダーを持っている。教官は俺の顔を見るや怪訝な表情を浮かべた。
「何だその顔は。とてもじゃないがこれから戦いに臨む人間のする顔じゃないぞ。ほら気合を入れろ気合を」
そう言って俺の背中をバインダーで一喝。自然と共に肩を並べて歩き出した。道すがら俺の悩みの種を聞き出された。
「そんなことで悄気ていたのか。気にするだけ無駄だ、放っておけ。どうせ出所は昨日の事で興味を持ち出した何も知らないただの物見高い奴らだ。とは言っても気休めにならないかもしれないが……君はいつも通りにやればいい」
確かに言うは易しで気分はさほど晴れないが、それとは別に彼女のの不器用な心遣いがなんとなく嬉しく感じられた。
「そうですね。教官のアドバイス通りに何も考えないようにします……。そういえば昨日の椿の試合、俺は見ることが出来なかったんですがどんな感じだったんですか?」
と言うと彼女はバインダーで俺の頭をポンポン叩きながら悪戯っぽく笑い答える。
「いつか刺されるぞ」
「はい?」
話に繋がりがなかったのでつい聞き返してしまった。なおも笑みを絶やさずに。
「いや止めておこう。そうだな……知りたければ本人に聞いてみたらいいんじゃないか? それかもう一度勝負を吹っ掛けてみるとかな」
最初も吹っ掛けたのは椿なのだが……。
――――――――――――――――――
「うっ……」
体育館に入った俺を待っていたのは人、人、人。昨日よりもさらに密度が増している気がする。視線が焼きつけるような錯覚。無心でいるように心に言い聞かせる。同時に昔沙羅さんに言われたことを思い出した。
『人も世界も、あなたが思っているほどあなたに興味はありません。人が見ているのはあなたの虚像。世界が見ているのはあなたの虚栄。この意味が分かりますか? ……そうですか。そのうち理解できる日が来るでしょう』
その話の核心には未だ辿り着けない。いつも遠まわしな言い方をする人だった。とりあえず人目を意識しすぎるなという教訓と解釈している。
無心を心がけて体育館の中央へと歩いていく。既に対戦相手の生徒が立っている。いつからそうしていたのかは知らないがこちらを見ながらニコニコと微笑んでいる。俺にはそれがどうにも不気味に感じられた。傍に近づくと俺に向かって恭しく一礼し、声をかけてきた。
「初めまして。早雲庵薫衣と申します。蘇芳菖蒲様の御噂はかねがね伺っております。どうぞ私の事は気軽に薫衣とお呼びください」
薫衣……さんはそう言いつつ握手を求める手を差し出した。俺も左手を差し出し握手に応じた。この距離になってようやく見えたが右目の下に泣きぼくろがあり同年とは思えない大人らしい魅力を感じる。数秒ほど交わしていると小御門教官の声が聞こえてきた。
「君達。用事が済んだら試合開始の為にもう少し離れてくれないか」
俺も薫衣さんも互いに背を向けて距離を取る。開始まではまだ時間がある。俺は周囲に目を向けてしまわないように考え事に耽った。
(今までに無いタイプの人だったな……。早雲庵。珍しい苗字だけど聞き覚えがあるような……。いや、見覚えか? どちらにしても最近の事じゃないな……)
早雲庵という名に漠然とした疑問を感じたまま時は来てしまった。間もなく試合が始まる旨のアナウンスが届く。気持ちを切り替えて聖具を顕現させた。薫衣さんも短刀……だと思うが、一振りをなぜか腰に差しっぱなしにしている。そしてそのまま俺と同じく格闘戦の構えをした。
(俺の真似をしているのか、それとも最初から腰の獲物は使うつもりはないのか?)
決闘場が形成されていく。なおも彼女の表情は笑っている。仮面が張り付いているかのように崩れない笑みに底気味悪さを拭えない。
(本当に同学年か? そんな奴が出せる雰囲気じゃないぞ)
戦績は……確か三勝一敗だったか。数字だけじゃなくて実際に見ておけばよかった。後悔先に立たずとは良く言ったものだ。どれだけ悔やんでも、もう時間がない。
「始め!」
教官の宣言が轟く。俺も薫衣さんもお互いを目掛けて駆け出した。ギフトも何も関係ない身体能力だけの勝負が始まる。右腕を打ち込めば左腕で受け止められ、返しに右脚による蹴りを受け止める。繰り返し繰り返しの動きが続き誰が見ても、俺自身でさえも決着はつかないと断言できる。やがて互いの手のひら同士を掴み合って拮抗。動きが止まった。密着して顔を突き合わせると彼女はより一層口角を上げ、目を細めている。
「んっ……流石ですわ。私も腕には自信があるのですけれど。教えを乞うた師が良き人なのでしょうか?」
口ではそう言っても薫衣さんにはまだ余力がありそうだ。決着がつかないなんて冗談だったかもしれない。このままでは情けないが力負けしてしまう。
「あなたっ……こそ、何者なんです。まさか一介の学生なんて言いませんよね?」
グッ、と彼女の込める力がさらに高まった。俺は押し負けないように対抗する。するとどうだろう、さらに強まったではないか。強者が弱者を推し測るやり方に似ていた。教官やカルミアがするみたいにこちらの力量にあわせてリミッターを外している……?
(だとすると相手はずっと格上……)
背中にどろりと悪寒が走る。努めて表情には発露しないようにしていたが嗅ぎ取られたか。
「私が誰なのか。推理してみては? 信じていただけないかもしれませんが全て正直に答えさせていただきますわ」
「……実はサプライズで混ざっているOGとか?」
ヒントも何も無しに当てられるわけがない。冗談交じりで一答を投げかけてみた。
「はずれです。そんなに私老けて見えるでしょうか。……それでは御仕置きですわ」
右手を離した彼女の腰元が光った。腰にあったものといえば、と考えると同時に俺は大きく体を傾ける。左手はがっちりとホールドされているためこれが最大限の行動だった。際どいところを短刀が空を切る。お返しにとこちらからも掴まれている左手を軸にして床にねじ伏せようと試みた……が難なくするりと抜け出されてしまった。しかし動きを制限されていた手のホールドは解かれたため、後ろに飛び下がり一度の休息を得た。
(掠ったか……)
胸の辺りに痺れを感じる。回避が完璧ではなかったか。まあいい、どうせ気を抜けば一撃で持っていかれるんだ。必要経費と思おう。正直甘く見ていた。結局は今までの生徒に毛が生えた程度だろう、と。
舐めてかかってはいけない。深呼吸一つと共に論理本能を発動させる。
(行くぞ……)
――――――――――――――――――
論理本能を使っている間は時間の感覚が狂ってしまう。具体的には長く感じるのだ。どれだけ時間が経っただろう。体感では十数分ほどだが……。
「ちいっ……」
俺の喉元を銀の煌きが走った。参ったな。論理本能を用いても状況は俺に不利だ。次第に追い詰められている気がする。という風に考える余裕はあるのに体がついて来られていない。このギフトは思考も肉体の伝達も促進するもの……。なのに片方は一杯一杯、もう一方は余りある。そんな余った力で考える。
(俺のギフトには無駄があるのか? ……いや違う。きっとバランスが良くないんだ)
ただ無秩序に身体の枷を外すだけならそこらの非合法の薬でもキめれば実現できそうだ。もっと繊細に、本能の部分を強く引き出せれば……駄目だ。今でも精一杯なのにこれ以上限界を超えるのは命の危険だってある。
(だったら……そうか、比重を傾ければいい)
十割を理論と本能に五割ずつ振るのではなく状況に応じて、今なら本能に多く振り分けることが出来れば……。
カチリ、と頭の中で何かがはまった感覚がした。今までの思考が払拭される。その引き換えとばかりに俺の瞳が薫衣さんの動きを十分に捉え始めた……。彼女の攻撃に対して防御だけではなく、攻撃を両立させて返せる。研ぎ澄まされた五感が彼女の声も敏感に捕捉する。
「あら? どうやら眠れる獅子の尾を踏んでしまいましたか」
彼女の言が何を意味しているのかを思考するだけの余力はない。そんな力は全て本能に回した。頭にあるのは目の前の敵に喰らいつくことばかり。まともな戦術は何も存在しない。しかし段々と薫衣さんを防御に徹するまでに追い詰めていく。そして遂に俺の拳ががら空きの胴を捉えた――。
(何っ!?)
――はずだった。俺の拳はまるでホログラムを相手にしたように彼女をすり抜けた。その瞬間、俺の意思に関係なく本能が論理に力を返した。熱が引くように頭が冷静さを取り戻していく。
(ネタは分からない。だが今の俺は隙だらけ……それを的確に突く為には……後ろ!)
右腕のグローブをダガーに変形させて自分の背後に振りかざす。金属がぶつかり合う音。先行させた腕を追いかけるように体を向けるとそこには変わらず笑みを湛えた薫衣さんの姿と右手に構えた短刀の輝きがあった。
(どういうことだ……?)
あれ以来いくら薫衣さんに向けて攻撃を命中させたって霞が振り払われるが如く霧散するだけ。そして異なる場に彼女がいる。実体ではないはずなのに互いの聖具を打ち合わせた際に感じる手応えは明らかに本物のそれだ。ギフト……それしかない。分身の可能性を真っ先に考えたが決闘場の中には薫衣さんの姿一人しか把握できない。だがそれを叩けばやはり霧散して別の彼女に襲われる。これでは俺だけが消耗戦ではないか。
(くそ。考えろ……考えろ)
論理に力を回せ、本能は最低限の自衛ができる程度でいい。迫る銀の閃光を今度は左腕のダガーで受け止める。だがそれも完璧ではなく腕を掠めた。
(……ん? 何か違和感が……)
それが何かを確かめる前に彼女の右腕が振り下ろされる。逆手に持たれた短刀の引き裂くような斬撃。その手元を俺の腕とぶつける事で食い止めた。
(まてよ、右腕……右手……思い出せ、思い出せよ。確か最初に握手をした時は……)
『どうぞ私の事は気軽に薫衣とお呼びください』
そう言って差し出されたのは――。
(左手だ!)
一つの新しい可能性が浮かんだ。しかしまだ弱い。何かもう一つ。あと一つ確証が欲しい。早雲庵薫衣という人物に関して右と左で異なるもの……。
(そうだ、ほくろ。彼女の右目の下には泣きぼくろがあったはずだ)
目の前にいる彼女の攻撃を不完全に受け流しつつ、注意深く見る。彼女の泣きぼくろは……左目の下にあった。
「ははっ」
思わず笑みがこぼれた。そして俺は短刀を振りかざす彼女の姿の、真反対を掴んだ。本来は何もない、この手は虚空を掴むはず。しかし俺の手には確かな感触があった。
「捕まえた」
そこには左手で短刀を構える薫衣さんがいた。俺の手はその腕を捕獲しており、表情から笑みは消えている。驚愕に染まった顔を見せていた。
鏡……早雲庵薫衣のギフトは自身の虚像を鏡映しに出現させるものなのだろう。だから俺が戦っていた彼女は左右が反転していた。なぜ本物の彼女の姿が消失していたのかは分からない。だが情報はこれだけで十分だ。
俺に掴まれた腕を捻って脱出。すぐさま俺と距離をおいた薫衣さんは再び穏やかな微笑を作り出した。
「素晴らしい。単純戦闘で張り合うどころかまさか初めて戦う中でギフトを看破されるとは思ってもみませんでしたわ。ですがその快進撃、ここで打ち止めにさせていただきます」
次の瞬間、いくつもの薫衣さんの姿が現れる。五つや六つどころではない。中には左手に短刀を持っているものも複数いる。だが俺にとっては別段驚くべき事では無かった。
「合わせ鏡の要領で多くの虚像を作り出したのか。けれど……それはもうあなただけのものではない」
ギフトの理屈を見抜き、所有者に触れた。既に俺の中には彼女のギフトがコピーされている。左右反転、無反転の俺の虚像が同じくいくつも作り出される。その光景を見た薫衣さんは心底楽しそうな声を漏らす。
「ふふっ。そうでしたね。さあ、それでは幕引きといきましょうか」
たった二人だけの集団戦が始まった。虚像が虚像と戦う。本体を落とさなければ意味が無い。今度の俺は論理本能の比重を論理に傾けた。
(足跡を辿るんだ。全ての像を結んで最初の像……つまり本物の彼女を割り出せ)
脳裏に焼きついた虚像達の出現位置。そして今に至るまでの彼女らの移動位置。それらから姿の見えない薫衣さんの位置を予測する。
(見えた!)
予測位置に全力で踏み込む。だがまだ攻撃しない。論理はまず彼女が防衛行動を起こすと予測している。最初に左半身を突き出す。すると左肩に強い衝撃が走った。薫衣さんが防衛の為に短刀を突き出したのだ。俺は衝撃に耐え、返す刀で右腕を下から斜めに突き出し掌底打ちを虚空に繰り出した。右掌底に強い手応えが伝わる寸前。薫衣さんの声が聞こえた……。
「お見事……」
――――――――――――――――――
「肉を切らせて骨を断つ。見事でしたわ」
俺達の試合が終了。次に控える試合の為に揃って体育館を後にする中で薫衣さんとの会話が続く。彼女は終始俺を褒め称えるが、俺にはどうしても理解できないことがあった。
「あの……なぜ最初に俺と握手をしたんですか? あれさえ無ければもしかすると俺はあなたのギフトに気が――」
そこまで言った俺の口に薫衣さんの人差し指が添えられる。彼女はいつもの笑みを浮かべながら楽しげに話す。
「菖蒲様。時には大の為に小を殺さざるを得ないことがあるのですよ」
殺された小とは彼女が左利きという情報のアドバンテージ。なら大はいったい……。
「花嫁の力を行使するためには無条件というわけにはいかないのですね」
突然の言葉に意表を突かれた。まさか大は花嫁の情報……。それならば最初にリスクを犯した事も納得がいく。まず何も知らない初対面での接触でコピーが可能なのかを調べた。そして試合中の俺の反応を見てまだギフトのコピーどころか詳細すらも把握できていないと断定した。ならギフトがコピーされて試合が終わった今はもう……。
「あなたとどのくらい触れ合えば可能なのでしょうね? どれくらい触れ合えば私のギフトを完璧に扱えるのでしょう」
ずいっとにじり寄ってくる。表情もそうだが、立ち振る舞いにも今までに無かった妖艶さがあり、俺はその雰囲気に釘付けにされる。
「握手? それとも指先が触れ合うだけでも? それに、より深く接触すればより高い精度で模造できるのでしょうか。どうです?」
そういいながら動けない俺の胸元にするりと潜り込む。ふわりと柔らかな感触と甘い香りがした。彼女は両手を俺の背中に回し……。
「兄さん!」
遠くから聞こえる俺を呼ぶ声に我に返った。薫衣さんもスッと身を引き佇まいを改めて言う。
「あら、どうやらこれまでのようですわね。蘇芳菖蒲様、またお会いすることになるかと。それではごきげんよう」
丁寧なお辞儀を見せ、彼女は華香里の声がした方とは逆の方向へと歩き去っていった。そしてやって来たのは妹台風。
「兄さんまた無茶なギフトの使い方をしたでしょう。あれほど言ったのに! 体は大丈夫ですか、頭は痛くありませんか?」
手厚い介抱の中で俺はあの言葉を思い出した。
『人も世界も、あなたが思っているほどあなたに興味はありません。人が見ているのはあなたの虚像。世界が見ているのはあなたの虚栄』
薫衣さんのギフトは虚像を見るだけでは本人を見る事はできなかった。これは沙羅さんのこの言葉に近いのだろうか。やはりあの人の考えは難しい……。




