第五節
「うーん、縫合までは必要なさそうだけどちょっと深いかな。応急処置はしてたから化膿の心配もないけど……こりゃ痕が残っちゃうかも」
館にて傷創の手当てを受ける。苺さんの性格からはとても想像できない丁寧な仕事だ。
「男ですし、痕の一つや二つくらいどうってことはないですよ」
「誰であろうと傷痕など無いに越したことはないだろう」
俺の肩を眺めながら零す小御門先生。その正論に言い返せることなどない。こんなもの、見るのも見せるのも気持ちの良いものではないからな……。
「まあいいじゃないか、そのお陰で人一人助かったんだろう? ん……少年、この服はなんだ? 君のじゃないな、女の匂いがするぞ」
ソファの上で借り物の上着を勝手に着ているカルミアが鼻を鳴らす、犬か何かか?
「それは特務の人が貸してくれたんですよ。諸事情で制服はボロボロになってしまったのでそれを隠すために」
机の上の二丁のハードボーラーを示す。今更ここにいる面々には隠す必要もないだろう。いざとなったらホルスターは捨ててしまってこれだけ服の下にでも包んで戻るつもりだったが……。
「特務とやりあったのか! どうだった?」
カルミアが目を輝かせる。血が滾るのだろうか。
「やりあってないから分からないよ。ただ隊長って呼ばれてた人は凄そうだった……。俺が最初に姿を認識できたときにはもう喉元にこのくらいのランスを突きつけられていた。あんなことされたら戦おうだなんて気は起きないさ」
あれは所謂化け物という部類の人間だ。今俺の周りにいる人たちのように。すると今の話が小御門先生の何かに引っかかったようだ。
「ランス……外国人だったか?」
「恐らく」
「アッシュブロンドの長髪で片方のサイドをこう、纏めている」
「ええ」
「かなりの美人」
「皆さんのように」
「……」
最後のは俺なりの小粋な返しのつもりだったのだが、すぐに考え事に移った先生には通じなかったようだ。思考も束の間、彼女は答えを得たようだ。
「たぶん君が相対したのはローリエ・エメリーだろう。大人しく引き下がって正解だ」
「……そうか奴が……いやいや少年、九死に一生を得たな」
聞いたことのない名だ、苺さんもどうやら同じようだ。カルミアには心当たりがあるようだが……。
「お二人はご存知なのですか?」
「最強のワルキュリア、生ける伝説さ。通称"蝙蝠騎士"」
最強に伝説、これまた大層な表現を……。でもそれに似つかわしくない名称も気になる。
「蝙蝠ですか……コウモリといえば――」
――裏切り者。
「想像通りだ。ただし何かに叛いたとかではない。ローリエは常に自身の信条にだけ従って行動する。その結果があるときは貴族派の不利益に繋がるし、逆もさもありなんということだ」
ああ……それで騎士でもあるのか、信条を貫いているのだから。つまり蝙蝠騎士という名は彼女を疎ましがっている一方で、称えている側面もあるのだろう。
「もう一つ、面白い呼び名もあってな。"絶対の公平"、この意味が分かるか?」
続く形でカルミアが話を加える。テミスといえば剣と正邪を測る天秤を持つ正義の女神のはずだが……駄目だ降参。
「……分からない」
「さっき蝙蝠と言っただろう? それにも関係するのだが、ローリエが起こした行動は結果的に世界の安定に繋がっている。そも"絶対の天秤"という名自体、かつて増長しすぎた貴族派が神命派含む教会を武力的に掌握しようとした時があってな。奴が現れて単独で貴族派の軍事勢力を完膚なきまでに叩き潰したことから始まっている。それにいたく気を良くした教会側のお偉い方がそう呼んだんだ。まあそのしばらく後に、調子に乗った自分達が天秤にかけられることになるというオチつきだがな」
なるほど、要するに世界が……なんでもいい何か勢力やそれに準ずるものを両端に乗せた天秤だとして、その秤が片方に傾きすぎる――彼女の信条にとっての逸脱行為をする――とローリエが調整しているということだろう。その基準は分からないが……。
「世界はローリエ・エメリーというバランサーによって保たれていると言ってもいいだろう。それほどまでに大きな影響を持っている人間だ。……特務は彼女が作り上げたと考えると納得がいく。あれも各方面への絶大な抑止力になっている」
彼女らもローリエのような傑物級なのだろうか、あの教会にいた人達を思い出す。中でも最後に出会った上着を貸してくれた女性は強く覚えている。柔らかな印象の人だったが、人は見た目に寄らないということだろうか。
「は〜い終わり。服着ていいよ」
無言でずっと傷の処置をしてくれていた苺さんが成し遂げたような表情をする。改めて頭を下げて礼を言った。
「いいって、これも務めだから。それよりもさっきの話さー。そのローリエって人が菖蒲ちゃんと同じ人を追ってたってことはその人達が何か大変なことを企んでたってことじゃないの?」
そういうことになるな。彼女らが何を掴んでいるのか、聞いたって教えてはくれないだろう。というよりこちらからはコンタクトをとる事すら叶わない。せっかく追い詰めたあのローブの男だって接収されてしまった。俺は未だ濃霧の中を彷徨う心情でいるのだった。
――――――――――――――――――
(疲れた……)
小百合さんに事態の報告を済ませる頃には日は落ちていた。今日は色々なことがあった。論理本能は人間が本来するべきでないリミッターの解除を可能にするギフト。乱用は身の破滅に繋がる。現に久々につかった今日は二回だけでも精神が消耗しきっている。次第に慣らしていかなければならないだろう。
「ただいま戻りました」
館に着いて挨拶をしたが返事はない。どうやら皆出かけているようだ。何時ごろ帰るのか教えてくれていれば夕食を作っておくことくらいはできるのだが……。
(少し待ってていようかな)
ベッドに横になって休もう。二階への階段を昇り、自室のドアノブに手をかけた。途端に人の気配を感じる。このドアの向こうからだ。まさか昨日の今日……いや今日の今日で仕掛けて来たのか? 左手でドアノブをゆっくりと回し、右手はホルスターのハードボーラーに伸ばす。もう動きたくないと悲鳴をあげている身体に鞭を打つ。
『んんっ……』
中から呻き声がする。それが聞き覚えのあるものだったので張り詰めていた緊張の糸は一気に弛緩していく。右手を離しドアを開く。俺のベッドの上で小さな寝息を立てている華香里が真っ先に目に入る。
「華香里、そこは俺の場所だぞ」
近づいて顔を覗き込む。
「――――」
小さく口元が動いているのに気がついた。寝言だろうか? 更に顔を近づけてみる。急に華香里の手が俺の腕を掴んだ。
「うわっ」
強く引っ張られてバランスを崩しベッドに倒れこむ。すると華香里は俺と入れ替わるようにするりと体を起こす。その結果俺が先ほどまでの華香里の位置に仰向けに、華香里は俺の上に馬乗りになる構図になった。
「寝ていたように見えたんだけど」
「兄さんが二階に上がってくるまでは」
俺がそうであったように、華香里も俺が部屋の前にいる気配を感じたのだろう。華香里は静かに俺を見下ろしている。他人が傍から見れば今の彼女は無表情で感情を汲み取れないだろうが、俺には長い付き合いだから分かる。これは怒っている。
「……ごめん。心配させたかな?」
こういうときは素直な謝罪の言葉が一番だ。お陰で心なしか華香里の態度が柔らかくなった気がする。
「兄さんが思うような心配はしていません。兄さんは無茶はしますけど無謀は冒しません。今日の件も勝算があるから……ギフトがあるからでしょう?」
「流石、見抜いていたのか。ギフトを使ったことを」
椿との戦いの中で論理本能を取り戻した今なら、事故を装った程度のことしか出来ない者達くらいなら容易に屠ることができるだろうと考えていた。そしてその通り、死との直面自体には肝を冷やしたが彼らの相手は何の問題もなかった。
「私が気にかかっているのは、私のギフトの制御なしに論理本能を複数回使ったことです。現に今、兄さんはこうやって私にも簡単にマウントをとられているじゃないですか」
論理本能は華香里のギフトの力を借りることでその負担を和らげたり、効果をより高めることができる。俺達のギフトは相性が良いのだ。
「お互いのアシストができる私達は一緒にいるべき……小百合さんもそう言ってましたよね?」
「……そうだね」
「せめて今度から私にはちゃんと話してください。無茶をするなら一緒にです」
俺は静かに頷いた。妹を(ブレイサーの質は俺よりも遥かに上だが)危険に晒したくはないという兄心もあったが、華香里の悲しげな瞳を見るくらいなら彼女の意思を尊重しよう……そう思ったからだ。それに――
「よろしい! ふふっ」
嬉しそうに破顔する華香里を見たかったからでもある。
――――――――――――――――――
そんなやり取りをしている二人を遠くから眺める女性の影があった。
「ふふ、本当に仲が良い子らですね」
館とはかなりの距離があるがその女性は一部始終を見ていたかのように校舎の屋上でひとりごちる。しかしその時間は長くは続かなかった。
「何者だ、どうやって学園のセキュリティーを突破した」
いつの間にか彼女の背中に刃が突きつけられる。
「あら、早かったわね。流石は剣帝ユズルハさん」
「貴様なぜその名を」
刃を突きつけていた譲葉の表情が歪む。剣帝ユズルハとはかつて国選ワルキュリアだった頃、稀代の剣の名手と評された彼女の呼び名である。その名を知っているのは同時期の国選ワルキュリア、後は各国の首脳クラスくらいである。そしてその正体が譲葉であるというのはカルミアと小百合くらいしか知らないはず。
「まあ落ち着いてちょうだい。私は可愛い可愛い愛弟子の様子を見に来ただけ」
「弟子?」
譲葉は女性が向いている方角を一瞥し、すぐに答えに行き着いた。
「なるほど、お前が蘇芳の……。ならば聞きたいことがある。あいつはなぜああも歪な存在なんだ」
男のブレイサー、花嫁、そして本来ありえない二つの聖具。蘇芳菖蒲はこの社会のありえないを包括したともいうべき存在である。そんな存在がなぜ今まで公になるどころか噂すら立たなかったのか。まるで突然この世界に降り立ったかのように……。
「……いずれあなたにも分かる日が来る。ただ私から言えるのは、彼は私達の花嫁であり、またあなたの花嫁でもあるということだけ」
「私の……?」
言っている意味が分からない。その不快感を隠すこともない譲葉だったが。それを無視して女性は懐から一つの小さなケースを取り出して譲葉に放る。反射的にそれを受け止めた譲葉に向かい
「これを彼に渡してあげて。鍵を一つ解くあの子には必要なもの。確かに預けましたよ」
そう言って屋上のフェンスを越えて飛び降りた。駆け寄って下を除いた譲葉だったが、目に入るのは闇に包まれた校舎の玄関口だけだった。追いかけることが無意味であると悟った譲葉は手元にあるケースを握る。
(まんまと釣られたな。最初から私にこれを渡させるつもりだったか)
先ほど彼女がしていたように立ち遠望すると自分の館が目に映る。その窓から少年と少女がベッドの上でじゃれついていることまで分かるのだった。
「なにをしているんだか」
抑えきれない笑みを浮かべて譲葉は彼らの元へと帰路に着くのだった。
――――――――――――――――――
華香里セラピーともいうべきか。最初は普通に寝て休もうとしたが一緒にいることでも大分元気になった。もう夜の帳が下りているが華香里がまだ帰りたくないと駄々をこねるので夕食を食べるまでは居させることにした。同じ学園の敷地内なので寮の監督生の許可も簡単におりた。
「ただーいまー」
「ただいま戻りました」
玄関を開いて苺さんとダリア先生の声が重なって聞こえた。視線を向けるとその後ろにはカルミアもいた。
「おっ、妹君じゃないか」
「カルミアがこんな時間まで出かけるのは珍しいな」
普段は……というより毎日館でゴソゴソ活動している印象だ。
「まあ藤花に会いにいっててな。戦闘鍛練を続けたいというからそのためだ。何がギフトに繋がるか分からないからな」
面倒見の良い事だ。まあそうでなければあんな事をしてはいなかっただろうか。その良さを少しでもここにいる時にもぜひ発揮してもらいたいものだ。
「なんだ賑やかだな」
小御門先生も帰ってきて広間は大所帯……でもない。この館は元々俺達で使うには広すぎる面もある。決して悪いことではないけれど。
「蘇芳」
「「はい」」
苗字だけ呼ばれて俺と華香里が同時に反応する。その様子が可笑しかったのかダリア先生がクスクスと笑っている。
「ああそうかここには二人いるんだったな……兄の方、君に預かりものだ」
彼女の手から黒いケースが渡される。独特な装飾から誰の物なのかは考えるまでもなかった。これはガンケースだ。
「沙羅さんに会ったんですか」
「沙羅……それが君の師の名前か」
彼女は神出鬼没の化身のような人なのだがこの近くにまで来ていたのか。タイミング的に今日俺が何をしたかも知っているのだろうな。地獄耳の権化というのも追加したほうがいいかもしれない。ケースの中を検める。
白色の外装とは裏腹に、その内装は紅いクッションが敷き詰められていた。まるで台座にはめ込まれているかのようにぴったりとクッションに包まれている物を取り出す。俺の背中越しにカルミアが興味津々で覗き込む。
「これは仮触媒か、チャリスに似ているな。おおかた少年のもう一つの聖具のためのものだろう。こっちの丸いのはなんだ?」
二つの黒い円筒を指して言う。こちらには見覚えがないのだろう。
「これは消音器だ」
当然一般の学生が所持して良い物では断じてないが、ここにいる人たちには今さらだ。俺のハードボーラー用か。次があればこれを付けておけという意味だな。気になるのはチャリスもどきのほうだ。ダモクレスの剣を格納しろというのなら、近々使う可能性があると彼女は考えているのだろうか。
昔から沙羅さんの意向は窺い知れないが意味の無かったことはない。彼女が必要と考えるのならそれが必然なのだろう。小さく息をついてパタンとケースを閉じた。




