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かくれんぼ -冥府からの使者-

作者: 本 太郎

『御伽草子』は今も終わらない物語である。

〇洗浄河原





 川面に夜霧が降りていた。大粒石だらけの瀬に大きな岩がある。大水で流れてきたものらしい。街が出来る前からここにある。岩は霧に濡れている。霧は雫になって流れ、筋を作り出していた。川を行く水は静かで、水面に動く影は見えない。霧は川風に舞い散らされることもなく、辺りに漂い続けた。

 静かな川の空気を揺らし、草の茂みを分ける音が微かに響く。草むらの隙間から兎が顔を覗かせる。石畳の上を警戒して周囲を探る。

 その時に岩の上から音がした。兎は驚いて草の茂みに身を隠す。辺りに静寂が戻る。その刹那また音がした。岩の上から水が強くしたたり落ちる。赤い水。岩の上には生首があった。水は首から流れ落ち、音を立てた。

 岩上に孤立したその顔に、苦悶の表情が浮かんでいる。生前乱暴に扱われたのだろう。土くれや泥が頬にある。血が滲んで黒く固まり、こびり付いてもいた。髪の毛は酷く乱れたままで、整えられていない。額に擦り傷が多くあり、口元に殴られた黒紫の痣もあった。痛みに悶えただろう口は閉じられることなく、真っ赤な舌を微かに覗かせていた。岩上の雨水は血で濁っている。

 生首の舌が微かに動いて、中から蟲が湧いて出た。岩を住みかにした主であろう。その蟲は岩からゆっくり河原に降りたが、彷徨う途中で土ネズミに逢い食われた。ネズミは岩から伝う血糊の匂いを嗅ぎ付けて現れ来たようだ。ネズミは蟲を咥えて、素早く草の茂みに消える。また河原が静かになる。霧が薄くなった。遠くでフクロウの鳴き声がする。

 岩上の生首の口が大きく開く。亡くなって間もないようで、生きているように口が開いた。何か言いたげに口が動き続ける。柔らかな赤い舌が動くのが、歯の間からわかる。

 このころ霧が薄まり星明りが河原に届きはじめる。その闇光も空に流れる雲で消え、河原が再び暗くなってゆく。また霧の白い闇が上流から流れ来て河原を覆った。見計らっていたかのように、生首が大きく口を開く。声なき今、叫びを上げようとするかに見える動きだ。声の代わりに口中から真っ赤な肉塊が吐き出される。口元で芋虫の様に動き出した。吐き出したのではなく這い出したのだろう。肉塊が乱暴に動いた拍子に生首が河原に落ちる。

 生首は河原の石を爆ぜながら転がった。生首は、岩の裏に横たわる元の持ち主の脇に戻る結果になった。首は河原に転がり、遺体の傍に寄り添い停止した。首と動体は二度とつながれることはない。だが一緒に朽ち果てることができるだろう。気持ち微かな幸せが見えたように見えた。空の雲が流れて、河原に淡い夜の光が戻る。岩の傍の肉塊は星明りを感じながら、踊るように動いている。

 河原に星明りが戻ると、遠くの芦原からタヌキが勢いよく現れ出た。遺体に近づいてゆく。河原に転がる骸の匂いを嗅いで回る。次第に冷たくなってゆく腕が着物の袖から伸びていた。タヌキが手の指を咥えて、強く引き千切ろうと動いた。だが食い千切れずに身動きが停まる。タヌキが物音を立てたと自覚したように周囲を見回した。首をうな垂れたまま葦原にゆっくりと歩み隠れた。体を巡らせて、草むらかの影からもう一度骸を眺め、身を低く構えた。だがタヌキの姿は茂みに紛れ見えなくなる。

 岩上の肉塊はタヌキの物音で静かに固まってしまう。次の時を待ち様子を伺っているように動かない。

 今度は草むらに犬が来た。大きな犬だ。身の丈が草むらより高く、背が見えている。隠れるそぶりも見せずに歩んでくる。

 闇夜に眼が赤く浮かぶ。口元に大きく太い牙の根元が見える。体躯は筋肉質で骨太。狼のようである。隠れていたタヌキは犬の気配を感じて、草むら奥に隠れたまま走り逃げる。走り去る弱き獣。草の擦れる音が聞こえやがて消えた。

 犬は草むらを悠然と行く。タヌキの物音に全く反応しない。耳は微動だしない。そして玉砂利と石くれの上を、羽根のように静かに岩へ近づく。周囲を一瞥して鼻を動かした。岩上を見上げるために首をもたげる。岩と星空を見つめ動かなくなった。

 犬の視界にはもがいていた肉塊は見えない。岩は犬の首先より高いのだ。川霧がもう一度流れて、岩場を包み隠した。静かな河原で今一度視界を遮っる。岩の周辺は、川霧で包まれたまま風も音も流れない。川を行く水音があるばかり。

 赤い目の大きな犬は、首が切られた骸を一瞥してから、両前足を静かに乗せ、遺体に乗り上がる。舌先で岩に流れる血を舐めた。直ぐにクシャミをするような勢いで血を吐き捨てる。息を止めてから、ゆっくりと大きく呼吸をしなおす。犬の鼻から川霧が吸い込まれ消える。気配と臭いを吸い込んだ。今度は、岩の一点を見据えたまま動かずにいた。その場で動かずに殺気を放つ。犬の気が総毛立つ。川の空気が一気に何倍も重くなってゆく。

 岩上の肉塊は殺気に呼応してユックリ力強く動き始め、岩上の血糊を辿り舐めるように擦れ転がる。岩の淵まで来て動きが停まる。肉塊が少し大きく膨らんだ。体内から天に向け肉棒を二本伸ばした。楊枝ほどの長さで太い枝のような肉棒が生じる。二本が長く伸び切ると、肉下面からまたも肉の棒が二本伸びた。今度は四本の肉棒先に、棘先のような先端が幾つも伸びた。棘先は指の様に動く。関節があるかのように角曲がりしながら伸びる。肉棒は苦しみを踊りで表現する。肉棒に力を漲らせ動き続けた。

 そして赤黒の肉塊は勢い下に落ちた。落ちた先には赤目の太い首がある。肉塊から四本伸びた腕の肉棒は、赤目の犬の毛を掴んだ。肉塊は下に落ちぬように蠢いて、犬の首筋真上へと登り始める。

 ようやく頂に登りつめた。犬の首上で停まった肉の塊は、その場で伸縮運動を繰り返す。肉塊の歓喜の踊りだろうか。坐りを確認したのかしっかと毛を掴んで話さずに動かない。

 犬は肉塊の移動が停まったのを確認したようで、草の茂みを避けて歩む。そのまま茂みの中へと消えた。すると河原にあった殺気も消失した。次第に霧も消える。星明りが川面に差して、和らかい光を川面が反射する。

 もう動けない屍は星明りを受け、河原に姿形が良く見えた。石河原の生首は、今も叫び声を出すよう口が開いたままだ。

 その口も死後硬直し静かに閉じられていく。生首は河原に落ちたが、もう傷は増えない。流れる血は固まって、体にも生首にもほとんど残されていないようで流れ出ない。既に流失した血潮は河原に染み込んで、川砂へと深く拡散し、やがて土に吸収されて消え去る運命だ。

 気配の消えた河原にはフクロウの啼き声と、川面の音だけになった。濡れた草むらが渇くと、虫の音も聞こえ出す。河原に自然の営みが戻ってきた。




〇夜鷹の夜



 川岸に幾つかの小船があった。今は夜なので岸に上げられている。誰かが勝手に使えぬよう、陸に持ち上げてあるのだ。何であれ、盗人が世の中から絶えることはありえない。

 船頭小屋の傍には、修繕の船が置かれている。浸水が増えれば荷の重みで沈んでしまう。昼間に船大工が来て修繕をしていた。

 船小屋は、流木を継いで骨柱として用い、ムシロで覆い壁とした。単なる日除け風除け雨除けだ。筵の隙間から見て分かる、荒く編んだ御簾のようなものである。

 昼間に客が来れば、荷でも人でも乗せて渡すか遠くまで運ぶ。川が夜になれば ここが夜鷹の仕事場になる。船頭集と女で決まりを作った。

 男供が遠い花街に出られることは少ない。日々の暮らしで精一杯である。貧しい人足達は、夜に近場の河原で憂さを晴らしている。

 船頭小屋の中は貸し賃が高く、陸に上げた船の中は安い。遊びと仕事は、船の上でムシロを使えば安い。そうした決まりだ。貸し賃は女の申告でなされる。誰かが管理するわけでもない。そういった仕組み、決まり事が自然とあった。夜の小屋と船の見張りは、体を売る女がする。船主にすれば、見知らぬ男や盗人盗賊に船を悪ささせぬに都合がいい。

 男も女がすることは、昔から決まっているのだ。それを能率的に行っているだけ。そうした決まりは不都合が生じない限り継続されて行く。夜鷹は船主に幾ばくかの礼金をする決まりだ。それがここの仕来たりである。

 礼金の多寡が、夜鷹の価値を決めていた。客も決まりを良く守った。争い事は起きなかった。騒動が起きれば、役人や悪人が来る。所場代がかさめば客が逃げる。上手くやらねば商売は成り立たない。上がりが無ければ暮らしが立たない。だから決まりを守る。そうして秩序は保たれる。


 用足しで草むらに来た夜鷹は、どこからか、風で男の声を聞いた。聞いた気がして、闇を眼で探って見る。どこにも人の姿は感じられない。不信に思い来た先の、夜に沈む川岸を見てから、もう一度首を巡らせる。確かに男の呼び声が聞こえた。

 夜鷹は見えない男の姿に思いを巡らせる。通りを普通に来て馴染みの女を探せば良いのに。わざわざ離れの草むらから声が掛かるとは、不思議な事だと思うのだ。何か悪さをして、稼ぎを巻き上げようとしても仕方ないだろう。この辺りで金を持つのは街道の上役人とヤクザ者だけだから。

 この夜鷹は馴染み客を持てずにいた。客は一見ばかり。行き当たりばったりで、通う者もない。それに暗闇の中である。肌のぬくもりと手の感触以外に顔が見えるわけでない。大きな町の花街で商いをする女郎とは立場が違う。

 だが気に入ってくれた客かもしれない。そう思って声の元を探るべく首を巡らせて闇に眼を凝らす。深い闇夜のことである。呼び付ける男の姿を、眼で容易に確認できない。夜鷹は見えない闇を探り見て、客の姿を探した。下半身の催す感覚も強まって来る。これで客取りは最悪だとも思うのだった。

 草むらの奥には一本の柳があった。声の主は、柳の向こうかと、もう一度眼を探らせる。下の始末をしたいが、ひとまず声の主を探しに歩いてみた。草に隠れてお遊びがしたいのかもしれない。男は馬鹿な生き物だと、夜鷹は考えていた。

 柳の下には幽霊がつきものだ。ここで商売をしても、病と飢えで亡くなった夜鷹も少なくない。年老いて病を得て、体を売れず亡くなった女は多い。夜鷹の行く末は幽霊くらいのものである。自分達もいつか妖怪変化になるのかと、仲間内で嗤ったものだ。どこかで行倒れて遺体を犬に食われるか、腐って代官の役人に始末されるのか、偶然に運良く坊主に見つけて貰い始末して貰うかだ。

 骸になればどうでもいいことだ。宿場町にある花街の人気物だって、治らぬ病になれば河原乞食同様、どこかへ置き去られるか、墓地の隅に打ち捨てられるだけ。結局のところ宿場の女郎も、最後は夜鷹と同じ運命である。

 足元がよく見えない深い闇が河原に佇んでいる。川沿いの道筋にも同じく闇が横たわる。夜鷹は虫の音を聞気ながら、夜に客をとる。客が来ない日もある。あてのない日常が繰り返されるのだ。

 こんな場所で青奸すれば蟲に食われるだけ。だからこそ小舟の上で稼業をするのだ。いくら夜中で何も見えず誰にも見られぬとも、肌に虫刺され跡があると客に嫌われる。肌の触り具合が悪くなるからだ。毒虫の影響で肌が膨れたら触りが悪くなり今晩の稼ぎが減るのだ。それでも馴染みはありがたい。だが激しく付きまとわれたら商売の邪魔になる。邪魔者であり困るだけ。新規の客が取れ難くなる。

 夜鷹は声の主を早く見つけて、川岸に連れ出そうと考えた。大事な女の柔肌が虫刺されじゃ売りものにならない。売れねば暮らしが成り立たない。

 草むらから声掛けする男には、何か言われや企みでもあるのだろうと考える。行って話を少し聞いてやれば、寝所に引いて行けるだろう。歩きにくい足元の草むらを何とか分けながら歩いて、声の出る辺りに来てみた。しかし柳しかない。周りを首を振って見回す。柳の枝が、微かに風で揺れているだけだ。

 男が背を低くして、草に隠れていると見当を付けたがさにあらず。夜鷹は体をひねりもう一度周りを見たが、目に入るのは闇夜が広がる草むらだけ。背中に草のすれる音がしたのでふり返って見ると、闇夜の向こうに赤い光が見えた。草の上に低く見える獣の光だ。野犬だと思うと身が震える。飢えた野犬に噛まれたら一大事だ。この柳周辺は、野犬の縄張りなのか? 今日まで仕事をしてきたが、一度も気が付かなかった。早く男を見つけて、女郎仲間の元に戻らねばならない。ここは危ない。

 夜鷹は闇夜に向け声を掛ける。すると耳に、ここだ、ここだと、言葉が聞こえた気がする。足元の草にくるぶしを取られながら、柳の下に呼ばれた気がして立ってみた。なにやら背筋が冷えて来る。

 柳は水気の多い木だ。夜鷹は、今この姿を誰かに遠目に見られたら、柳の下に幽霊じゃないかと思った。

 幽霊を思うと肌に鳥肌が立った。少し風が吹いてうなじをなでる柳の枝。暗闇でも見える枝先に芽吹いた葉が青いとわかるくらい近い。ますます下の始末をしたくなった。

 普段の年なら、季節柄寒くない夜の頃だろう。霊に慄いたまま客に鳥肌を見せて触られたら、男は嫌気が差して逃げてしまうだろう。冷たい女の肌にガサついた鳥肌。これでは商売物にならない。

 夜鷹は小袖の上から手の平で肌をさすり、柳の木を一周巡って男を探してみた。一本の木に隠れる場所などないが、そうせずにいられない。冷え込む柳の空気に、遠い野犬の赤い目。背筋が冷えるに十分である。遠くの犬が気になる。溜まった小水も更に気になる。

 夜鷹は肩筋に何かが落ちたのを感じた。襟首辺りに何が落ちたのか。生暖かい塊だと肌が伝えてくる。夜鷹は毛虫か蛙でも落ちたのかと考えた。冬に寒さで寝ていた連中が、春を感じ起き出す。そよ風に人の気配と足音を感じ、狙い定めて落ちたのだろうか。このまま襟足で潰れ、着物に染みでも付けられたら面倒だ。叩き落とさずに我慢した。臭いだって付いてしまう。そうなれば今晩の仕事も終わる。カメムシなら最悪である。

 夜鷹は長い髪を後ろ手に束ね下げている。髪を手で押さえ持ち上げ、上体を曲げてお辞儀し背を下に向けた。柳から落ちて来た物を地面に落とそうとした。すると髪に、何かが絡んだように感じる。毛の生え際が、物体の重さを感じ取り教えてくれる。何と面倒なことなんだろう。

 夜鷹は首肩にあった物体が髪に深く絡んだと考えて、地面を強く踏み跳び跳ねた。体全体に振動を加える。それでも物体が落ちた気配がしない。もう一度体を起こしながら、恐る恐る髪の中に手を入れてみる。気が進まないが仕方ない。物体を強制排除するしかないのだ。

 すると重い物が襟の中にもう一度落ちたのを背中が感じた。再び生暖かさを感じる。生温かさが気分が悪くする。怒りが体に巡り鳥肌が立つ。うぶ毛まで総毛立ってきた。身震いして失禁しそうになる。溜まった小水が噴き出しそうだ。目に見えない物体が、背筋に不気味さを伝えてくる。もう嫌悪感で一杯になった。とんだ災難だ。不気味さが背中を通り抜け指先にも到達した。

 もう我慢ならない。今晩の客なんてどうでもいい。夜鷹は一本帯を解いて前合わせを解く。悪態を吐いて上着を乱暴に脱ぎながら草むらに叩き捨てた。怒りで乱れた息を整え、気持ちが静まるのを待つ。心臓の鼓動が静まり、打ち据えた着物を拾った。その瞬間、首筋に思い掛けない重さを感じる。服に取り付いた何かは、今も髪のどこかに残っていたらしい。夜鷹が動いたから物体が揺れ重さを理解した。また生暖かな肌触りをうなじに想像して、再び全身に鳥肌が立つ。今度は膝が笑う。許し難い強大な嫌悪感で足先にまで充満してきたのだ。直ぐに上着を拾い、服地で首筋を払おうとした。だが思い直す。一緒に草上に落とした粗末な手拭いが視界に入った。手拭いをつまもうとする。上着が汚れれば洗い物が増えるだけ。手拭いで払い落とせばいい。

 夜鷹は腰を落とし背を屈め腕を伸ばす。手拭いを掴んだ刹那、身動きができない。首筋に深い痛みが遅れてきた。これは噛み切り虫か、強い毒虫だったのか! それとも顎の強いヤスデやムカデの類だろうか。もうこれでしばらく商売にならないと観念した夜鷹。それに熱が出れば当分床で身動きもできないだろう。夜鷹仲間に迷惑を掛ける。

 だが夜鷹はもう二度と体を動かすことができなくなった。前に屈んだまま首筋に暖かなものが流れ落ちるのを感じ。それは一筋がやがて二筋になり、数え切れない筋となり止めども無く流れた。

 夜鷹は己の手を動かし差し出すこともできず、硬直したまま草むらに倒れる。一瞬だけ草の擦れる音がして静けさが戻る。夜鷹の息は聞こえない。

 夜鷹の体は草むらにあるが、どこからも見えなくなった。身は草の丈より下になっている。これでは夜鷹仲間も、倒れている姿を知ることはできないだろう。こうして夜が流れて行く。夜鷹の意識が薄くなり、やがて何も考えられなくなった。

 夜鷹の倒れた場所を、遠くから目の赤い犬が黙って見ていた。身じろぎもせずに眺めている。赤い目が微かに闇夜に浮かぶだけ。星明りは微かに明るい。

 赤い目の犬は静かに草むらを見続けながら動かない。だが気配を探っているのか、動かない体躯に反し強い気配が空気を揺らす。存在感を強くする。

 半時ばかりして、犬は静かに闇夜に紛れて解け見えなくなった。風が少しあるのを、草むらが音で教えてくれるだけ。これから暫らくすれば河原にも夏が来る。草むらに多くの虫が出る。小さな命のせめぎ合いが起きるのだ。


 この周辺はかつて戦場だった。すでに戦乱の世の中が静まり、民草は川で洗い物をするようになっていた。荷を運び人の営みを濃くしている。かつて古戦場の河川敷は、民草に戦場河原と呼ばれていた。今は地図に洗浄河原と書き込まれるようになる。河原のたもとには兵を悼む祠が立ち、やがて大きな寺ができ上った。この河原の名付け親は、寺の開祖で先先代の寺の住職である。

 河原にはときおり念仏が流れる。鎮魂の祈りだ。そして平和への願いだ。戦の無い世は街道に人を集める。荷役が盛んになると富の格差が生まれ一帯の実権者が決まった。道筋に治安ができあがる。

 すると街道の闇夜に裏稼業を生業にした渡世人が現れた。平和は人の心に欲の闇を持たせる。闇は悪を呼び込む。闇の河原ではヤクザ連中が仕置場として使うこともある。夜に人目を忍べる河川敷は、またもや血糊を洗う場所に戻ってしまった。

 それでも昼間の人々は、この河原で多くの物を洗い清め、生活の水を確保し続けた。寺の坊主は念仏を何度も唱えた。新しい権力者は寺に寄進をし死後の安寧を願う。寄付で寺の運営がなされる。

 鎮魂の祈りは亡者にも届き、夜な夜な現れた落武者の霊や物の怪の類は見られなくなった。今も夜の中で活動するのは、ヤクザと盗人、博打男集に夜鷹と獣だけである。




〇大工の平助



 平助は博打のカタに着物を取られた。賭場で金を借りる代わりに差し出したのだ。差し出したが博打に負けて銭が戻せずにいた。皆の前でイカサマで取られたと強情を張る。平助は賭場の外に連れ出され、幾つか殴られ放り出された。倒れた拍子に地面の小石で擦り傷が生じる。賭場のヤクザ者は笑いながら平助を見下げ小屋に戻る。

 地面でうずくまる平助に、フクロウが蔑みの声で鳴く。平助は怒り、地面の小石をフクロウが要る辺りに投げた。フクロウの鳴き声は静かになった。しばらくして微かな羽音が聞こえる。平助はフクロウに襲われると思い、驚いて腰を抜かしてまた倒れた。

 フクロウは人を襲わない。ヤクザの仕打ちが身に応えているから、物音に過剰反応したのだ。平助は己が身の上を呪う。仕事で得た稼ぎを、わずかな時間で失ってしまったのだ。身包み剥がされて打ち捨てられた。これでは物乞いより始末が悪い。身にはフンドシ一つしか残されていない。


 平助の倒れた賭場は町外れになる。ヤクザに賭場を通じ稼ぎを上納しているようなものだ。収めている割に扱いが酷い。こうして道に倒れるばかり。だが文句を言っても殴る蹴るだけで、命を取られそうになったことは一度も無い。


 大工の師匠に弟子入れして5年。博打を覚えて勘当されたのも5年目だった。それで独り稼業をしている。

 独りになってから、街道筋の街や周辺の村に出向いては、建物の手直し仕事を請けて、食い物や小銭を貰う暮らしを続けていた。未だに棟梁には顔向けできない。だが大工仕事の安請け合いをしても、誰からも嗜められることはない。大工仲間に邪魔もされていない。

 師匠の度量が大きく広いのだと今更になって分かる。馬鹿な弟子で愚かだったと自覚できた。だが頭を下げて再び弟子入れ直しをできずにいた。少し金がまとまって入ると、こうして賭場でスっていたからだ。

 ヤクザに金を取り上げられていると分かっても、博打の力には抗えない。だから何度も殴られても賭場通いが止められない。だらしない暮らしぶりに誰からも嫁の世話をして貰えずにいた。平助の元へ、娘を嫁入りさせたい親は現れない。博打バカの平助の噂は、すでに遠くにまで届いていた。

 フンドシ一丁で立ち上がった平助。春とはいえ夜中は冷え込む。鳥肌を立てて震えることになる。ヤクザ者が消えた小屋に小さく悪態を吐いく。立ち上がり帰り道方面に向く。

 すると向こうから男が現れた。素っ裸で歩いて来る。背丈が平助より小さいように見える。最初は違うヤクザが戻ってきたのかと思った。木立の隙間にさす星明りで、男の姿形がわかる。夜に裸のヤクザも居まいと独り勝手に安堵した。手には布切れが握られているのがわかる。

 裸の小柄な男は、平助を気にせず近づいてくる。夜とはいえ裸では寒いだろう。見知らぬ男に憐みの感情を持った平助だった。自分はフンドシだけのこされている。裸同然である。

 しかし男が二軒先くらいまで来ると、血の匂いが漂ってきた。平助は不信に思い周りを見回す。近寄ってくる男の足音以外に何も聞こえない。人影も獣も姿もない。臭いの原因がわからない。平助はもしやと思い、男を道で待つ。やがて四間離れに男が来ると酷く汚れている。しかも生臭い。汚れは垢や泥ではなく血糊の様にも見えた。臭いの元は男である。

「おい、あんた。怪我でもしているのか?」

近寄って来た男は、歩みを遅くし平助の前で立ち止まる。

「そりゃ、血の跡かい」?

小柄な男は何も言わずに、平助の目を見上げる。目に力が無い。息の音が聞こえてこない。

「あんた。口が利けないのか?」

「……ああ? 嫌……。良いお日柄で」

「真夜中に何言ってやがる。頭でもぶつけておかしくなって……。あ! 奴らの仕業かい?」

「何の仕業かって? そりゃ知らねーよ。この世に生まれたばかりだからな」

「受け答えまで変だよ。こっちに来なよ。そこの小川で泥を落とそうぜ。なあ」

「ああ? 泥? ああこれか。そうだな地獄の温泉がいいよな。熱い温泉がさ」

「こりゃ駄目だ、相当頭に来ていやがる。もう何も訳が分らなくなっちまっているぜ」

平助は男の顔前で軽く手を振って見せる。

「あんた、俺の指が、何本あるか見えるかい?」

「おや指詰めをしたのかい? 何だ全部残っているじゃないか。面白れえ手だ、毛が生えてねえ」

「面白れえのはお前さんだよ。なあ頭は痛くねえか。奴ら呆けるまで叩いたのか。鬼だな?」

「ああそう、おいら鬼だ。青鬼だよ。よろしくな黒鬼さんよ~。久しぶりだぜ。ここで合えたぜ」

「おいらは鬼じゃねー。隣町の平助って大工だ。覚えておきな。あんたの名前は?」

「だから青鬼だって言っているじゃないか。黒鬼さんよー、へへへ」

「やっぱり駄目だな。そこの川岸へ行こうぜ、青さんとやら。その泥を流すんだ」

平助は小柄な男の手を引いて、近くの小川に連れて行く。青鬼は黙って従った。

 男の体は小さい割に驚く程筋肉質だった。力自慢の大工や人足でも、これほどの張りのある筋肉質の男はいない。それなのに血糊の泥で汚れる程怪我をしたのか? もしくは誰かを殺めたのだろうか。

 平助の手に感じた男の肉感は、創造を刺激して妄想が浮かぶ。しかし格闘の跡は見られない。夜でも痣は見て取れる。野党や物取りの類には見えない気もする。目が死んでいるのだ。悪人の目はしていない。鬼と名乗る割に邪気も発していないのだから。

 男が手にしているのは手拭いである。裸なのに手拭い。何処かで川に浸かるつもりだったのか。行動も発言も手荷物すべてがおかしい。

 平助は賭場から早く離れたかった。ヤクザに殴られるのは御免だ。男の様に血まみれは歓迎しない。小川へと足早に進み、賭場から遠ざかって行きたかった。自分の体に付いた土も洗い流したい。負けた博打の悪運も流してしまいたい。





〇新右衛門



 河原の草むらに、食い散らかされた女の死骸が見つかった。朝に烏が唾んでいたのを、通り掛かりが見つけて詰め番所に知らせに来た。

 街道町の普請所から見聞に出たのが、高山新右衛門だった。宿場町の普請所の役人は、三名しかいない。大きな騒動があると、細かい諍いには目が行き届かない。だから町外れの賭場もそうして黙認されて残っているのだ。

 新右衛門はこの町の出ではない。遠い代官屋敷からの勤めとしてこの街道へ来た。約束の年季が上がれば次の赴任地に赴く決まり。小さな荘園農地の代官屋敷では、赴任地が変わっても勤めの具合に差し障りは無い。親方は力のある武家棟梁でもない。御家人だ。それでも広い地域を管理している。戦もなくなり田畑も荒らされなくなった。地元には強力な影響力をもつのだ。

 年季が短いと普請所の人間として顔を売る機会が減る。赴任地を短い任期で回ると地域の顔役に舐められる。悪人共にも舐められる。新右衛門にはそれが気に入らない。役人として街道に顔を売り力を行使したい。それが侍の面子だと考えている。

 こうして河原脇の草むらで女が倒れ死んでも、殺されたのか病死なのか見当がつかない。女の生前が分らない。普段の暮らしぶりが分からないから、死因の推測もままならぬ。道行きで倒れたのなら病死だろう。物取りなら咎人を探し出し召し捕る必要がある。それが役目だ。

「旦那さん。夜鷹ですよこれ、この女。おいらの見立てに間違いは無いですから」

 先程まで、道の脇で汚物を吐いていた喜助がそう言い張る。喜助は新右衛門が小遣いを渡して取り物の手伝いをさせていた。手伝いや雑務をさせている男だ。京の都や大きな守護の街なら取り締まりの仕組みが定まっている。小さな町では正式な役目を与えることもない。町に生まれ詳しい者を選んで、探索の真似事などをさせている。そんな男は街道町毎にいる。便利に扱う男だった。騒動があれば直ぐに手伝いをさせている。この後聞き取りをさせる腹積りだった。だが食い散らかされた骸を見て、離れた場所でゲロを吐いている。情けない男だと感じているのだ。

 実は新右衛門も胃の物を戻しそうだったが、喜助の手前そうもいかない。腹と喉に力を込めて耐え忍んだ。口の中に酸っぱい物を感じるが、武人の見得として、死体の見聞に耐えていた。

 死んだ女は、臓腑を食い荒らされていたが、顔は食われていない。だが顔には血の流れた跡が残っている。死んだ後に臓腑を野良犬か、狸・貉当たりに食われたのだろう。血の流れから、起き上がって俯いて血が噴き出したかもしれない。殺されて運ぶ際に担がれ流れたのかも知れぬ。この辺りは河原に近いから、岸辺に住む獣が多く出る。獣に柔らかい腹から食われ惨めな姿を晒している。惨めな女に見えた。憐れな野晒し物だ。

 死んだ女の見聞といっても、こうなると死んだ理由がわからない。腸がないのと、体の到る所に獣が噛みついた歯跡が分かるだけ。歯跡に血の浮いて流れた筋が見えるので、こと切れて直ぐに獣に噛みつかれたのだろう。この辺りは夜になると、獣の通り道になるのかもしれない。蟲に食われた跡がない。蛆も沸いていないから、昨晩に起きた殺しだと思われた。病死の懸念も拭いえない。道で物取りに襲われて、引きずられた跡はない。足には草履が穿かれたままである。指や踵に砂利や土の筋、擦れた跡は残っていない。この草むらに来て死んだと考える方がいいだろう。すべてが推測だが。

 新右衛門は女を見下ろしていたが、背中には柳の木が新右衛門を見下ろしている。この木が一部始終を見ていたのなら聞いてみたいと思う。昨晩に何が起きたのか言えと。すべてを見ていたはずだ。柳の木に新芽が吹いて、若芽の緑が瑞々しい。死んだ女の血も多く地面に流れたことだろう。

 柳が染みた血を吸い込んで赤くなるかもしれない。女の情念が柳に口を割らせるのなら聞いてみたい。馬鹿げた思いだと否定はしたものの、今晩から女の無念が生じ、幽霊が立つやもしれない。今晩ここに来て女の妖怪や幽霊に真実を聞けば良い。事細かに真相を語ってくれるだろう。それで事件は片が付く。喜助、夜鷹なら今晩ここに来て、仕事仲間に訪ねてくれ」

「え! おいらが、ですか? 今晩夜這うには気味が悪いでしょ。きっと騒動を聞いて女郎共は来ませんよ。空手形になると思います。止めましょうよ」

「儂が来て空手形では示しがつかんだろ。お前が来て、誰それに聞けば役目が経つのだ。咎人がいるのなら縄を掛けるんだ。女が病死なら仕方ない。縁のある者がいるのなら亡骸を引き取らせよう。それに柳の下に死んだ女が立ったら、直接聞いてみるがいい。どうして死んだのか教えてくれるだろう。まあ、女に取り殺されぬように用心せよ。恨みを抱いているなら悩みも聞いてやれ。無下にすれば捕り付かれるぞ。明日番所にお前が現れねば、儂がここにお前を探しに来よう。さすれば恨みの事として、改めて咎人を探索する。何も出ねば寿命として行倒れと判断し、事件を済ませるだけだ」

「旦那さん無体な。おいらに春の夜風の中で女の幽霊に問答せよと言うのですか。悪霊だったら騙されますぜ。狐なら化かされるでしょ。取り調べになりません。旦那に物の怪の偽りを伝えることになります。それで良いのですか」

「女幽霊が出なければそれで良い。世に恨みはないのだ。物取りではない。お前が言うように夜鷹が来なければ仕方ない。違う稼ぎ場所を探して訪ねてもらうだけだ。夜鷹にれば聞けば尚更良いだろう。何もせずに黙って寝所にいるのはならん。良いな、言いつけたからな。何かしら調べて伝えるんだ」

「では独りじゃ淋しいです。誰かに手伝いをさせても宜しいですか? 商売仲間がおります。不審所の役目をしていない、商い仲間ですが」

「少しだけ駄賃を増やしてやろう。お前が物の怪に食われたら、その男を使いにしよう。誰か仲間と連れ立って夜に来れば良い。その場合は、その者も普請所に連れて来い。見聞してから銭を手渡しをしよう」「出来高で後払いですか。まあ従いますよ」

「銭を先渡しで酒にしたり女を買われては腹が立つからな。それに酔っては役目にならん。夜鷹を買って騙されても困る。偽りに翻弄されたくない。夜の役目だからと、先に昼から寝るのもならん。夜鷹なら船頭小屋や船主に分け前を渡しているだろう。誰が収めていないか聞けば、仏の見当も付はずだ」

「確かにそうですね。死んだら銭は渡せませんからね。三途の川に駄賃は必要ですけれどね」

「だが高飛車に聞くなよ。折り目を正して聞くが良い。偉そうに役人風を吹かせては、話す事柄も中身も減ると言うものだ。言いたくないことを、上手に聞き出すことが肝要だ。良いな」

「へい、わかりました。下手に出ればいいんですね。下手に。川人足は気が荒いからな~。高飛車になんて聞けません。簀巻きにされて、下流で沈められてしまいます。恐ろしい連中です」

「あまりに下手に出たら舐められるぞ。胸を張り役目として聞けば良いのだ。卑屈になるな。お役目を軽々しく扱うなよ、喜助。お前は町の人間に対し、儂の役目を負っているのだ。儂の代理である。お前が舐められたら、儂が舐められたも同然だ」

「へい、わかりました旦那の顔を潰さぬように努めますよ。とほほほ」

「うむ。上手に聞き出せないと無暗に焦るな。無視されたといって癇癪を起こすな。相手を責めるなよ。村々で役人が横暴すると陰口を言われて、代官所に聞こえれば困る。儂が上役から横暴で無能者だと思われ誹りを受ける。町の治安は緩くてもキツクてもいかん。程々が上手であるの。締め上げれば恨まれる。緩過ぎては舐められる。頃合いや程度を見て、上手にやらねば勤めにならん。そのことを忘れるな。儂とお前はこの町を守る役目がある。一心同体なのだからな。頼んだぞ」

「へい。上手にやります。女の幽霊に取り殺されないようにね。ああ気が重い」

「頼んだぞ。わしは今晩、街の普請番に入っておる。何か起きたら駆けて来い。詰め番所にはいない」




〇虱長屋



 村の者も住人も虱長屋と呼んでいる。長屋ではなく一戸建ての小屋群であった。街道から小道を一つ入った筋先に長屋がある。

 その昔に飢饉で荘園を流れた農民達が住み着いて、子を為して平穏に暮らしていた。この村にはそうした歴史があるが住民はもう忘れている。飢饉や戦は昔のことだ。村外れの寺に記録が残っているだけだ。日当たりが良く水捌けの良いこの辺りは、稲作でなく麦が良く実る場所だった。その穀物畑と森の境の外に宿場町ができた。大きな川が近いからである。戦の波が去り、世の中が平和になって商い荷物が行き交うようになったからだ。町外れは川と街道で潤った。町として栄え諍いが起き、治安維持で不審番所も作られて今に至る、歴史が短い街であった。


 賭場で身包み剥がされた平助は、血まみれだった男を拾い長屋に戻った。それは夜中のことである。一軒長屋の者達は、平助の帰宅を知らなかった。空き巣も入らない貧乏人しか住まない小屋だ。安心して寝入っている。足音や気配を気にするだけ損である。

 朝日が昇り、遠くで鳥の声が聞こえれば皆起き出してくる。貧乏な一軒長屋でも、中心に井戸があった。遠くの川まで水汲みに行くこともない。便利な長屋だ。川の寄生虫が避けられると、住民は井戸に感謝していた。川へは洗濯と魚取りの用しかない。

 平助は賭場で負けて食い物が無くとも、井戸水をたくさん飲んで朝飯代わりにして過ごす。それで大工仕事に出て行く。すきっ腹に水を収めて空腹を満たしていた。大抵は仕事場に行く途中で少便になる。仕事を始めると空腹を忘れる。それくらい仕事に向き合っている。だが博打だけは止められないのである。いつも今日の稼ぎで何かを口にするしかない。大工の対価を銭でなく食材で貰うと博打に行けない。気を利かせて銭を払わぬ者もいた。


 昨晩道で拾った男は平助の家で寝て、健やかに回復していた。土間だけの小屋である。だから虱にやられる。それで虱長屋と呼ばれるのだ。地面の上に筵を引いただけの家作り。夜露をしのぐこと以外何もできない。大雨が来れば浸水するのだ。台風で筵壁が吹き飛ぶこともある。そんな時は濡れて耐えるしかないのだ。ここは一年中穏やかな地域だから、滅多に雪も降らない。寒い冬も、筵に包まって蓑虫のように過ごせば、滅多に凍死しない。

 平助は良い国で生まれたと感じている。それで春になると勢い付いて、賭場に出ることが楽しみになる。博打に負けてヤクザに身包み剥がされ、外に放り出されても凍死することがない。賭場のヤクザも身包み剥いだら、古着を古物屋に売り払う。古着屋もヤクザの持ち込む古着が嬉しい。必ず買い戻しに現れるのだ。負けた博打客が買い戻すのだ。

 平助はそれを当日、もしくは二日三日の稼ぎで古着屋から買い戻していた。これを懲りもせずに繰り返す。こうした愚か者は街道筋に幾らもいた。

 身包み剥ぐのも商売である。平助がヤクザと古着屋を養っているようなものだ。こんな芸当ができるのも平助が腕の良い大工だ。だからこそ惨めな暮らしぶりになる。

 平助は褌一丁の姿で大工の半被を羽織る。肩に木綿を縫い付けた大工の半纏だ。。下半身が裸なのだから遠目には人足に見えるだろう。これで道具箱を担ぎ持ち、仕事に出ることになる。昨晩連れて来た男は身に何も布を着ていない。手に握った手拭いだけが財産のようだ。男は股に一物を下げて歩いても悪びれる様子は見えない。平助だって羽織る服以外に褌一丁しか持っていない。男に貸すような布切れはいっさい家に存在しない。大工道具以外に財産と言える品は皆無だ。

 長屋の皆に黙って男を虱長屋に置けない。男が他の家から食い物を盗んだりしたら騒動になる。その日暮らしの者から物取りできるとしたら食い物だけだ。事起き理由が知れたらここにいられない。大家に長屋から追い出されてしまう。何事が無くても所在の知れる男を囲い置けば疑いの目を向けられる。小さな問題もすべて自分に向けられるとも限らない。

 大家にも長屋の持主に何も申し開きできないだろう。番所に無宿者がいると届け出られたら、平助が咎人になってしまう。最近になり治安維持の目的で、無宿者はヤクザくらいだけになった。平和な時代が来たのだ。 平助は博打に負けた仲間として扱い、長屋に連れて来た。もうしかたないから、そのままの姿で連れ出すことにする。長屋の住人に見られぬように、一番鶏が鳴いて直ぐ外へ連れ出した。

 平助は昨晩遅くまで博打に興じていたので眠かった。そして今日は朝一番だ。仕事場に向かう道に人の姿は無い。誰も歩いていない。好機である。

 道草しながら食料を調達するため、畔道を歩き渡り造機林に向かう。若芽が芽吹いた草むら入ってみた。幾らかの野草が取れる可能性がある。渋く苦いがこれが朝飯になる予定だ。秋に農民が柴草刈りした跡だから、食べられそうな野草があると考えた。

 煮炊きしないと灰汁が強いが、不味いだけで食えないこともない。博打で負けが込んだ時は、こうして山や里の恵みに助けられている。山を管理している農民に見つかると煩いが、早めに逃げ去れば良い。

 小川には小エビや沢蟹もいる。こまめに捕って料理の材料にすれば美味しく頂けるだろう。だが女房のいない平助には縁遠い話である。田植えが始まれば、小川でドジョウやウナギなども取れる。

「竹でも編んで仕掛け用の籠でも作るかな」

平助は独りボヤいてみた。連れの男は不味そうに野草を食んでいたが、小川に向かって歩き出し水面を眺め始める。水面に見入っていたかと思うと、目に見えないほどの速さで水面に腕を入れた。水音を立てぬ速さで腕を突き入れたのだ。素早く腕を水面から抜き出す。指先に魚が突き刺さっている。それを口に放り込んで、音を立て食べる。平助に魚の骨が砕ける音が聞こえてくる。

 平助は男を見て茫然となる。これほどの動きができるのに、本当にヤクザに殴られて血まみれになっていたのか。息が酒臭くなかったから泥酔はしていないと考えた。だから余程多くの者に囲まれて、殴る蹴るの暴行を受けていたのだろうと想像した。

 出血の量で、自分なら死んでしまうと思った。血で塗れた姿を脳裏に思い出し描き、身震いした。賭場のヤクザは加減を知らないと考えていたのだ。

 平助は昨晩散々に殴られ蹴られたと思ったが、思いの外優しかったかもしれない。身包み剥がされ放り出されても、懲りずに何度も賭場に来る、上得意様待遇だったのかと思う。ヤクザにとって、大切な『カモネギ男』であったのか。想像したら体から力が抜ける。この身体能力の高い小柄の男をどうやって血塗れにできたのだろう?

「黒鬼さんよ、草ばかり食って何時から山羊になったんだ。ほら川に良い魚がいるぜ。もっと捕まえてたらふく食おうぜ」

「川魚を生で食う奴がいるか! 寄生虫にやられたらどうするんだ。虫下しで落とせねえんだぞ。薬を買うにも銭がいるんだ。魚は焼いて食うもんだ。この馬鹿たれが」

「何を言っているんだよ。あんた罪人共を美味そうに食っていたじゃないか。向こうの暮らしを、もう忘れたのかい。情けない。すっかり人間だ」

「何を寝ぼけたこと抜かしてやがる。誰が罪人なんぞ食うか。地獄の鬼じゃあるめえし。寝ぼけるな」

 平助は、素っ裸の男は怪しげで変な事を言うと感じた。昨晩出会った時に、旧知の仲みたいに『黒鬼』と呼んで来たのだ。『黒兄』と聞き間違えたと思ったが、今朝も自分を『黒鬼』と呼んでいる。己が名前は昔から平助だ。皆にそう呼ばれて来た。親が名付けた名前だ。親兄弟は既に世に亡いが昔から平助である。どこかにいる『黒の何某と』と勘違いしているのだろう。ヤクザに頭を叩かれて、おかしくなったままだろうと考える。すると不憫に思えてならない。

 男は股の一物を川面の上で揺らしながら、楽しそうに魚取りに興じている。小さな川だが、魚がそんなにいたのかと驚いた。だが川から魚を取り尽すと、しばらくは魚が戻らない。

「いい加減にしろ。そんなに食ったら川に魚がいなくなる。そこいらで止めておきな」

「おお。そうか、そうか。魚がいなくなるか。小腹も膨れたし、もう止めるか」

 男は笑いながら平助に近寄り川から出た。濡れた下半身のまま、乱暴に草むらへ体を投げた。そして土の中から小石を拾って、手の平で弄んだかと思ったら、拳を作って乗せ親指で弾いた。指弾である。

 平助には爆ぜた石つぶてが見えなかった。だが小梢の先に止まっていたスズメが下に落ちた。見事な技だ。スズメに小石が当たった事を理解する。全く動かない。即死なのだろうか?

 平助はこいつは妖術使いかと思う。普通の人間が、石を鳥に当てるのは至難の技だ。例え小梢の先に留まる鳥でも、簡単に石つぶてを当てるのは難しい。人が狙えば鳥は気配を感じ、却って投げる動作の前に空へと羽ばたき逃げてしまうものだ。平助は子供の頃に鳥に石を投げて当てた記憶は一度も無い。

「不味そうな鳥だが、これなら山から動物が減るまいな。軽く羽根を捌いて食おうぜ」

 男は風のように立ち上がりスズメの元に進む。

「そ、そんな雀なんぞ食う所なんかあるものか。羽毛を毟って臓物を取ったら、骨と皮ばかりだぞ。可哀想な事するな。それにしても凄い技だな。どこで習ったんだ」

「何を言っているんだ。誰でも出来るじゃないか。特にあんたは凄腕だったろう。皆が感心していたよ」

「おいらにそんな芸当が真似できるか。誰と間違えているんだ。おいらは大工の平助だ」

 雀を拾いに行った男の背へ目がけ、平助は言葉を投げた。男は言葉を聞いている素振りも見せずに、急に草むらへ顔を向けた。そして体の横に沿った腕を軽く捻って拳頭を向ける。親指が石を弾いた。草むらにいたウサギが一瞬跳ね跳びて倒れる。草原から微かに顔を見せている。苦しみもがいているのが、草の動きで見て取れる。

 男は嬉しそうな足取りでウサギに近寄る。草が無節操に動いて、中にウサギがいた。怪我を負って満足に動けない。夏毛に生え替わった灰色縞のウサギである。男は耳を持ち、ウサギを持ち上げる。

「このウサギなら食える肉が沢山あるだろう。ほら見なよ、黒鬼さん。美味そうなウサギだぜ」

 ウサギは男の手に握られたまま、逃げ出そうと懸命に動いて見せた。男はウサギの下顎を指で掴んで縦に引き裂いた。上手に顎骨と皮がつながって真下に裂け、臓物が下に零れ落ちた。灰色の腸と赤い鮮血が下草を染め上げる。一瞬のできごとで、平助は言葉も無い。

「お、お。お前。そのまま、生肉の兎を食うつもりのか。今先まで生きていたウサギだぞ」

「そうだな。巧く皮を剥いてやるよ。その方が美味いもんなあ。あんたはやっぱり食通だな」

 男は割けたウサギを草むらに降ろし、腹に両指を入れて、肉と皮を強く引き裂いた。そして首をねじ切り胴体と分割する。後ろ脚の踵を捻り関節で千切る。圧倒的な握力を見せつける。刃物を使わずに、上手にウサギを捌いてゆく。大まかにウサギを千切り終えると、男は肉を持って立ち上がった。小川に進む。川際の瀬にある、漬物石くらいの黒い石を持ち上げる。それを大きな岩の元に持って行き、20センチくらい離れたところで目に止まらぬ速さで突き叩いた。石が大きく低い音を立てて割れ割けた。その石片の幾つかから刃物状になった石を拾う。それでウサギの臓物を切り刻み始めた。驚く程良く切れた。

 平助は男の手際の良さに驚く。ウサギは綺麗な肉の塊りに変貌した。皮の血糊を川で洗い流す。石刀で皮裏の脂を削いでなめしてしまう。

 平助は実はこの男は、山の玄人衆で手練れ技の持ち主だと見抜いた。大工仕事も、名人達は事も無げに仕上げるものだ。そして動きに一切の無駄がない。

 名も知らぬ裸男は、見る間に手捌きでウサギを解体してしまった。毎日こうして、山の恵みを得て暮らしを立てていたのだろう。そう平助は想像する。この男の言う本当の『黒鬼』さんは、どこかの山に棲んで、裸男とこうして徒歩を得て来たのだろうと考えた。人の技を超えた技量で『鬼』の称号を山伏にでも貰ったのだろうか。だから自分の事を『青鬼』と呼んだのかもしれない。平助は想像を膨らませた。

 裸の男は取り出したウサギの腸を鼻で嗅ぐ。大きく深く息を吸い込む音が、平助にまで聞こえてきた。

「この臓腑は不味そうだ。捨てちまおう。獣の餌になるからな。もう山も若芽の季節は終わったみたいだ。春先のウサギの腸は、若草の新芽を多く食って香りが良く美味いんだがな。そうだろ黒兄」

「し、知らねえ。ウサギの臓物なんて食ったことはねえぞ。お前、山奥に住むマタギか山の猟師なのか?」

「変なこと聞くなよ黒鬼さんよ。俺は青鬼だよ。あんたは黒鬼さ」

「変なことを言うな。俺は鬼じゃなくて大工の平助だ。間違えるなよ」

「あんた頭を打って可笑しくなったのか? あんたをもう一度殺すため、こうして約束通りやって来たんじゃないか。あっちの世界で約束したろ? 俺の一方的な思いだけだがな」

「何を物騒な話をするんだよ。おいらを殺すだと。ふざけるねえ、馬鹿を言うな。なら夜に何度も機会はあったろう。おまえ何もしなかったじゃねぇか。脅かそうって、そうはいかねえぞ」

「何も約定を破ったりしねぇよ。ちゃんと決まりが付いたら、あんたをあの世に送るさ。向こうでまた楽しくやろうぜ。人の世は生き難くて仕方ねえ。もう目を覚ましなよ。十分楽しんだろう?」

「おいらは寝ぼけちゃいねえ。そりゃ賭場で遊んで寝不足かもしれねえが、しっかりしてらぁ。こうしてお前さんと山に来て、食い物漁りしてるだろうが。おいらは正気だぜ。酒も入ってねえんだ」

「酒か。昔に腹いっぱい飲んだなぁ。都の酒を全部盗んで飲んで、武士に酷い仕打ちにもあったしな。それで大王にも黒兄にも怒られてさ。赤鬼なんて真っ青になってたもんな。懐かしい思い出さ」

「何を言ってやがる。生まれてこのかた、都になんぞ一度も行ったことはねえぞ。呆けたこと言うな」

「何だい、みんな忘れちまったのか。いいさ、思い切り頭を殴れば、きっと思い出すだろうさ」

「おいらの棟梁でもねえのに、頭を殴らせるもんか。棟梁とは今はこうして離れてるがな。だから許し無くおいらの頭を叩くのは、賭場のヤクザくらいんだ。やいお前、おいらを叩いたら絶対に許さねえ。いいな覚えとけ」

 『青鬼』と名乗る男は、突然平助との会話を止めて、森の中を山側に顔を向けた。そこには大きな犬がいた。茶褐色の大型犬である。子鹿ほどの大きさがある。まったく草を踏む音を立てずに忽然と現れた。平助も『青鬼』と名乗る男も接近に気が付かなかった。だが突然に気付かされる。忍び寄ってから気配を現したのだろうか。気付けと強制されたような現れ方だ。

 平助は野生の大型犬だと思った。とても飼い犬にはみえない。飼い慣らされている雰囲気が微塵もない。ここで自分達は川魚や鳥、ウサギを食い散らかしている。血の匂いを嗅いで現れたのかもしれぬ。この山の主か? 平助は、この辺りを縄張りにする野犬の長だと決め付けてみる。邪魔者を排除しにあらわれたのだろうと。

 ところが一匹の大型犬以外に、群れの犬達の姿は周りに見えない。単独行動の最中だと平助は考えた。知らずに縄張りを侵したのなら、黙って大人しく逃げればいいのだ。仲間に囲まれては逃げる算段も潰える。人の大きさの大型犬だ。戦っても勝てそうにない。走って逃げきれるとも思えない。ここでは狼や熊と対峙するも大差ない。負けたら餌にされてしまう可能性が高い。どのように退けば良いか頭を巡らせてみた。

 だが『青鬼』と名乗る男は違う状況に見えたのだろうか? 犬を見て敵意の表情を浮かべている。奴には既知の犬なのだろうか? 『青鬼』は不意を突かれ不覚を取ったと思ったのだろう。それとも自分で縄張りを主張したい気持ちがあるのか? 『青鬼』が山の民なら己の縄張りを主張するだろうと思えた。縄張りは生きてい行くための大事な餌場である。両者にとって同じ思考だ。対立方向になる。ここで対峙したなら縄張りを主張し勝ち取るしかないのだ。

 『青鬼』と名乗る男は、犬に向けて体を向き直し構える。もう平助のことは頭から消え去ってしまったように見られた。二人で話をまとめる素振りには見えない。

 平助には『青鬼』が手にしたウサギの肉が美味そうな鶏肉のように見える。皮は売れそうな品に思えた。大きな犬はそれを欲していると思えた。犬には犬の食いたい肉の部位があるはずだ。獣だけに強い要望を持つだろう。美味いところを先に食うのは、人でも獣でも同じ感情だろう。それに獣には序列が必要不可欠である。争い優位性を確認する決まりだ。

「おい、そのウサギをそこに放って逃げようぜ。あんな大きな野犬に敵うもんじゃない。大怪我するぞ」

『青鬼』と名乗る男は平助の言葉に耳を貸さない。遠くに見えた犬は、少し頭を下げて構えた。戦う意思があることを、平助でも読み取れる。威嚇の構えだ。犬の前足は少し曲がり力を蓄えたように見えた。こうなると人の走る速さでは、決して犬の足に敵わない。逃げても追いつかれ背中から押され、前のめりに倒れ噛みつかれるのが山だろう。平助は鳥肌が立つのがわかる。小便も漏らしそう。下半身から尿意がこみ上げてくる。そして平助は褌の中で一物が縮み上がるのを実感する。褌の締まりが緩く感じられてきた。それどころか恐ろしくて糞まで漏らしそうだ。肛門の締まりが緩むのを自覚する。

 ヤクザと違って話し合いの余地も、銭勘定も関係ない。相手は大きな山犬だ。話言葉の通じない相手だ。今の争い事の火種は食い物だけ。こうねればウサギの肉を遠くに放り、ゆっくりと後退するしかない。犬に見逃して貰い、向こうが肉を口にすれば許された証拠が得られる。急いで背中を見せて逃げれば、攻撃の意思を捨てぬと思われ襲われるだろう。

「その肉を遠くに放れ。そうすれば犬も許してくれる。ここに長居し過ぎたんだよ、俺らは」平助は『青鬼』に声を投げた。




〇洗浄院寺



 慧隠和尚は朝の読経の最中だった。

 地域一体の戦が収まり、洗浄河原近くに村が出来て小さな菩提寺ができた。住職が必要だからと大きな町寺が高野山に頼んで慧隠和尚が来た。和尚は戦災孤児を寺の坊主に育て上げた。多くの僧や聖が生まれた。和尚の名は一体に広まり、名声を得て寺も大きくなった。渡り僧兵も戦が無くなった。仕方なく草鞋を脱いで寺の荘園作りをして暮らし、寺を支えた。荘園は大きくなり街道筋に食料を供給し幾ばくかの銭を稼いだ。それが町寺や高野山に上納された。和尚の名声は御山にも轟いた。だが和尚は今も鎮魂の為に、こうして毎日朝晩念仏を唱えている。

 寺の者は朝の御勤めを済ませて、朝食の準備と托鉢に出ていた。食料は足りたがこれも修行である。寺の中は静かで、住職の読経が外にまで響いている。

門前の小僧も読経を聞いて諳んじていた。

 そこに背の小さな武者が現れた。和尚に合いたいと言う。和尚に合いたい者は多かったが、何故か今日は誰も訪ねて来なかった。こうした日もあると小僧は承知している。毎日のお勤めで学んだのだ。

 武者は子供の背丈しかない。だから門前にいる小僧より少し丈が高いだけ。だが驚く程に体躯がしっかりしている。御腰の重さに振られることもなく歩いて来た。丈夫な体躯は身に付けた鎧の上からも分かるほど。身に力が漲り軽々と動いていた。具足を付けていたが足軽の装備である。兜を背に下げていない。名のある武士では無さそうだ。

 門前の小僧は読経が終わるまでお待ちくださいと武者に伝えた。武者は聞こえる読経の声が和尚の物と知り、門前で待った。小僧は中でお待ちするよう伝えたが、ここで待つと動かなかった。小僧は午前の勤めである掃き掃除を武者に気配りせず続けた。和尚の声は門にも良く響いた。

 読経が終わり武者は勝手知ったるように寺に入る。小僧は前に来た人物だと思い込んで追ってまで案内をしなかった。武者は広間に進み出て和尚の背中に座り頭を下げた。そのまま言葉を頂くまで待った。

 慧隠は読経を辞めたでもなく朝の勤めを果たし鎮座したままであった。誰かがここに来る予感があって移動しなかった。

 小さな武家の者は頭を下げたまま身動ぎもせず待ち続けた。腰の物を外し背に回して置いている。平安の武家の習わしに従っているようだ。

 慧隠は読経を終えたまま男に振り向かず声を投げる。

「お主、何処からなりや」

「奥の院から参上しました。お初にお目に掛かります。拙者、坂田の金時と申します」

「古来の荒武者の名を継ぐ者か。当人か」

「和尚。当人で御座います」

「ならば己は、物の怪の類か、否か」

「さにあらず。冥府の大使の命により蘇えり罷り越した次第で御座います」

「死人ならば寺に現れれば調伏されよう。如何にして力を使いこの寺に参ったのか」

「役の鬼が世に出ております。追っ手として選ばれ申した。それで御挨拶に伺った次第です」

「お主は黄泉の道を遡り、役行者の使鬼を追ってこの寺へ推参したのか」

「既に黄泉の道は塞がれました。地獄からの道も塞がれております。物の怪の類はもう現れませぬ。ご安心を」

「ここに世に、平穏を乱す妖を調伏す術を知る者は少ない。それは在り難い事である」

「左様に御座います、慧隠和尚さま」

「ならば、背の後ろの業物は、妖刀の類か」

「神器の種に御座いましょう。妖怪の類はほど良く切れますし、悪人も良く切れる業物です」

「後ろに得物を控えたるは、何か此処に近寄っておる現れなのか?」

「いえ。古式に拠っております。和尚が不快の念をお持ちならば、如何の様にもしましょうや」

「近来、金武は右脇に腰の物を置く習わしじゃ。古式であれば太刀の扱いであろう」

「はい、この太刀を初めて見て驚きました。軽くて良く切れそうな面相をしております。唐来の太刀では御座いません。日の元で作られた刀で御座います」

「それを人切り包丁と呼ぶ者もおる。戦乱の世に鉄器は鍛え抜かれ、かの様に発達して来た。多くの者が刀を手にし、世を乱す鉄器となったのだ。だが神剣とはの~」

「数百年の後に、世相は大きく変わったので御座いますな。これから趨勢を学んで行きたいところですが、早くに役目を終え黄泉の地に戻らねばなりません。長居をすれば、いつか私も物の怪に相成りましょう。さすれば和尚に魔として調伏されましょう。さすれば黄泉の国へ戻る事叶わず、仏の作った地獄に落とされ、鬼と競い合わねばなりません。かの地では、人も神も魂は無限の時が待っておりますが。早くに黄泉に戻りとう御座います」

「そうか黄泉と地獄は違うのか。愚僧も初めて知ったわ。己が金時ならば信じるしかあるまい」

「大陸より大使が密教を持ち込んだ際、地獄も教義と共に持ち込まれました。以降多くの亡者が黄泉ではなく地獄と極楽へ分かれ棲むことになりました。黄泉ならば一族郎党順次送られ旧知を温めることができますが、地獄と極楽では様子が違います。殺生する者は輪廻転生の輪に巻かれ、無間地獄に落とされるばかり。彼岸此岸と恐ろし気な世になりました」

「そうか、あの世も突然に変わった訳か。だが悟りを得て解脱すれば輪廻の輪に乗らずとも済む。仏が指し示して居る。何処に参るのか教えておらぬがな。なら黄泉は現世と何も変わらぬだろう。仏の御心も知るまい。どちらが良いとも言い切れぬな。難しいことである。彼の世には、神と仏の境界線があるのじゃな」

「はい。神代であれば代替わりもできますが、人には神通力が無く、代替わりできません。黄泉はただ静かなだけで御座います。気力が衰えると蟲に食われて腐り果てます。居るに難しい世界でありましょう。私は生前鬼と戦こうても、こうして丈夫にあります。それで大使の使いとして現世に罷り越しました。ご挨拶が済みましたら鬼を狩りに出ます。しばらく巷で騒動がございましょう。不安から寺を訪ねる民衆もあります。和尚の人徳でもって説き、安寧に導きますようによろしくお願い申し上げます。また彼の地に戻る際に御挨拶なりません。事が成れば消え去ると教えられております。さればこれが出会いと分かれの挨拶でありまする」

「早くの勤めを仏に願いましょうぞ。武運をお祈り申し上げる。一期一会の縁で御座った」

「在り難き幸せに御座います。鬼が人を食い荒らした際には、咎を払って頂きたい。妖かしの力が残っております。世の治安を乱す元凶となりましょう」

「元より承知致そう。改心成らざるに亡くなれば、地獄行は必定。滅事が御仏の心に沿わぬと云えよう。愚僧が祈り鎮魂となそうぞ。ご安心召され」

「悪しき鬼は弱い者から食い始めます。最初に女子供が狙われます。良き鬼は悪しき者から食うと申します。心疾しき者も狙われます。我が頼光殿と戦った鬼は酒を好んで欲し、悪さを繰り返しました。何とか腕を切り落として退散させましたが、依頼行方がわかりません。未だに世に蔓延るのであれば一緒に退治して、地獄に送り返したいものです」

「大使の命を優先されるが良かろう。悪しき者は世の平穏により自然淘汰されるだろう。邪気が無ければ生きて行けぬ。そのために御坊はおるのじゃ。世に平穏無事をなせば、坊主の役目も終わるというもの。鬼頭の上にも仏の御心があるはずじゃ。仏の真意は人には決して分からぬもの。貴殿が悩む必要はないであろう。そこもとは役目を終えて元の世界の戻る事だけ考えよ。良いな御仏の命に従うが良い」

「ありがたき言葉、痛み入ります。黄泉より参りし我が身には、勿体ない言葉で御座る」

 境内の奥から托鉢僧が歩き戻る音が聞こえた。朝の御勤めも終わりの時が来た。

 頭を下げていた金時は、足音に気付き面を上げる。

「ではこれにて退散致します。これからの御坊のお勤めをお祈り申し上げ、退散しましょうや」

「貴殿のお勤め、大願成就しましょうぞ」

「ありがたき幸せに御座ります。失礼をばしました」

 金時は立ち上がり、風のように軽く歩き慧隠の視界から消えた。跡に死人の匂いが残った。

 慧隠は洗浄河原がまた戦場河原にならぬように祈るばかり。この地で流れた血の多さが、こうして魑魅魍魎を呼び込んだと心を痛めた。鎮魂の祈りが足りていないと実感した。呪詛による鎮魂や安寧は、脆くあったと知る慧隠である。己が力に落胆する。だから黄泉から武者が蘇るのだろう。現生の武者では立ち向かえない。物の怪の本質だと考える。

 平安の世に京の都ではびこった『悪鬼・酒呑童子』を鎮めた源頼光と配下の坂田の金時だ。伝説の公達が黄泉の国から舞い戻ってきた。日の元で起きる妖怪騒動。これらの粛清に影の役割を担う天台や真言の奥の院達の力。それが死者に任を頼む事態になっている。指示を出した当人はあの世の者におわす真言の大使であるという。何としたことであろうか。

 出たとされる鬼も、役小角が使役に使っていた前鬼後鬼だというのである。伊豆の離島に流された山岳修験僧の開始祖である。神話の時代が終えて幾百の年月。今は大きな戦が静まり血を流さずに暮らしが立つと喜んでいた矢先に、災いが降って降りた。

 ああして太刀を日本刀に持ち替えた小さき体の武者の金時。悠久の年を超えて、地の底で混乱の時を待っていたのか。静かなる黄泉の国で次の騒乱に備えていたのだろうか。神々さえも腐らせる亡者が蠢く冥府、黄泉の国だ。

 日本教で唱える死者の国から鬼を追って現れ出でる公達。金時は己が働きが悪ければ自らも妖怪に貶めてしまうだろうと言う。寓話にもなった金太郎が鬼を退治できねば、この世はどうなるのだろうか。寺で護摩焚きをして妖気を払えるのか? 

 慧隠和尚は庭の聖達を見て巡り合わせの悪さを悼んだ。戦乱で孤児となり平穏が戻っても尚妖怪や魑魅魍魎に怯えるのだ。

 仏の御心を察しかねる。人には分からぬ天上天下界の決まり事なのだろう。せめて町の衆に害が及ばぬ事を祈るしかない。




〇帰蝶



 平助は森から逃げ出した。野犬に襲われて怪我するなんて御免だと、一目散に逃げる。

 自らを『青鬼』と名乗る男と、森の縄張主らしい野犬が争いを初めてしまった。野犬が仲間を呼んだら、ひとたまりもないだろう。大きな犬だ。一匹でも太刀打ち敵わないと思える。

 たとえ狼でなくとも野犬の群れは怖い。きっと犬の先祖は洗浄河原で死んだ戦侍の屍を食っただろう。そうした犬の末裔だ。人肉の味を覚えている老犬もいるかもしれない。そんな危ない血筋の野犬の群れだ。ひとたび襲われたら決して助からないと平助は考える。

 平助は『青鬼』と名乗る男が気になる。だが「どうせ見知らぬ男だ」と考えた。一晩の交流があっただけ。供でも家族でもない。昨晩ヤクザに襲われ身包み剥がれて裸にされた男だ。今朝になってようやく落ち着いて言葉を交わした。訳の分からぬ言葉を投げて来る怪しげな男だ。単に頭のオカシイ奴だろう。自分にはどうでも良い男である。何の理もない間柄なのだ。奴が里山の森で犬に食われても構わない。道で見知らぬ乞食が死んだのと同じ扱いをするだけ。別段気に病む必要は無い。悔やむ必要も無いのだ。犬だって腹が減れば人間を襲うだろう。飢えには勝てぬ。これは運が悪かったと思えばいいのだ。平助はそう心に言い聞かせる。逃げない『青鬼』が悪いのだから自分に非は無い。


 走って逃げた平助。今日、隣町の商家の家を訪ねる段取りである。大工道具を忘れずに持って逃げたは『大工の鏡』だろうと独り感じ入る。

 大工仕事の用件は修繕だ。商家の軒先が雨で腐り下がったと言っている。梅雨前に軒を直すように頼まれていた。今は平助に手持ちの銭がなくとも、材木屋からツケで端材を買えることになっている。博打で一文無しにでも支払いを滞らせたことはない。ましてや大きな商家の仕事だ。材木屋に理由を話せば間違いなく木材を分けて貰える。世間の信用は商家の方にあって平助よりも高いのだ。

 己が博打に狂った駄目男でも大工の経歴は長い。『大工の平助』の信用はそれなりにある。材木屋との取り引きだって付き合いが長い。一度たりとも支払いを滞らせたことはない。騙したことも一度たりと無い平助だ。今回は後払いだが何とかなる。取引相手にはきっちり銭勘定の始末を付けてきた。

 平助は仕事に気を向け『青鬼』の事は頭から振り払いたい。平助は道具箱を大事に担いで、隣町まで一気に足早に駆け抜ける。後ろを振り返れば犬に老い付かれる気がする。野草しか食っていないが、不思議と腹が減って倒れる気がしない。身の危険を感じて、力が漲っている気がする平助である。



  ×  ×  ×  ×



 平助は褌姿の半裸に半纏の奇妙な身なりで、材木も担いで商家を訪ねた。道行く人は平助を見て笑い通り過ぎる。この季節、物乞いだって着物を羽織っているのだ。半裸の男は不自然な様に見えた。

 平助は博打の勝ち負け以外に怒ることをしない男である。手代の対応に慌てることも逆らうこともしない。今日訪ねた用件を伝えて仕事に掛かることに決めていた。『青鬼」『山犬』のことはもう忘れたい。


 平助の対応に出た商家の手代は軽く失笑し後ろを向いた。なるほど評判通りであると感じた。噂の真相は本当だった。身包み剥がれる大工として有名になっていた。賭場に商家の者も来る。手代は経験で変な客にも慣れている。平助の無様な姿に怒りもしなかった。笑うだけである。暇潰しの話題に丁度良い。しかも修繕場所は裏である。汚いケツを客に見せることもない。女中が物笑いの種にするだけだ。

 手代は最初、真っ当な大工が来るものだと期待していた。ところが大工が隣町の平助だと聞いて妙に納得したものだ。博打に狂う大工だが腕は確かだと聞いている。

 だが褌に半纏で店先に立たれては商いの邪魔になる。さっそく裏手に回って貰うよう告げ、先に立ち竹垣の裏口から屋敷の敷地中に連れて行く。そして裏屋へ赴く。勝手口の女集に声を掛けた。

 対応に出た女も、平助の身なりを見て笑った。今度は開けっ広げに笑う。変な男が来たと声に出して笑う。裏居た女共の視線が平助に集まった。隣同士で小さな声で噂話を始める。平助は妙な孤立感を味わう。

 平助は女達を見つめて、奥歯に力を込めた。確かに己が姿かたちは奇妙だが、こいつらに大楊に笑われる筋合いはない。次第にヘソが曲がりそうになる。だが博打で負けて身包み剥がされた酌量話しはできない。更に惨めな思いをするだろう。女種に口で何か切り出しても突き返されるだけ。だから耐えてみた。早く仕事を済ませて銭を貰う方が優先したい。だから女集の笑い声を遮って、手代に声を掛けた。

「どちらの軒下ですか、おいらが直すように言われてます」

 手代は女集の様子を見て楽しんでいたが、平助に声を掛けられ対応せぬ訳にいかない。職業柄、客に対応するような受け答えした。仕事が体に馴染んでいるのだ。

「みんな笑ってないで、どの軒を直して貰うんだい。大工に教えておくれよ」

 中で一番恰幅の良い古い女が前に出て、こっちだよと歩み出てゆく。手代と平助を引き連れ建物の奥へ消えた。女どもは平助の尻に笑い声を向けたまま、おしゃべりを止めない。


 軒は風通しの悪い場所にあった。地面にナメクジが出そうな感じである。風が抜けないから腐りが早いだろう。それに水捌けも悪そうだ。地面が周りより下がっているのだろう。土を盛って水捌けの傾斜を作る方が良い。だが平助は大工で人足ではない。頭に対策が思い浮かぶが黙っていた。また軒が腐れば仕事を得られるのだ。黙っている方が得になる。

 女はここだよという。手代も腐った軒を見てなるほどねと言うだけだ。平助は軒の付いた部屋に誰かいるのかと聞いた。音が出るから耳障りになるだろうと宣言する。そうだなと手代が納得する。女は誰も中に居ないはずだと教えてくれた。作業場ではないらしい。屋敷の住居でもないのだろう。

 平助は軒の具合を確かめるように、手で軒を摘んで揺すってみる。腐って緩んではいるが、建屋の間柱の方までは腐っていないようだ。横梁も使えそうである。ならばホゾも生きているだろう。そのまま使えるはずだ。軒の筋交いを外して取り換えるだけで済むだろうと検討を付けた。

 見立ての通りに材料を買って来なくてはいけない。持参した材料では足りない。手代に材料を買いに出ることを伝える。戻ってもあいさつ無しに屋敷に入り仕事を始めると言ってみる。

 作業で音が出ること。仕上がりは明日一杯まで掛かる旨を伝える。だからこの部屋と屋敷に音が響き聞こえるだろう。だから勘弁と我慢を願い出た。

 手代は了解して、古い女もそうかと言って勝手に戻って行く。平助は道具箱を軒の下に置き屋敷を出る。勝手口の前を通ると元気な話し声が聞こえる。話題は平助のことではなくなっていた。女どもに見つかって、話を蒸し返されるのを嫌い静かに横切り出て行った。


 平助が戻ると、軒の下に女が立っていた。はじめ小がらで女子かと思った。置かれている大工道具に興味を持ったのかと考え立つ。

 屋敷の女子が平助の気配に気づいて顔向きを変えた。女は平助を見ても驚かない。平助を待っていたかのような態度である。だから平助は大工道具に触るなと言えずに言葉を呑み込んだ。

 女は身なりが小さくても大人の顔をしていた。単に背丈が低いだけなようである。そして女は平助の半裸で褌姿に半纏の支度を見ても卑しく笑わない。

 だが木材を担いだ平助を見て表情を崩す。知人に久しく合えたかのような安堵を体に滲ませた。そして顔だけでなく体向きも平助にした。

「黒兄ちゃん、久しぶりだね。元気そうで何よりだよ。まあ朝あったけれどね」

 平助は女子の言葉を理解できない。その場に立ち思考が止まってしまう。その物言いに耳を疑った。

「黒兄ちゃん?。誰だそれは? おいらは隣村の平助だ。大工の平助だぞ」

「もう厭だな兄ちゃん。あたしの顔を見忘れたのかい。呆けるには早いよ。帰蝶だよ」

「誰だと。帰蝶? 知らねえ名だ。誰それと勘違いをしていねえか。俺にはもう親兄弟も親戚もいねえ。仲を通じた女も知らねえ。邪魔だ。そこどけ」

「見間違うものかいな。帰蝶だよ。あんたを殺して現世に送ってやった帰蝶だよ」

「変な男に、変な女。おいらは神様に呪われているのかな? それとも仏の信心が足りねえのか。悪んか悪さで罰が当たったのかな。博打以外に悪さもしてねえ」

「これは思い出すには時間が必要かな」

「ああ、もうたくさんだよ。博打に負けるし、ヤクザに殴られる.身包み剥がされる。朝から山犬に襲われるし、こうして変な女から待ち伏せされる。いいか、おいらに身内の者はいねえ。仕事の邪魔だから退いてくれ。これから大工仕事をするんだ。かせぎが無けりゃ飯が食えねえ。からかうなら他でやってくれ。おいらは忙しいんだ。沢山稼いで着物を古着屋から買い戻さなきゃならねんだ。このまま褌一丁じゃ夜が寒い。どきな、どきな。怪我するぞ嬢ちゃん」

「着物は取って来たよ。これだろ」

「ああ、それ!」

「それにしても汚いねえ、この着物。たまには洗いなよ。人の世では着物が必要なんだからさ。物は大事にしなくちゃね。黒兄ちゃん分かってるかい」

「気安く説教するな。それにどうやって手に入れた」

「これじゃ戻って大王様達に叱られるよ。いつも叱られていたっけねえ。怒られ過ぎて愚図で意固地な鬼になったのかな。原因は赤青黄いろのせいだけれどね。黒兄が奴らに教育しないからだ」

「何してどうして着物を手にした」

 平助は女の元に急いで近寄った。そして古着を手にする。自分の汗臭い臭いが立ち上る。それに女の移り香と獣も臭いが微かにしている。

「あれ本当だ。おいらの着物だ。これは……」

 平助の大工道具の上に袖が擦り切れた羽織りが乗っている。襟や袖に多くの当て布がされていた。着古した布の塊りが縫い合わされたような服だ。大事に洗わないと糸がほぐれて分解するだろう。これは仕事へ着て出る一着だけの羽織り物である。

 この女はどうしてこの服が自分の物と知っているのだ。それに得体の知れぬ事を口走る。自分を殺した? 大王様達? いったい何の話をしてるのだろうか。話の中身が一向に理解できない。何を言おうとしているのだろうか?

 それにこの女は子供の癖に大人の口を利くのか。近寄っても遠目でも子供か大人か判別しない。大人に掛かる心の病なのか。親の育て方なのか。もしかしたら子供に見えて本当の大人であるのか。考える程に分からなくなる平助である。

 それに何故ここに女がいる必然があるのか。

「いったい……」

「なにを不思議そうに見ているんだい。人の世なら服を着るもんだろう。さっさと着なよ。あたしだってこうして人になって着物を身に付けているんだ。さっさと着なさいな」

 平助にまた疑問が芽生える。人になっている。ひとはひとだろう。妖術を使うタヌキかキツネなのか?

「持って来たんだからさ。それとも要らないのかい。ここの仕事して買い戻す予定なんだろう。こんなボロ切れみたいな服。さっさと捨ててて、稼ぎで新しいのを買いなよ。それとも服になんぞ言われでもあるのかい」

「うるせえぞ。これは確かにおいらの服だが、どうやって子供が手に入れたんだ。おめえなんぞ、まったく知らねえ童っぱだ。どうしてこれがおいらの服だって知っていやがるんだ。腑に落ちねえな」

「要るのかい、要らないのかい?」

「要るに決まってる。それであんた、どこぞで仕事した先の子供だったかな。どうやってここへ来たんだ。仕事の件は俺と、雇い主しか知らねえ。話してもいねえぞ」

「いやだね~。人の世に出て本当にみんな忘れちまったのか。輪廻の輪に乗るとみんな昔の事を忘れちまうんだね。悲しい話さ」

「邪魔だ居ね。服の代金は銭を貰って返してやる」

 帰蝶となのる女は平助の話に耳を貸さず、一方的に小言を続けた。

「頼まれて殺してやったけれど、向こうに戻ったら大王様に文句言っとかなくちゃならないね。黒兄もこうして人に化ければ済む話を、わざわざ生き死にの段取りを踏んじまって。今度生まれ変わって違う六道に回ったらミミズやミジンコかもしれないんだよ。わたしゃ嫌だね。そんな目に逢うくらいなら、獄卒のまま永遠に地獄にいたいもんだ。黒兄を見てると、眼から出ないはずの涙も流れそうだ。人間になりそうな気がしてくるよ」

「いちいち作り話をするんじゃない。その着物をどうして手に入れたんだ。銭を使ったのなら建て替えだ。明日には上がりを貰えるだろう。それまで服は我慢する。だからもう仕事先に来るな。必ず銭を返すから。親御さんにもおいらが謝ってやる。勝手に銭を使えば親に酷く叩かれるだろう。おい、あんた。いったいどこのお嬢さんだ。教えてくれよ。もう怒ったりしねえからよ。銭持って挨拶に行くから」

「極卒に親なんぞいるかい。突然生まれ出てそのまま極卒なんだ。それも忘れたのかい。着る物はヤクザから取り上げたんだ。今頃あいつら河原で気を失っているよ。殺さないようにするのは骨が折れることさ。人は強く叩くと直ぐに死んでしまうからね。黒兄ちゃんも人になったのなら、叩けば簡単に死んじまうだろう。情けない弱さだね、本当に」

「ヤクザを叩いて気を失わせただと。冗談を言うな。女にそんな真似ができるか。強そうな連れの者だっては見えねえ。大人をからかうのは止めなよ。分かった。お前ヤクザの子供だろ。言いえねえ事情もあるだろう。ならありがたく貰うよ。だが銭は明日あんたに返す。それでいいな。それで仲間内で何とかしてくれ。騒動は御免だからな」

 女は溜め息を吐いて平助の目を覗き込む。平助はたじろいだが言葉を続けた。

「俺は今こんな褌と半纏姿で無一文だ。今返す銭もねえ。悪く思うなよ。帰り難いのなら夕げまでに仕事を段取るからここで待っていなよ。親御さんにはおいらが一緒に謝ってやる。いや、ヤクザなら無理だな。ここの商家の者に聞かれたら親戚の者だと言えばいい。怪しまれて番所に連れて行かれたら、おいらも怪しまれる。いいな、仕事が終わるまでここに居な」

「わかったよ、いるよ。別にどこに行くでもなし。黒兄ちゃんに合いに来ただけだからね。戻る期日も聞かされてないし。それに『青鬼』や『赤鬼』も先に出て来てるからね。合ったら叱らなくちゃならない。向こうに戻さなくちゃならないからね。みんな黒兄ちゃんに会いたがって、少しも我慢がならないみたいだし」

「は~ぁ、青鬼、赤鬼だと──」




〇賭場ヤクザ



 賭場のヤクザは、親方の言いつけで町に向かって歩いていた。賭場で支払いの出来ぬ者宅から金目になりそうな品を取り上げ、町の古物商へ売り払いに行くのだ。女がいれば取り上げて遠くの女郎小屋に売り払う。金額が低ければ身包み剥ぐのが基本だ。これは古着屋行きになる。それ以外の品は売り難い。古物商が買い取らない。自分達で売り先を探さなくてはならない。

 賭場の運営は思ったよりも大変である。ここは街道の小さな町や村だから珍しい物を買う客がいない。したがい日用品の足しにならぬと、どのような品も役立たず売れなくなる。これが都や大きな町なら多少の相場が付く。だが遠くの街まで歩いて苦心しても、小遣い稼ぎにしかならない。いきおい貴重な物でも叩き売るのだ。

 それに大きな町には大きなヤクザがいる。顔を出すにも苦労する。縄張りを張ることは、獣の世界と同じである。汚せば消されることもある。

 賭場が夜遅くまで開いていることもあり、詰めの下っ端が起きるのはお日様が西に傾き始めた頃である。町が昼過ぎて活況の頃である。街道でヤクザの姿は目立つ。注意して行かねば詰所の役人も道を歩いている。面倒が増えるだけだ。

 身包み剥がされ数多く叩かれれば、悔しさから役人に申し出る者が時に出る。道で御役目の者と出くわせば見咎められなくもない。走って逃げれば腹も減るし使いの役目も果たせない。そのまま帰れば、役立たずと上役に殴られる。出掛ける頃合い加減が難しい。行く道も考えねばならない。従って裏道を行くことが増える。裏道は歩きにくい。

 それでも手慣れたもので、役目が果たせぬこともない。詰め番の役人が毎日いるわけでもない。道で出くわすことが稀でなのである。大概は呑気に寝惚けた頃に出て、歩いて気合が入った頃に戻るのだ。

 だが今日は違っていた。河原の雑木林辺りで襲われた。珍しく明け方に出たのが運の尽きだった。足音は聞こえなかったと思う。木の上で待ち伏せされたのか? だから不意打ちで倒された。子分連れて仲良く気を失い倒れていた。

 起こされて目の前に、奇妙な公達が立っていた。男か童か分からぬ背丈であった。だが腰には刀がある。町の者でないのは分かる。人相が思い当たらない。裏道を来る何処かの公達だ。だから目覚めて驚いて反応した。怪しいと感じたからだ。ヤクザ二人は目覚め慌てることになる。

「どうした何を驚いておる。物の怪でも見たのか。そんなたまげた顔をするな」

「やいやい、お前さんは何者だ。一体俺らに何をしたんだ」

「何もしておらん。道に倒れていたから起こしたまでだ。それよりお前ら、ここで何をしていた? 妖かしの匂いがするぞ」

 ヤクザは体を起こしてから、のろのろと男から遠ざかる。男の周りに、危険な雰囲気が立ち昇るのが分かるからだ。こうした危険を察知できぬようでは、夜中に襲われる。ヤクザとして活きて行けない。すべからく悪事は夜に起こすものだ。それが悪人の生きる術である。

 ヤクザは起き上がって、手持ちの品物がすべて無いことに気が付いた。

「おい、荷物は何処へやった。言え。言わねえと只じゃおかねえ」

「初めから何も持っておらんだろう。言い掛かりを申すな。助けてやった礼を言え」

「何だと指図するな。お前見た事ねえ男だな。どこから来た。ここで何をするつもりだ。独りか」

「続けざまに問うな。覚えきれん。それにお前ら何者だ。見た感じ町衆ではあるまい」

「俺らはこの辺りを仕切っている者だ。お前こそ何処から来た」

「京の都近くの者だ。昔は箱根におった。武家の者である。坂田と申す、覚えよ」

「それで坂田の何某は、こうして道筋で物取りをする者なのか。おい」

「いや。悪者を退治に来ただけだ。物取り野党の類は相手にぜぬぞ。勘違いするな」

「何だと悪者退治だ~。隣町の悪人供に雇われた野武士か何か。なら島荒らしに来たんだな」

「やれやれ。町外れの慧隠和尚に合いに寄った帰りだ。悪人共の島荒らしなどせんよ」

「何故殴った。まるで足音も気配もしなかったぞ。只者じゃねえな、何某さんよ」

「だから殴りなどせん。手間が掛かるだけだろう。襲うなら背中を一刀に切る、突けば済むぞ」

「先に突こうとしていたのか。なら生かして何をさせるつもりだ。勘弁ならねえ」

「人の話を聞けぬ男共だな。お前ら道に倒れていたんだ。どうせならその首を切り落としておけば良かったな。その方が町や村の為になるだろう」

「ほれ、やっぱり魂を取ろうとしていやがったのか。このままにはしておけねえ。覚悟しろ」!

「昼間から道に倒れる者は馬鹿だと思うが、その通りだったな。世の為になりそうもない連中だ」

 ヤクザ二人は、男を囲むような動きを見せて広がって行く。

 金時は二人の動きを一瞬に見て動きの素早そうな男を目掛け、一気呵成に距離を縮めた。予備動作をしないで動いたため、ヤクザ二人は男が消えたように見えた。接近された男は視点があって驚いたが、その時は地面に寝転がっていた。そして腰の刀を見得ぬ速さで横に薙いだ。ヤクザの片方が、腰縄帯を切られ頃も前がはだけ、緩んだ褌が露わになる。だらしなく褌横に竿と袋がはみ出しているのが見える。縄帯を切られた男が奇妙な声を上げて一目散に逃げ出した。もう片方の男も急いで立ち上がり藪の中に消えた。藪漕ぎする音が聞こえて、居場所を男に伝えて続けた。

「たわいのない男共だ。鬼切の鍛錬にもならん。だが良く切れるものだなこの太刀は。大陸の太刀とは切れ味が違うな。それに軽い」

 男は抜いた日本刀を上高くかざしてみる。かつて男が生きた時代の刃物は、鉄棒を研いで刃切り口を付けた乱暴な作りだった。剛力が無くては切れぬ品物である。叩くより効果的に相手を倒せるだけだった。

 だが鍛えられた鉄の刃物は、林に差し込む日光で青光りして、人を簡単に切れると訴えている。鞘から抜くのも容易だし、思いの外軽く感じる。躯体の幅とい厚みが従来の半分くらいしか無い。だがこれなら鬼も切れそうだと思える。

 奥の院で初めて刀を抜いてみた。抜き始めが重いのは、体が下を向いても太刀が下に零れぬようにしている作りなのだろう。刃を入れてある鞘は木の筒だ。刃物なりに曲がって掘られて作られている。素晴らしい出来だと改めて思う。時代が流れて鉄器は進化していた。これほど上手く作られては、妖かしを切りたくなって仕方がない。

 次に刃を抜くときは、鞘から少し抜いて浮かせておけば簡単だと思えた。男は早速やってみた。柄から鯉口を抜いて浮かせておけば簡単に抜ける。簡単に抜けると下に落とすことになる。

 何度も抜いて確かめる。素早い抜き方を行い試してみた。左手だけで鞘を握って親指で押し出せば、鞘から浮く。それに左手で鞘を握れば切っ先を抜き易い。両手で順序良く扱うえば抜刀が早いと分かる。更に何度も試し刀を抜き差してみる。雑木林に空気を切る音が微かに聞こえる。男は満足して刀を鞘に納めた。

 背中に気配を感じて振り向いた。悪人共が仲間を引き連れて来たのかと思った。だが林の向こうに犬がいた。大きな犬だ。狼よりも大きい。男を見つめている。目が赤いのが分かる。現れた距離から近寄っては来ない。間合いと間合いを足したより遠くにいるのだ。臨戦の間合いではない。男は犬までは遠いなと自覚する。これなら襲うことも襲われることもできない間合だ。犬の周囲に怒りの念は漂っていない。この林の主ではないようだ。

 見れば見るほど明らかに普通の犬ではない。妖怪変化の類だろう。ここに来たのは仏の導きか? この場所に差し向けられた感じがしてくる。仏は現世の荒武者に神託を授けずに、こうして黄泉の公達を呼び神剣を託す。仏の御心はどこにあるのか分からない。

 男は心穏やかに犬を見ながら脳裏に迷いを抱いた。切るべきか、切らぬべきか。すると犬は静かに尾を見せて奥に消えた。もう林の中に怪しい気配が見えない。どこかに消え失せたようだ。犬は何を見に現れ来たのか、何を訴えに来たのか分からない。妖犬は林の闇の中である。姿はなくとも境界から覗き見ているかもしれない。だが気配は感じ取れない。違うところへと消え失せている。

 妖怪の類が消えたとて、先ほどの悪人共は現世にある。悪党は如何なる時も途絶えない。この場にいれば徒党を組んで戻り現れる可能性もある。それに失った品を探したいだろう。背後から襲われたとほざいていた。それほどに間抜けそうな男供ではない。慣れたヤクザの心得もあるだろう。それでも不意打ちを食ったというのだ。見渡す感じ、この小道に人が隠れるような茂込みは無い。高い木の幹も見当たらない。どうやって奴らを襲ったというのだ。

 この小道であれば襲われる心配がないから、ヤクザが油断して歩いても不思議ではない。しかもヤクザ者は綺麗に並んで倒れていた。一瞬で同時に襲われたと考えていいだろう。相当の手練れか大きな物の怪の類だと推察する。しかしヤクザが生きていたとなれば、魂を取る目的ではない。何を狙ったものか見当が立たない。物取りの妖かしんなぞ聞いたことは無い。新鮮な血肉を欲して女を浚った事件があるだけだ。物取りは人の仕業である。

 ヤクザは血気盛んで人の話を聞けない輩だった。どうせ詳しい話を聞き出せない。いずれにしても待つだけ無駄である。腹の縄帯を切って追い払って正解だった。藪蚊や蠅だと掃うに苦労するが、人なら婀簡単だ。

 ヤクザに気取られて、物の怪に背後を取られたら致命傷である。一旦死んで黄泉に行ったとて、もう一度死ぬ可能性もある。それでは役目も果たせない。後悔も正せない。

 今度死んだら彼岸に送られてしまう。世が神の御代から、仏の御代に転換しているのだ。神仏の力に人は勝てない。殺されて黄泉に戻る術はないだろう。 思うに平安の京で鬼を切ったとて、悪鬼羅漢の体を使った式神のような類物であった。陰陽道に通じ、神通力を持つ天武の才がなければ剛力の武士と同じだ。物の怪は切れない。公達の力は神仏の加護があってこそ物の怪に立ち向かえる。妖しいの連中の体は空や霞を切るが如くである。襲うに実体化し宙に在れば霞か雲。一向に手応えがない。太刀を奮っても無駄に空を切って疲れるようなものだ。蠅、蚊しか切れぬ。虚しい限りだ。人にに憑依して貰える方が切り刻むのに楽である。

 この場に長いをしても、悪党ヤクザの類しか集まらない。神仏の御心に従えば、悪霊の元へと導いてくれるだろう。鬼退治も神の導きでなされたのだ。慧隠和尚も神仏の加護を祈ってくれるという。前に歩けば妖怪悪鬼に出会えることであろう。男は腰の刀を確かめて握り歩みを進める。このまま森に行けば目的が果たせそうな気がしてくる。

 邪魔者が立ちはだかれば、神仏の名において払えばいい。腰の神剣が能力を発揮するだろう。大使と大師に壊れて、現世に蘇えったのだ。信じて前に進めばよい。行けば向こうから訪ねて来る。出会いはそのようになされるだろう。


 男は己が生前の童時代を思い起こす。深い山の主に鍛えられ育った。山の精霊は男を受け入れて、獣たちと戯れさせてくれた。成人して町に出て、源氏の頭領に仕えて京で鬼と戦った。鬼に勝ったと思えたが骸を残して精霊は消えた。悪人の骸を拠り所にして都を騒がしていただけだ。人の悪鬼羅漢を使い現世に遊んだ鬼だと後で知った。それは男が山の精霊と戯れたからこそ実感する事実だった。鬼の霊は去ったが何時かまた来ると読んでいた。だが男の寿命がある限り現れなかった。大きな災禍と共に現れることがなかった。やがて寿命が尽きて公達と供に黄泉参りしたがそこにも鬼はいなかった。神々の屍があるだけだ。己の読みを外し落胆したが、腐らずに静かな時を待つ以外に術がない。後悔の念だけが残る。本物の鬼を切りたい。長い時を経て密教の大師に呼ばれた。願いは叶いこの世に出たのだ。

 修験僧の山で聞かされる。これは大使の導きだと僧正は言う。そこで神剣を渡される。懐かしい大陸の太刀ではなく和製の刀だった。新しい鉄の技を鍛え鬼の再来に備えねばならない。そうして僧の占いによりこの地に赴いた。

 慧隠和尚にも合った。現世はすべからく神話の時代から仏の御代に変容していた。山にも神々を感じ難い。精霊は天高くに退いたたようだ。代わりに妖怪や魑魅魍魎がいる。神と人の真ん中にいる精霊達である。すでに八百万の神々は何処かにいるのだろうか。これでは山に伏しても何も得られない。役行者が得た能力は人の悟りの場になっているようだ。山に禍々しさが感じられない。鬼の味方は少ないと思えた。




〇河童鬼



 河原には多くの血が流れた。戦乱の最中で武者共が力比べをして、負けた者は討ち死にをする。河原の石や砂利、砂に血や汗と脂を吸い込ませることになる。戦いは昼夜を問わず行われることもあった。田畑に向かない荒地は、戦場として使われ続ける。

 人の争う姿を獣たちが見ていた。獣は腹が空かなければ殺生をしない。だが人は諍いで人を殺める。湧き上がる闘争意欲で人を辱める。そこに恨みが残る。河原には多くの恨みが血潮と共にしみ込んだ。血潮はやがて消え去る。屍も食われ腐り消え去る。だが怨念は消えない。未来永劫消えぬ大きな恨みもある。心もちの大小濃淡は誰にも分からない。

 森には人の世より前から精霊たちが住んでいた。漂っていたともいえる。神々の末裔達である。天照御代より森に川に海に棲んでいた。自然の営みが神の御代である。そこに人が現れて、生活を始める。神々の力により糧を得ていた。いつしか人は神々を忘れた。糧を得ていたのを奪うことだと勘違い始める。精霊達は驚いた。元来人も神々の末裔である。神通力を失った精霊の集まりであり、世に舞い散る種子である。世代を重ねる程に、神通力を失い、精霊との会話もできなくなった。欲の目が心を覆い隠したのだ。

 恨みと欲が混ざり、戦場である河原に染み込んだ。消え去らぬ澱はやがて物の怪や妖かしとなる。川に堆積した土砂と一緒に練られ掴めぬ形を成す澱が生まれた。他に澱は形をなさず何者かに憑依するものも出た。様々に変化して定まらない。憑りついた者達は、宿主と黄泉に向かうものもいた。宿主だけ彼の世に送る手助けを為す輩もいる。現世に留まり悪事をなすものもいた。念は魂を持たず、形を留められぬ。宿主を探す。

 見せしめに首を切られた男は、恨みがあの世に届く道を作って果てた。その道を魑魅魍魎が駆け上がる。いくつかは世に出た。男の体を使って形をなした個体もあった。抜け道は彼の地の力で塞がれてしまった。通り抜けたいくつかの物の怪は、闇夜に溶けて拡散した。河原の澱を使って形を作ったものがいた。屍を使って宿とした。男の恨みと同居する。死んだ男の魂は既にあの世に行って、輪廻の輪、螺旋階段を上り下りする。骸が新しい中身を獲得した。胴体が起き上がり、切れた首を拾う。千切れた顎を自力で修復する。闇夜に死人が立つ。腐り切って果てるまで、中に掬う邪気が使う。そして隙間に、闇の精霊も同居する。河原の精霊が集団で男の骸を取り合う。魑魅魍魎の協同作業がされる。

 河原で殺された男の骸は、人のように動いた。周囲を見回して、森の中に歩みを進める。朝日で乾かぬように闇を選ぶ。朽ちる一方の体躯である。長持ちさせねは勿体ないと、中に掬う彼の世の者がいう。実態を持たない精霊は、実態を成す歓喜を味わう。男の恨みは復讐の念を精霊や魑魅魍魎を突き動かした。動き回る理由を得たのだ。

 金時に古着を奪われたと思ったヤクザ共は、夜になって勢い付いた。手下を集めて町に出た。賭場から町の間に河原がある。そこをヤクザ共が通った。男の屍は、闇夜で血肉を得る機会を見つける。自分を殺した者らだ。死んだ男の念は、精霊と魑魅魍魎の力借りて、恨みを果たす都合も満たす。最後から来る男を静かに襲う。喉笛に噛みついて、藪の中に引きずった。藪の動く音が、林の中に響いて消える。前を行くヤクザは後ろの男を探した。

 だが雑木林は静かで、男の姿は闇にない。小道を行き来するがどこにもいない。最後尾の男は、死んだ男の屍に食われている。ゆっくりと壊れた顎で、鮮度の高い男を食んだ。死んだ男の骸は、あの世の力で金剛力を発揮する。生きる者の力では抗えない。血を失いながら生きたまま食われ続け、考えをうしなった。抗う手の指も動きを止めた。藪の中で静かに死んで消えて行く。生き残ったヤクザは、消えた男を探す。金時を見つけて仕返しするどころでなくなった。博打の片に取った古着を奪われて、仲間を失った。

 助けて貰った金時を疑い、恨みをいだく。ヤクザの恨みは、屍男の精力を増すことになる。食われて死ぬ男も、後悔の念を抱いた。これも屍男の栄養となる。首を切られ死んだはずの男は、生き血と生肉を得て、活力をます。切れた首の周りに、新しい肉が付いた。痩せこけた体に血潮が増す。ヤクザを食いながら、壊れた顎も次第に治って行く。筋骨がヤクザの筋骨を使って補強されて行く。闇夜の藪で、現世の妖怪が新たに生まれ出ることになる。

 死んだ男の体の中で、精霊と魑魅魍魎も溶け合って混ざり、新しい気が生じた。河原鬼が生まれる。これを人は伝承により、河原鬼→川鬼→川破→河童と呼ぶことになる。新しい妖怪は、名などどうでもよいのだ。人に恨みを晴らすだけである。

 ヤクザ達は消えた仲間を探した。だが死んだ男に食われ、一体となり河童になってしまった。もはや探すことは叶わない。未来永劫の行方知れずである。夜明けに男が消えた藪に、引きずり込まれた跡を見つける。藪漕ぎをすると、血にまみれた衣服が見つかる。河原で殺した男の服だと分かる。消えたヤクザの服はなかった。ヤクザ共は、殺したはずの男がヤクザの行方を知ると考えた。男を晒した河原に行く。そこに骸はない。獣に食われた跡もない。誰かが持ち去ったか、歩いて消えたのだと考えた。

 男を殺したヤクザ共は、背中に悪寒を感じる。夜明けの薄紫の色が、死んだ血の痕に見える。朝焼けの色がヤクザの顔を染めて、浅黒い血の気を醸し出す。誰ともなく走り出したヤクザは、賭場の方面に消え去る。そこに河童が現れた。身の丈が死んだ時より高く幅も増えた。食ったヤクザの羽織が膝丈になっている程である。屍が乾かぬように川の中に沈んだ。川が作り出した天然の穴、甌穴に沈んで体を休める。動き回った体の熱さを水が冷ましてくれる。こうして川の鬼は、河童のようにここで暮らすことに決めた。

 体が朽ちそうになれば、人を襲って食えばいい。体を得た以上、神仏の加護がある限り河原で暮らせばよいのだ。河原で戦があれば、死にかけた武者を食うことで生き永らえる。現世に出て良かったと、魑魅魍魎は消えかかる意識の中で思う。森の精霊達は体を得て嬉しく感じた。もう動物に憑いて遊ぶ必要もないのである。この世の春が来たと考える。

 川面には朝日が当たっていた。甌穴に沈んだ河童には、朝日の当たる川面が天井に見える。絶えず動き続ける柔らかな天井が、大木の模様を作って消えている。水面を通して天に舞う精霊たちが見える。昼の精霊たちは、太陽を賛美する者達だ。川の両岸にある雑木林を祝福して舞衣跳んでいる。木々の精霊は、昼間の精霊を歓待していた。楽し気に舞い踊っている。しかし実体のない精霊である。もはや人には見えない彼ら。河童も人の体を借りて棲むと、彼らが薄ぼんやりとしか見えない。これが肉体の汚れなのかと理解する。

 これでは人が神仏を失うのも無理ないと理解した。争い奪い続ける愚かさは、肉から来ていると分かる。だが肉体を持つ喜びは、持たぬ者には分からない。地面に立ち、水に沈み、空を飛べぬが意心地の良いものである。肉に守られている感じを味わえる。守られているからこそ失う辛さもある。精霊の自由闊達さはこの中にはない。しかし魑魅魍魎のやるせなさも消えるのである。実体のない虚ろさは、闇の者には辛い現実であった。現世に出て実態を持つ身の確かさを味わうと病みつきになると思えた。だからこそ先遣隊にでた妖怪たちは、人や動物に取り付いて己が確かさを味わうのだと理解する。

 だが肉体の持つ滑稽なほどの渇望感は心を苛む。恨み辛みの根源は肉体から生じている。肉体を保つには、何らかの食物を手に入れることでしか成り立たないからだ。肉体が動き回るほど、渇望感も高まる。こうして甌穴に潜んでいるだけで、何も必要なければ渇望感は沸いてこない。だが夜中にヤクザを食った。食ったことで肉体が保たれている。満腹の喜びを知った。生き物を殺す悲しさと嬉しさを味わう。満たされる喜びは格別である。死なない精霊が、失い消える死を知る機会を得る。魑魅魍魎も、彼の世の追跡者に見つかれば連れ戻される。朽ちる肉体を放棄して、気として立ち戻らねばならない。見上げる川面の上は現世である。

 川の中を探せば、どこかに彼岸と此岸の境界線も見つかるだろう。自ら境界線に落ちれば彼の世に戻れるはず。戻らずとも、悪事を為せばやがて、何処か修験僧の神通力で調伏・封印されてしまうかもしれない。現世にある、真言の檻に閉じ込められてしまうだろう。そうなれば懐かしい場所に二度と戻れない。宇宙にある輪廻の働きを使わずに、こうして神通力により人の骸を得て、実体化してしまった。もはや神仏の力を借り、御心を得る事もならない。天上界の技で元の姿に戻される、もしくは滅せられてしまう。されば宇宙の法により、何者かに転生することを繰り返すだけだ。彼の世の精にも、この世の精にも戻れないだろう。精霊も物の怪もいつかは何かに転生する。神仏さえも悠久の時の先で、転生をして現世に出る。その転生先が何であるのか分からない。それが世の常である。

 河童は生涯このまま川の甌穴の中で良いと考えた。甌穴で川に流れる石で打ち砕かれ、人の姿が擦り切れ消滅しても、穴に留まっていれば良いと思える。姿が無くとも、既に邪気の者として精神融合されている個性なのだ。怪し気として現世に残れるだろうと思う。川の水をまとい姿とすればいいだろう。川水を身とするのだ。これなら察知される恐れが遠のくだろう。川の中は生き物の宝庫でもある。身を成す依代にできるだろう。大きき物にも、小さき物にも変化できる技を得ている。

 しかしそこに金時が現れた。手にした神剣で水を突いて来た。水中の平穏が乱された。




〇岩場の戦い



 金時は藪の林を歩いていて、風の中に異変を感じ取った。川面から流れて来る、水の香りに異臭を感じ取った。何かの腐った臭いが混じっている。大型の獣か、人であるのか確認に向かう。鬼と出会う可能性は自ら作って行かねばならぬ。かつて森で獣と競い合い、物の怪と対峙し、鬼と戦った際に馴染んだことは体臭の現れである。攻撃的な最中にも、焦りや恐れ、沈静化や平静の感情が体臭を持って漂い現される。攻撃の切っ掛け、凶悪性の高まり、普段の行動も体臭で予想されてわかるのだ。事前に相手の心の内を理解すれば、対処が早くできる。身体の五感を使い、第六感を働かせねば、悪鬼羅刹に負けてしまう。如何に強くなるように鍛錬したとて、人の延長でしかない。竜虎の如く生まれながらの偉丈夫ではない。先手を取ることが、人が人でないのものに勝つ秘訣である。

 手掛かりが風の向こうにあるのなら、確かめて見るべきであろう。もちろん金時が現世に舞い戻ったことを、鬼が知っているのなら誘い水になる。行けば待ち伏せされて、先手を奪われることになる。一目散に近づいてはならない。近くに寄れば、先を読み遠回りもせねばならぬ。罠に掛かる獣であってはならない。猪突猛進しては馬鹿を見るだけになる。

 腐臭は川に近寄っても強くならない。不思議な感じがした。近寄って臭いの元が明らかになるのが常である。金地の頭に混乱が生じた。風が揺れると臭いが薄まる。

 川は岩場の多い場所らしい。水音が大きくなる。瀬のせせらぎと違う。落差のある岩場を落ちる水音だ。水が爆ぜれば臭いは静まるものだ。空気の水が臭いを取り込んで落ちるからである。岩場で待ち伏せされると、気配が分からない。音も臭いも紛れてしまう。その場合、待ち伏せ方も気配を感じ取り難くなる。従って見渡しの良い木の上が待つ場所に良い。接近する者が岩場の足元に気を配れば、頭が疎かになる。上から見て襲えばいい。だから岩場のある水場では、地面の低木茂みよりも木の葉の茂みに注意するべきだ。熊棚などは注意である。待ち伏せする相手が、本物の熊となれば面倒である。待ち伏せ者は更に別の場所にいることだろう。予想外に敵が増える事と同じだ。面倒が増える。従って進むべき道は、先を見て判断しなくてはいけない。すると進む速さは制限される。

 金時は道筋を幾度も変えて、臭いの元に回り込んだ。川の音が大きく聞こえる頃に、大きな気を感じる。獣ではない、人でもない、鬼とも違う何かである。気の発する場所は水の中かと思えた。臭いの元も水のなかだろう。川を行く水が大きくうねる度に、臭いが変化する。気の発する場所は変わらない。水にまつわる妖怪だと思う金時だ。

 森の精霊なら気しか感じない。実体がないからだ。風に任せず好き勝手に舞い踊る。出たり消えたりして、気の位置が定かでない。木の精。土の精。風や日の精も同じだ。ひと所で気を放り続けない。そして腐臭もない。気の張りで生き物と違う香りを撒いたりするだけである。何か悪戯を仕掛けてくる以外に、淀んだ気配を放たない。だが水の中のモノは、腐臭を伴う物の怪の類のようだ。人の念が練り上がった、怪物かもしれない。恨みや妬み苦しみが作る怪物なら、神仏の加護で調伏せねばならない。それが蘇った者の役目である。彼の世に送って浄化せねば人の世が汚れる。人に取り付けば悪事を為すだけだ。

 金時は現世に舞い戻り、小さき体にされた訳を考えてみることが幾度もあった。鬼に相対するのなら大男の方が良い。剛力が活きるからだ。幼き時より山で鍛え、獣に抗する力を得た。それでも頼光の四人衆の中で一番の力者にはならない。一番の剛の者は綱であった。やはり同じ力を得ても、体の大きさが物をいうのだと知っていた。だが奥の院から手渡せた日本刀は、思いの外短い品であった。神仏の下知により僧へ刀を打つよう働きが為された。刀の長さが先に知らされて、鍛冶によって刃金が打たれ作られていたのだ。それを護摩焚きによって神通力がもたらされ神剣と成していた。先に刀が作られて、金時の来るを待っていたのである。彼の世の物を断つ破邪の太刀である。金時が見慣れた剣ではない。力任せに叩き切る剣でなく、技によって切る刀である。神剣は闇の中でも薄く光り、神通力の青白い衣をまとう。急流の水よりも深い青色を浮かべる。

 金時が周囲の気配を真一度確かめて、敵がいないと信じて邪気に向けて剣を抜いた。刃衣の青い光は、霧粒のように流れ出て水面に流れて行く。魔の物を知らせる先駆けとなる。多くの水が岩に舞い踊る川。その川に深みがある。底知れぬ甌穴が光を呑み込んでいた。浅い闇が水の底にあるのがわかる。刃の先から出る羽衣が深みに消えて行くのが見える。金時は、刀と己の勘が、深みに何かあると知らせているのだと考えた。

「剣よ、我が道を知らせよ」

手に持った刀に語り掛け、剣先を深みに向けて、岩の上から川に飛び込んだ。

 甌穴の深みに潜む物の怪は、見上げた水面が不自然に揺れたのを見た。剣先が水に忍び込んできくる。その柄に男の手があった。直ぐに体が水の中に見えた。小さな体の公達である。足軽の装備だが具足をまとった若武者である。刀は水の闇の中でも光っている。

 物の怪の中身共が騒ぎ立てる。水中の平穏を乱した切っ先に神仏の光を見た。我らを調伏せしめる、天界の刺客だ。体温の無い屍の体を、一気に熱くして逃げた。切られたらひと溜まりもない。公達の落ちた衝撃波が反動で起こした水圧に乗り、水面に向けて蹴上がった。かろうじて切っ先を避けて、水の上に飛び出られた。だが岩上に逃れられない。水の流れに押されながら、沈んでからもう一度飛び上がる。岩の上に届いて立てた。

 物の怪は川の守り神ではない。龍神の仲間ではない。彼の世の魑魅魍魎と、川に漂う精霊の集合体だ。その気が練られ混ざり、屍と同居している。生者ではないから、水を欠かすと乾燥してしまう。淀んだ水だと体躯が腐る。美しい水の流れる、この川場でしか生き永らえない。逃げるにしても、川に立ち戻らねばならぬ。だから逃げるに躊躇して、川底から戻った金時に見つかった。軽くはない太刀が邪魔になり、上手く泳いで浮かぶことができなかったようだ。人ならば沈んで死んだだろう。鎧武者が馬上から川に落ちて、溺死することがよく合った。足軽の具足だとしても、泳ぐ邪魔になることは必定。刃を構えてそのまま飛び込む公達はいない。神剣を持った僧兵には見えない。

 金時は一撃で仕留め損なったことを後悔していた。水から出て見たら、物の怪と反対側に出てしまった。急流に流されず、甌穴で沈み果てることなく出られたのは、黄泉の者のお陰だろう。人の時代なら具足を外して飛び込んで、溺れて死ぬような行いをしたのだ。岩場の急流に飛び込む愚か者はいない。一度は死んでいるからこその攻撃をした。

 二人は岩場の対岸で対峙した。川の中にいた物の怪は、人の化身に見える。大きな体に着物を羽織り滑稽な姿を晒している。髪の毛は水に濡れて垂れ下がり、しかも薄毛で天井が見えている禿げ頭である。伝説の河童に見えぬこともないが、人の肌をしていた。だが血の気は無くて、浅黒い灰色の肌にも見えた。伝説の河童は緑色の肌で、甲羅を背負っているが、男の物の怪は人そのものだ。妖気を放たねば、山の大男だと思えただろう。

 対岸の公達は、子供の成りをしている。大き目の子供の背丈しかない。足軽の具足に神剣を手にした若武者、幼武者に見えた。双方とも水に濡れている。共通しているのは、両者は生きている人ではない。息もしていないし、心臓の鼓動もない。食事も口にしないし水も飲まない。現世にある物の怪と、黄泉から来た死人だ。人知を超えた存在。

 急流に在っても溺れて死なない。疲れもせずに動き続ける。眠る必要も無い。だが仲間であり得ない。片方は神剣を手にして、この世の怪しかざる物体を切り結んで、あの世に送り返すためにある。役行者が使役していた鬼を、あの世に送り返すのが目的で存在している。事が為せば黄泉の国帰り、悠久の時を静かに待つだけの身の上だ。

 首を切られて死んだ男の骸は、風雪に耐えず朽ちて消えるのを待つばかり。中にいる魑魅魍魎と精霊達は、躯体が無に帰せば精霊は空に舞い戻る。魑魅魍魎は分散して日の光に消されるか、地獄に舞い戻るだけになる。男の中で棲む物は、遷ろう存在でしかない。

 金時が物の怪に向けて一歩進み出る。すると岩の隙間から蛇が出た。金時が蛇に気を向けたのを物の怪は見逃さない。傍に合った枯れた幹を力任せに引き抜き、根回りに泥の付いたまま、金時に放り投げた。枯れた木は川を越えて金時に迫りくる。金時の周囲には水気を吸って育つ、灌木が立ち茂っていた。そこに枯れた幹の気が衝突し砕けた。枯れた木の中には、多くの蟲達がいた。そして海綿体になった木の芯もあった。そして泥が飛び散る。それらが全て金時に襲い掛かる。金時は目が潰れぬように、腕で目の前を覆う。その隙に、損だ男の物の怪は、藪の中に消えた。金時は行方を確認しようと、立ち位置を上流に向けて移動する。物の怪の足音は、川の音で隠されて分からない。

 藪の切れ間から対岸を見た。すると一匹の鹿が立って金時を見ていた。驚いて振り向いたのではない。あらかじめ、金時がそこに現れるのを知って、待っていたように動かないで四諦を踏ん張っている。その鹿は真っ白で、背の毛が銀色で模様を描いている。眼は金色に光っている。金時は鹿の視線を直視して動けなくなった。心に直接「動くな」と聞こえたように思えたのである。その声のような言霊は威厳に満ちて、抗えない力を持っていた。鬼の雑言に立ち向かった金時が、言葉に聞こえた力で縛られ、力を奪われる。金時は髪から滴る水滴を払い除けることも出来ずに、鹿と対面を続ける。白い鹿は神仏の使者に思えた。だが金時の口から言葉が出ない。押さえつけられたかのように、口も開かずに喉もならない。手も足も動かせないことに気づく。川の物の怪を追うことは叶わないと知る。

 金時が動きを止めようと決めた刹那、身から力が抜けて膝が屈した。神剣を草むらに落としながら座り込むしか術がない。妖術に掛けられた感じがしない。呪詛で縛られた感覚もない。厳かなる力に屈したのだと、再認識する。下に落とした視線を上げて見ると、鹿はそこにいなかった。走って去った気配もない。忽然と消えたのである。

 神の使いなら神託があると考えたが、個々の内を見直しても何も届いていない。単に動くなと言われて、有無を言わさずに従っただけ。この林には、多くの神仏がいると分かる。あの鹿は何であろうか。京の都でも見たことはない。密教の聖地でも、出会ったこともない。黄泉の国にもいなかった。黄泉の国には人の神しかいない。神獣さえも訪ね来ることはない。静かな場所である。金時がかしずいたこの場所も、川音以外は静かな場所である。

麓の河原が戦場地であることが嘘のようだ。人が戦い血を流した場所の傍に、神聖な時の流れる林が広がっている。金時は立ち上がり周囲を見回す。もう腐臭も、恐ろし気な気も漂って来ない。そして白い鹿の持っていた厳かなる重さもない。静かだが普通の雑木林なのだと思い返す。これより山の中に入っても、鬼を見つけることはできないだろう。

 悪事を為す鬼なら、白い鹿が居わす聖地で暮らせるはずもない。たちどころに彼の世へと送り返されてしまうだろう。金時が黄泉の住人でることが、神々の怒りに触れたのかも知れない。仏の御霊によって呼び戻されたのなら、この先に向かう必要はないだろう。鬼は人の世にいると考える方が正しいだろう。かつてのように、人をさらって鬼の国で暮らしてはいないのだ。血肉をあさって毒を吐くことをしていないのだろう。都や街道を騒がせる騒動もしていないと考えることに決めた。このまま足を里に向けて探索をしよう。鬼は人に化けて、町に暮らしているかも知れない。次の悪事を待っているのかも知れぬ。

 この林や先の山は、神仏の加護で守られていると考える方が良い。金時は自らの思い込みを捨てることにした。悪鬼は里にいる。そう決めて戻ることとした。自分の行いが正しければ、神仏に導かれて鬼と出会えるだろう。




〇喜助



 喜助は新右衛門から言われた通りに、夜鷹の話を聞きに回っていた。駄賃を払うからと、知り合いを連れて役目をしている。喜助には夜鷹なんぞどうでも良かった。若くに親戚一同から嫁をあてがってもらい暮らしを成り立てていた。赤子も生まれている。夜の勤めはお互いに楽しいでやっている。赤子も夜泣きが収まって、良く寝られている。褥を商いにする恵まれぬ女なんか、どうでもいい存在である。代官の役人である新右衛門から小遣いをもらって、生活の足しにしている。暮らしの基本は、小間物商いである。大きな町に出ては、売れそうな物を見て手に入れて、欲しそうな家を訪ねて売りさばいていた。

 そんな行動範囲の広さと知見の幅を見込まれて、新右衛門の手足を務めている。ここは盗人や殺しの類と縁遠い町である。平和だからこそ夜に夜鷹も商売ができる。町外れで賭場も開いていられるのだ。代官の勢力もそこそこ力のある男ばかりで、戦に強そうな連中が家来に大勢いる。遠くの村や荘園主から諍いを掛けられることも少ない。街道の治安は良くて、戦にならねば町がざわめくこともない。いたって暮らしに不安がないのである。

 古い柳の下に夜鷹が死んでいた。腹の臓物が食われてしまった。野犬共の仕業だろう。何かの病で倒れて死んだ。道々の暮らしの者だ。女が死んだくらいで騒ぐこともない。問題なのは屍が悲惨な状態で見つかっただけだろう。綺麗なまま見つかれば、穴でも掘って埋めればいい。狐や狸、野犬に掘り起こされぬようにすればいい。そうでないと、赤子が獣に襲われる。飢えた獣が、食べやすい人の子を襲う習慣を覚えないことが大切なのだ。だから骸を道端に放置してはいけない。それだけである。たとえ殺しだとしても、相手は夜鷹だ。誰の迷惑も面倒も無いはず。探索の必要も無い。喜助はそう考えていた。

「なあ、船主や船頭を訪ねるのは、これでお終いなのかい。もういいのか」

「ああ新右衛門に言われているのは、それだけだ。聞き込みが済んだら、隣町の買い出しにでもいきたいんだが、頼めるかな。たいした話も聞けなかったからね」

「どうせ暇をしていたんだ。構わないよ。荷物を持って戻ってくるだけだろう」

「独りだと大きなものや重い物は持って来られないからね。こうして役人から仕事を頼まれたら銭が入る。あんたに仕事を頼んで、隙間を埋めれば儲けも出るだろうからな」

「話を聞いた船頭に、荷を運ばせればいいじゃないか。沢山運べるだろう」

「駄目だ、駄目だ。そんなことして新右衛門に知れたら、駄賃を取り上げられるだろう」

「そうなのかい。ケチな男だな。あんたの雇い人は。タダ働きになるのかよ」

「新右衛門だって小遣いで働かされている。戦でもなければ手当も貰えない。下っ端の武士なんて何事も無ければ貧乏なもんだ。威張る以外に力を出す機会も無い。だから役目で銭を使えば懐も淋しい。払わずに済むならそうしたいだろう。断れば代官の命だとか言って殴られたり町から放り出されて無宿者だ。ヤクザになる気もないしできないだろう。腕っ節に頼ることもできない。小さい頃から鍛錬しないと喧嘩もできないもんだ」

「確かにそうだな。小さい頃から腕っ節が良い物が、武士になったり野党になったりするものだ。野党になって悪事を働けば、代官の山狩りに合えば殺されてしまう。強くなって手下を集めて豪族になるのも一苦労だろう。俺らにはそんな技量は無いからな」

「そうさ、田畑を持たない町の者は、何か商いをして食うしかない。悪事は出来んさ。少しの嘘や、お調子者で商いをして暮らしを立てるしかない。こうして役人の使いになって働くのも、銭稼ぎに必要だろう。多少の蓄えがないと、物々交換でヘマした時に困る。農民共は物々交換で暮らしを立てているから、直接銭で商いをしたくても受け取って貰えなかったりする。代官連中が年貢で取り上げた分を商いとして銭で支払うばかりだ。町の人間に銭は欠かせない。沢山仕入れても置く場所が無くては商いにならない。代官達の仕事をして小銭を手に入れることは、暮らしを楽にする。嫌でもやれば実入りが増える」

「そうだな、時にはこうして咎人探しをするのもいいものかも知れない」

「道々の者が流れていれば、町に騒動が起きるだろう。良くは無いが無いと困る」

「良くは無いが無いと困るな。確かにそうだ。俺らもこうして働く機会が生まれる」

「戦は町や畑が荒れるけれど、騒動なら当人でなければいい。どうせ夜のことで、真相は分かりはしない。咎人が名乗り出るなんてこともないさ。俺なら黙っているからな」

「そうだな。名乗り出れば罪になる。罪になれば責めを食らう。痛くて苦しいだけ」

「悪さをする者は正直であるはずがない。名乗り出ないし、逃げて戻って来ない」

「確かにそうだ。通りがかりの無宿者なら、逃げるが勝ちだ。探索の間も逃げれば良い」

 喜助と手伝いの男は、街道筋でたわいのない話をして歩いていた。船の持ち主に話を聞いて、船頭にも話を聞き終えていた。他にも関わりのある男達の名も聞き出せている。船の荷揚げをする者達だ。力仕事に慣れて、手荒な者も多いようだ。大きな船が来ることが滅多にない町である。川を遡れば人が減る一方で、大方の荷は大きな船着き場の街を往来するだけ。年貢の米や麦を運び出す時は、町に大きな負目が来る。どこかにある大きな都へと運んで、食料として売り銭に変えたりたり、権力者の貢物になったりする。

 そんな時は桟橋を伸ばして、船に荷を運ぶ。その時は人足の男たちが来る。桟橋を伸ばすのも専門の人足だ。その時は賭場も盛んになり、ヤクザとの喧嘩が絶えない。人が死んだりもするが、祭りのようなもので代官も騒ぎ立てしない。経費の一部だと思っている。問題を度々繰り返す者は、詮議もしないで役人が切り倒すこともある。そうなると喜助達が後片付けをするのだ。人を集めたりするのが得意な喜助は、騒動の後に調べものに駆り出される。

 当然、喜助は愚痴が増える。仕事とはいえ、生臭い仕事をする。面倒を一手に任されたらやる気も失せると言うものだろう。不満を仕事仲間と話し込む機会が増えて癖になった。


 大きな町で売り物を見繕い、夕闇の街道を荷物を背負って二人で歩いていた。日暮れ前に帰れると考える二人。慣れた仕事だけに、段取りで先がわかる。街道は何度も歩いた。見慣れた風景が広がっている。そこに小さな男が現れた。裸である。一物に毛が茂っている。乞食の子だと思った二人だが直ぐに考えを改めた。どちらにしても、物乞いされたら追い払うだけである。自分達だって暮らしは苦しい。赤の他人に恵む品は一切無い。中途半端にかまけて、野党の誘い水であれば、大勢の男に包囲されて、荷物と身包みが剥がされる。命を取られるかもしれない。見知らぬ者は、邪険にしてでも追い払うことが重要だ。

 小さな男は二人に振り向いて、視線を送り向けた。周囲に人影が無いが、街道の途中である。往来者が途絶えることは稀であるはずだが、途切れている。やおら男は真一文字走って、喜助と連れの男に飛び掛かった。短い両腕を開いて飛び掛かる。男の腕が、喜助とその連れへの喉輪となった。三人は道に倒れる。そして小さい男は喜助の連れに馬乗りを仕掛けた。喜助とその連れは荷物を背負っていたので、容易に立ち上がれない。身動きの悪さに付け込んだのである。だが小さな男は裸である。野党なら何か武器を持つだろう。

 小さい男は道の岩を掴んだ。土に埋まった岩である。躓く程度の顔を見せた岩であった。その岩を土から引き抜いた。そして顔面に叩きつける。連れの男は顔を失くす。周囲に多くの肉片と血を撒き散らかした。音は遅れてやってきた。喜助の耳にも届いた。あり得ない剛力が、小さな男に漲っていることが、潰れた頭蓋骨と岩の取り出しで判明する。

 喜助は、男が裸だったのは油断させるためだと考えた。だから野党に取り囲まれる前に、命だけは残そうと反応した。背負うた荷物を放置して、一目散に走り出した。倒れた姿のまま走り出す。滑稽な足の動きをして、喜助は連れの事を忘れて走った。直ぐに地面を足が蹴り出せて、恐怖を背中に背負って走り去ったのである。


 その夜に、喜助は新右衛門と捕り方連中を連れて、襲われた場所に戻って来た。代官屋敷に行ってからで、深夜になる。夜には眩い星と月が浮いている。明かりが無くとも良く見える晩であった。遠くから梟の鳴き声が聞こえてくる、静かな闇が佇んでいる。

 惨劇の場所には、荷物と岩だけが残されていた。周りに気配は感じられない。すでに男は何処かに消えていた。そして押し潰された男の骸もなかった。だが地面には大量の血糊が残されている。血が腐って生臭い臭いが漂っていた。喜助は荷が二つ残されていることに驚いた。物取りは荷ではなくて男をさらったのである。しかも岩で撲殺して。喜助は新右衛門に語ったいきさつを、代官の役人共にもう一度語って聞かせた。

 幼子を山姥がさらう語りはある。だが男をさらう小男の話は聞いたことが無い。しかも岩で打ち据えて殺してである。そんな剛力であれば、獣を捕って食えばいいだろう。もはやこれは人ではないと、皆が口々に言う。ヤクザの騒動とは訳が違う。どうして良いか分からない。新右衛門と喜助、代官の役目の者らは頭を抱えた。

 昨晩に見つかった夜鷹の骸は、体が残されていた。同じ男の仕業なら、痩せた女を千切ってでも持っていけるだろう。臓腑だけ消えていたのは、獣に食われた為かと会話を交わした。だとしたら今日の出来事は、ほんにただ事ではない。野党の類なら荷物を持ち去るだろう。口々に思いを吐くだけで結論が得られない。

 闇夜の月は、大事になった男らを静かに見下ろしていた。

 そして森の中から、赤い目をした大きな犬が、彼ら一向を静かに見ていた。




〇容疑者金時



 金時が川伝いに歩いて街道に出たのは夜の頃である。別段急ぐ意味合いも無く、考え事をして歩いていた。既に死んで蘇った見であるから、疲れなど感じない。事が成るまで体が動き続けるのだと悟っていた。黄泉の国から奥の院に出るまで、延々と歩いて来た気がする。一瞬だったのかもしれないが、黄泉の世界では時間感覚が無い。悠久も刹那も皆一緒である。金時には導く者の声が聞こえていただけである。背中を見えない手が押している感覚だけが残っている。それが御仏の導きなのだと、現世に出て理解できたのだ。

 神々の世界に仏はいない。仏は天界におらせられ、現世と地獄を垣間見ることができるだけ。平安の御代に、密教が巷に広がりを見せて信心する者が増えた。神々の力も大きく衰えていた。人が神通力を失って、神を尊ばなくなっていた。死んだ者も極楽浄土に行くか、地獄に落ちるか、するだけだ。善悪の思想が人を二分して行く。深い自然の営みよりも、日野の世の世界を重要視するようになった。町に自然が失われて、都会が人を画一的にして行く。唐の都を模した平安京の完成が、日の元の住民を都会人に仕立ててしまう。

 だから鬼門が開かれて都に鬼が出た。魑魅魍魎は都の外で、鬼たちを見て様子を伺うばかり。都会人の心には鬼が住まうものだ。唐の都に鬼が出るのと同じだ。雑多な感情が淘汰されて、有る無しが人を二分する心を育てる。沢山あっても良い考えが失われる。そこに対立が生まれて憎しみや妬みが生まれる。自然に対する畏敬の念よりも、人の世の立場が優先される。だから公家集に社会的な不安が生じて、心に亀裂が生じる。心の隙間に魔が覗き見て鬼を呼び込んだ。都の治安が乱れて、武士が都に呼ばれた。大陸の祈祷師、仙術も占いも密教と共に来た。文化と密教が魔を呼び込む隙間を作り出し続ける。

 加持祈祷の技を鍛えるために、僧が山に入る。やがて大陸の仙道が修験僧を生み出す。仙術が神通力を得て、魔を調伏するどころか使役に仕立てる始末。危険な技は術師を魔に染めることも起きて、術師が呪に落ちる。都の外の道々の者さえも、呪に落ちて魔を呼び込み鬼が出るようになる。都が鬼を呼び出す素地を作ってしまったのである。

 密教の真言によって、世に平和と安寧をもたらせようと、公家集がこぞって詣でるようになる。神々は人の世がら排除されて、山に掬うことになった。こうして黄泉の者も少なくなるばかり。熊野の神々を祭る武家の者も、終の棲家を仏門へと切り替えた。

 金時たちの後に続く武者も絶えて久しい。戦で死んだ者らは仏教の六道に堕ち、輪廻の輪に乗り再生を繰り返すようになる。永遠は時でなく、循環へと変化した。

 金時は心淋しく感じてしまう。慧隠和尚に合った時に感じたことだ。呼び出したのが神官でなく僧であったからだ。世の死後支配は僧に任されていたのだ。金時が頼光の下で戦った鬼は、神と仏の違いでもあった。雌雄を決するべく意味合いもあったのである。だが神仏合体の思想になり、雌雄比べでもない。新しき世に出たはずの鬼も、世間を賑わせていない。河原の中にいた物の怪は鬼ではなかった。魑魅魍魎や精霊のようで剛力を誇る悪事を為すものでなかった。神剣を使って襲ってみたが、逃げて戦う意識が希薄である。

 追ってみたが、森の守り神らしい白い鹿に行く手を遮られた。金時の出る幕でないと教えられたのだ。目論見が外れて落胆したのである。鬼は山に潜み、町に悪事を為していると思って見たけれど、時代が移り変わっているのだろう。鬼の出る場所が都でもない。呼ばれて来たのに、鬼の気配がしていない。これでは鬼も金時も放浪者である。足取りも重く遅くなるというものだ。闇夜を昼間の様に見る目でも、周りに鬼が見当たらない。


 だが鬼の代わりに人が出た。代官の役人達である。喜助の言う、恐ろしい剛力を持つ小さい男に良く似ていたのだ。野党盗人のような足軽具足を付けて山から降りて来た。どう見ても怪しげな野武士一味の一人にしか見えない。しかも喜助の連れ人が惨劇された場所の近いところに現れ出て、道を独り肩を落として、落胆しながら歩いていたのだ。まさしく怪しい者に見える行動をとっていた。役人に呼び止められるのも当然である。

「そこの男ここで何をしている。詮議するからそこに止まれ」

「往来をどのように歩こうと、己の好きであろう。何をするのか知らぬが迷惑である」

「怪しげな者め。このまま捨て置けぬぞ。どこの手の者か、名を名乗れ」

「源の頼光が手配、坂田の金時である。己ら先に名乗るのが礼儀だろう」

「役目の者を謀るのか。何が源の頼光だ。大昔に死んでおる物じゃ。それに金時だと申すのか。御伽草子でもあるまい。馬鹿にするのもたいがいにせよ」

「名を教えろと言ったから教えてやったものを、馬鹿にするもない。猪武者どもめ散れ」

「猪武者だと。我らを無能呼ばわりするのか。ならこの場で、棒で打ち付けてやろうか」

「おお、望むところだ。今しがた癇癪を起しそうであった。丁度良い、棒捌きを見せて貰おう。怪我をしても知らぬぞ、猪武者殿」

 金時は代官の役人を見て笑う。暗がりでも金時の笑みが役人に見えた。街道は星明りで人の姿が良く見えた。役人共は金時の姿かたちを見て侮っていた。肩口程の高さしかない小男だからである。腰の物は本物の刀であるか分からぬが、手に持つ樫の棒は硬い。刀であっても、簡単に切り落とされるものではない。お互いが動いて入るなら傷が付く程度である。まして徒党を組んで金時に接している。簡単に捉えられると思い込んでいた。

 だが蘇った金時は、成りは小さくとも全盛期の剛力を備えていた。体に力が漲る。死に体とはいえ、神仏の加護で守られた体躯である。金時から近場の男にけし掛ける。その動きは兎の様に軽く早かった。役人の腹に肩当てを食らわして、手の棒を取り上げる。役人は金時の体当たりでよろけ、手の平の力を増していたので金時に引き寄せられて前のめりに倒れた。倒れた体を金時が受け止めながら、背中に向けて放り投げる。掴まれた男は前のめりに一回転して、立っていた役人を一人薙ぎ倒す。倒れた二人がうめき声をあげる前に、金時が奪った棒で横に薙いだ。音が後から来て、側頭部を叩かれた三人目の役人が横転する。三人が地面に倒れる音が、気持ち良く夜空に響いて消えた。うめき声が漂う。

「何だ口ほどにもないこれで代官の役人が務まるものか。数を備えても一人前にならん」

 倒れた役人は誰も金時の問いに答えられない。地面に転がって呻いているだけである。

 その時に金時は、物の怪の気配を感じる。気配の先に目を凝らす。藪の中に大きな犬がいた。目が赤いのが微かに見て取れる。何時からそこにいたのか不明だった。犬の形をしていても犬ではない。犬の精でもなさそうだ。もちろん狼でもない。確かなことは生き物でない事実である。それが藪から見えるように立って姿を明らかにしている。己の存在を明らかにして、何を誇示しているのか。姿だけではまったくわからない。

 犬の体から敵意は感じられない。だからと言って好意も感じ取れない。つぶさに見て様子を観察しているだけ。こちらに向かって駆けり戦う気配もない。逃げる気配も感じられない。佇んでいるように見えるだけ。今のところ敵ではないようだ。

 金時は落ち込んで歩いて来た事を後悔する。気を周囲に撒いて置かなかった。それでも人なら避けられるが、鬼なら倒されていたろう。今の現世にいる鬼が、どの程度のものなのかわかっていない。こうして犬を見ると、己のうかつさに恥じ入る。小さき頃より山の精霊や獣と遊び育ち、剛力を得て鬼退治をするまでになった。老いて死しても妖怪に負ける気がしていなかった。だのに人を打倒して憂さ晴らしに気取られ、物の怪に気が付かなかった。弱い者苛めをしただけだ。役人に歯ごたえがあれば、少しは楽しめただろう。だが甚振っていたら、背後から襲われていたかも知れない。迂闊さを呪いたくなる。

 妖しい犬が、金時をこの世のものではないと認識すれば、敵対する可能性もあった。腰の神剣が反応すれば、刃と切り結ぶ必要がある。赤い目の犬が鬼の眷属なら、金時は敵なのだ。戦って今を勝ち取る間柄になる。こうして道端と藪の距離があるから、互いの結界を破っていない。対戦距離に入れば、何かしらの行動を起こすしかない。お互いの真意は、戦いの中に読み取り出すしかない。それが荒武者の生き方であり行動なのである。

 金時の足元で、役人が体を動かした。痛みが引いて起き上がろうとしているのだろう。遠くにいるが、妖力をもつだろう赤い目の大きな犬。足元の役人が三名。場所が悪いと足場を探ろうとした金時。視線を逸らせたら犬が消えていた。距離を詰められたのかと、足元の男共を蹴って半殺しにしながら、腰の刀に手を掛けて待った。林の中で鍛錬したように、鯉口を左親指で切って待つ。だがどこからも襲ってこない。先ほどの犬の気配は薄かった。潜んでいただけでなく。そのような技を持つ妖犬かも知れぬ。

 油断するまで待つ計画かも知れぬ。足元にある役人が、金時の邪魔になるように待っているのか。目覚めれば足を払うように邪魔だてするだろう。それが役目だし、倒された恨みもあるだろう。こやつらが戻らねば、他の役人が調べに来る可能性もある。その場合は大勢で来るだろう。三人で行って戻らねば倍の人数で来るのが戦術である。金時が待てば待つほどに不利になる。そこまで考えているのなら、人を超える知恵を持つ妖犬だ。足元に転がる男の様に扱えないだろう。研ぎ澄まされた歯と爪が武器となって殺到するだろう。

 金時は死んでいるから息はしない。だから息を見て襲われるような機会はない。黄泉の国で鍛えた目は、闇夜でも良く見える。星明りでも十分に人を見分ける。だが妖怪や物の怪は人知を超えた動きをする。霧のように現れたり消えたりもできる。だからこそ気配が重要なのだ。微かな気は絶対に消せない。気のある存在なら気は消せない。消せるとすれば神々だけだ。金時は黄泉の国でも神々を見たことは無い。感じたこともない。だから襲ってくれば必ず気筋が見えると思っていた。

 草むらの虫が、戦いの気を感じなくなったのか鳴き始める。虫も気配に敏感だ。戦いの間を感じて動かずに待っていた。この安心する緩みを襲うのが忍ぶ戦いの瞬間である。金時は油断せずに、立木の様になって待つ。やがて梟も泣き出した。それに合わせて、役人から遠ざかるように、足を動かす。危険の要素を減らしたのだ。しばらくして足音が伝わってくる。人の足音である。役人が戻って来ないから探しに来たのか。それとも昼のヤクザだろうか。一日の内に多くの者と対峙した。人を打倒すのは簡単だが、物の怪に襲われる可能性が高まるだけである。多数を相手にするのは危険だ。腕を過信するのも問題だ。自身を失うのは、更に問題なのだ。負ける要素が増えるばかり。金時は気配を切って走り出す。先の犬のいない方向に向け、草むらに飛び込み駆け出した。

 草の動きに合わせて虫が鳴き止むことはなかった。戦いの可能性が低いと互いに確認しているかのようだ。草むらの先に犬が待つことは無かった。金時は藪の中に消えてみせた。後には生き物の営みと、星明りが残る。静かな夜が戻る。

 足音が近づいてくる。速足だが音を立てない潜む足音だ。虫達は人の足音にひるまないで鳴く。周囲の空気に日常がたち戻ってくる。倒れた役人の呻き声を除いて。




〇居候



 平助の元に女がいた。土間を囲っただけの掘っ立て小屋長屋である。昨晩は素っ裸の男が夜中に潜り込んでいた寝場所。そこに子供のような大きさの女、帰蝶が座り込んでいる。土間の上には、崩れかけた筵が敷いてあるだけだ。その上に足を投げ出した帰蝶が、不満顔して平助を睨んでいる。平助は褌に擦り切れた羽織物を荒縄で締めた姿である。

「何の食い物も無いのかい。飢えて死んでも知らないよ。死んでもらった方がいいけど」

「何を縁起でもねえこと言うんだ。人の家に来て、食い物はねえか、死んだ方がましだと抜かす。ふざけるな。糞生意気言ってると、外に放り出すぞ。さっさと家に帰りやがれ」

「あたしは別に外でも構わないよ。見番もしなくちゃならないからね。変な死に方されて、思いがけない六道に落ちたら困るんだ。虫けらに生まれ変わられたら探せないもの」

「ああ、そうだ。どうせ博打で負けて身包み剥がされる身の上だ。腕が落ちれば大工の稼ぎも無くなる。家賃が払えなきゃここも追い出される。何処ぞで野垂れ死ぬ身の上だ」

「黒兄には最後に幸せを感じて死んでもらって、三途の川で再会しなくちゃいけないんだ。大王達の許しを請うて、修羅鬼畜道に連れ戻らないと鬼に戻れない。覚えておくれよ」

「何だ。真昼間から鬼だ鬼だって。俺が鬼ならヤクザ共に袋叩きにされる訳がねえ。強い鬼なら、人間に身包み剥がされることもねえ。鬼は強いんだろう。寝言言うなって」

「人に生まれ変わったんだから仕方ないさ。ヤクザに袋にされて殺されて、この世に未練を残せばこの世の鬼や幽霊になっちまう。それじゃ転生できないんだよ。もう賭場に行かないでおくれよ黒兄。あたいが本気で殴れば人が死ぬ。それじゃ殺生になっちまうだろ」

「おいこら。小せえ女にヤクザが殺せる訳がねえだろう。夢みたいなこと言うな。ヤクザに襲われて、どこかの女郎小屋に押し込まれるぞ。滅多な事言うなって」

「本当のことさ。そして羽織を取り返したろう。手加減するのが大変だったんだよ」

 平助は羽織っている服の襟元を掴んで口をつぐんだ。女が何かの手段を講じて、ヤクザから服を取り返して、平助の元に持って来たのだ。襲ったヤクザから、金品をみな取り上げれば盗賊の仕業に見えるだろう。だが服だけ取り返したら、平助が待ち伏せして襲ったと思われるだけ。もうこの服を着て外には出られない。この羽織りで今度賭場に行けば、間違いなく仕返しされる。行かずとも、道で出会えば同じことになるのだ。ヤクザは手加減しないで平助を襲ってくるだろう。問答も言い訳も通じる相手ではない。暴力でもって、自分達の社会を支えているのだ。やつらに弱みを見せたら生きて行けないと思う平助。そうした行動が、ヤクザの生きる道である。戦乱の世には無かった構造だが、戦が落ち着いてしまい、腕っ節を発揮できないはぐれ物が、夜の世界に集まり力を見せているのだ。

 平助は女の顔を見つめ、顔色を落とした。取り返して来た羽織を戴いた以上、何等かの手を講じないとならない。黙って隠れて暮らしても、何時かヤクザに見つかって、何らかの処罰を受けることになる。ならこの羽織りを早くに処分して、新しい着物を手に入れて、素知らぬ顔をして逃げおおせるしかない。手元にこのボロ服が無ければ証拠もないのだ。

 平助は手桶の水を柄杓で掬って一口飲んで、溜め息を吐き柄杓を手桶に戻した。柄杓の柄は使い込んで擦れて痩せ細っている。手垢で真っ黒だ。洗って綺麗にしてくれる女もいない。稼ぎは酒と博打に消えている。時々夜鷹を買いたいが、目先の欲に消え去り蓄えを使う考えも無い。思いの外銭が手に入った時だけの楽しみだ。なら先行きが心許ないのなら、頭の変な女を住まわせて慰み物にしても良いと考える。見た目の器量だってそんなに悪る無さそうだ。話を合わせて、適当に通って貰えばいいか。女を見ながら適当な考えを頭に巡らせてみた。その時に女が反応した。卑しい考えを読まれたのかと平助は身構える。

「あの馬鹿、舞い戻って来やがった。散々に打ち据えたのに性懲りもない」

帰蝶は小さく悪態を吐きながら、小屋の壁奥を見つめた。平助は何のことか分からずに、女の顔を見つめて口を少し開けて呆けた。その刹那、帰蝶は突然走り出した。壁に向かって突き進んだ。平助は何をするのか分からずに帰蝶の行方を見送る。すると帰蝶は小枝を組んで筵を結わえただけの壁面に、躊躇なく突き進み突き破った。

「おい、何処に行くんだ……あ! 何をしやがる」

壁があった場所に闇夜が見えた。帰蝶の姿は闇に溶け込んで見えなくなった。だが視線の先には大きな犬の尻が見えた。壁の向こうには帰蝶の着ていた服が、抜け出たように転がっているのが分かる。直ぐに犬の姿も闇に紛れて消えた。

 平助は抜けた壁に駆け寄り、手前に落ちていた筵を拾い上げ闇を見た。

「何てことしやがるんだ。俺が大工でも、だだ働きはしたくねえ。あんな女要らねえぞ」




〇再闘



 帰蝶が犬の姿に戻り野を駆ける。人の姿から犬になり、犬から妖犬に変化する。体躯が膨れ上がり牙が大きく育つ。頭に小さな角が生えて体毛を突き破って頂きを覘かせる。足の爪が鋼に変化した。世の中の全てを切り裂く牙と爪を得る。足のひと駆けがどんどん広がり、風のように夜の草むらを飛ぶように駆け抜けた。向かう先には青鬼がいる。

 山で帰蝶と戦った青鬼は、鋭い牙と爪に翻弄されてボロ雑巾のように切り裂かれ果てた。鬼だからそれくらいで死んだわけではない。だが蘇るのに丸一日掛かった。動けなくなった鬼の骸を食いに来た、狸や狐を食い付かせた瞬間に体に取り込んで養分とした。虫でも鳥でも何でも取り込んだ。自らの血肉を撒き餌にしたのである。

 青鬼にしてみたら、現世に蘇り体が馴染む前に帰蝶に出会ってしまった。黒鬼が覚醒するまで待てないので、浚って地獄に押し戻そうと考えていた。夜に出会って嬉しくて一晩待ったのがいけなかった。犬は嗅覚が鋭い。遠くに生まれ出ても、黒鬼の元に現れて出られた。正規の段取りを最小限破って出た分、身体能力がそのまま近く残っていた。青鬼は恨みの道を辿って、小さな針の孔から出たから、能力のほとんどを地獄に置いて来てしまった。彼の世なら絶対に負けない体力や技能の差が、逆転していて刃向かえい。体も人の血肉を元に組み立てたから、簡単に切り裂かれて倒されてしまう。不覚を取ったと後悔している。後悔しても能力が戻る訳でもない。地獄から鬼として現世に出たから、死ぬことは無いが弱い事に変わりがない。身動きがままならぬ中で、昔を思い返して見る。

 前もそうだった。赤鬼と出て来て、役行者に使い走りにさせられて難儀した。行者の寿命が尽きるまでこき使われた。地獄に戻ってから、大王様に散々叱られたものである。役目不行き届きとなじられて、黒兄も怒られた。詫びても詫びきれぬから、こうして禁を破ってまた出て見た。今度は数日で戻る予定だった。これなら大王共に気取られる事無く戻れると踏んだのである。いつぞやは地獄から因りを使い、現世の探りを入れて見た。ところが世の不平不満の男に取り込まれ、戻せなくなった。京の都や周囲で幾つかの悪さをしでかし、武士に成敗された。その痛みは地獄まで届き、役目を疎かにする羽目になる。

 これが知れ渡りまた上役から怒られて、黒兄は管理責任者の責を負わせることにつながったのだ。黒兄は鬼にみな優しい。下級の鬼たちが憧れたこの世を見たくて、輪廻の輪に乗って六道の道に彷徨い出てしまう。赤鬼と青鬼、帰蝶らは泣いた。大好きな黒兄は何処かの道に生まれ出てしまったのだ。もう鬼に戻る確率は無いに等しい。天界に生まれては次の輪に乗るまで、悠久の時を重ねることになる。鬼どもと一緒に反省した。大好きな黒兄が輪廻に乗ったのは自分達の不徳のせいだと嘆いたのである。地獄は鬼の涙で洪水が起きた。見かねた地蔵菩薩が慰めてくれたけれど、心は一向に晴れない。鬼で生まれた以上、人間や仏のように反省ができない。強いからだと強烈な精神があっても、成し遂げられぬ。こうして思い返す度に泣いてしまう。ようやく人に戻った黒兄に合えたのに、帰蝶に妨げられてしまった。

 帰蝶は言った、黒兄が鬼の記憶を取り戻せて、人の寿命が全うできるまで寄り添うと。地獄に戻って、大王に封印される罰を受けてもいい。お前は直ぐに帰れという。

 青鬼は、赤鬼だって何処かに生じている筈だ。出会うまで戻りたくないと拒んだ。

 すると帰蝶は問答無用で俺を切り裂いた。邪魔するとこうなるんだと、体で思い知らされた。体が元に戻って歩けるのなら、地獄に戻ろうと思った。けれど立ち上がると欲が出た。鬼の性である。何とかできるかもと、黒兄の元へ足が向かって進んだ。

 青鬼が近づいたから、帰蝶に感付かれた。犬の鼻は騙せない。絶えず地獄の腐臭が付きまとう。消えない匂いだ。だから人にも、坊主共にも感付かれる。その度に仕置きが来る。この度もどこかから念珠の力を感じる。どこかで高僧が護摩焚きをしているのだろう。悪さが過ぎると、地蔵菩薩が護摩の炎に現れ出でてしまう。迎えに来られたらもう拒めない。神通力の強さがまるで違う。天界の仏が、閻魔大王の力を使って地獄に現れる程の慈悲深さである。強気の鬼でも逆らえない。ひれ伏すだけである。しかも温かで在り難い存在だ。鬼にでも慈しみの心で接して頂いている。怒られたら慰めてくれる。亡者と一緒に責め苦を追って、悟りを早く導く存在なのだ。大きな慈悲の心に、打たれぬ鬼も亡者もいない。

 だから早く始末を付けて、地獄に戻りたいのだ。


 青鬼は遠くから大きな気が来るのが分かった。帰蝶が舞い戻って来た。戦って勝てる相手ではない。もう一度切り裂かれて終わるだけだ。歩みが遅くなり停まる。そこに帰蝶が走って現れた。全身が総毛立っている。口答えも出来そうにない。文句を言って争うのなら地獄に戻ってからである。敵わぬ相手に立ち向かっても目的は果たせない。

「何しに戻って来たんだ。きちんと話をしたろう。聞き分け良く、あの世に戻りな」

「そうさ聞き入れたんだ。だが黒兄の顔をもう一度見たくなったんだ。いいだろ」

「駄目さ。黒兄の記憶は戻らない。人に生まれ出る時に、綺麗に忘れちまった。死ぬまで思い出さないよ。それが輪廻の掟だろう。忘れたのかい。あんたも私も知らない」

「そのまま地獄に連れ戻ればいい。神隠しの技で地獄に連れ戻そうぜ、帰蝶」

「駄目だよ。宇宙の法則を曲げてはならない。最後の機会は寿命が尽きて三途の川だけだ。それ以外にない。河原で前世を思い出して、大王達に許しを請うしかないんだよ」

「もし黒兄が悟りを開いたらどうなる。輪廻の輪を通り抜けて、一切無常の宇宙から解脱してしまう。悠久の先にも、二度と出会えないんだぞ」

「大丈夫さ。博打に酒と女に夢中なんだ。煩悩の塊りだよ。解脱なんてするもんか」

「嫌、何が起きても不思議じゃない。悪逆非道の限りを尽くして裏返った者もいる」

「そんな解脱者はひと摘みだよ。艱難辛苦の修行をしても無し遂げられぬ御業だ」

「しかし、それでも……」

 この時に、金時が闇夜から突然現れ出でた。鬼たちに気配すら感じさせない凄技で。




〇地蔵菩薩



 慧隠和尚は護摩焚きを続けていた。坂田の金時が寺を訪ねてからずっとである。心のざわめきは、蘇えった金時が奥の院から来た時が頂点だと考えてみたが、一向に下がる気配が無い。金時の物の怪退治が上手く行かないか、もしくは魑魅魍魎の類が増えているかどちらかだろう。なら神通力でこの世の安寧を願い、物の怪共の動きを封じる以外に無い。

 この地域がかつてより古戦場が多くあると、先先代からの言い伝えで知っている。簡単に鎮魂がなせる訳もない。これからの住職も、満たされず、彷徨う御霊を鎮めるように祈り続けて貰うしかない。修行を通じて、気配を読み取る技が身に付けば、心が緩み役目を疎かにすることも無いだろう。だから寺の坊主には修練を積んで貰いたい。それが僧の生きる意味になる。その上で悟りを開いて、輪廻の輪から出て貰いたい。この世が苦であると、開祖の釈迦如来が申しているのだ。三方に則り修行を務め、密教の御業も習得して鎮魂と安寧を祈り続けること。それが日本に仏の道を広めた聖徳太子の願いでもある。

 だが平安の都には鬼が遊び、世は乱れに乱れ、人心は迷いさすらうばかり。世の安寧には程遠い。こうして古戦場周辺に鬼が現れたとなれば、末法だと思えて仕方ない。仏の御心は常人には分からない。分からないことは神仏にお任せするしかない。だからこそ黄泉の国から金時が召喚されたのだろう。神の御代にまで仏の慈悲が届いた結果なのか。であればこの国の仏教は成果を上げている証明になる、心が少しだけ安心できる。たとえ混乱の中でも、仏の御心は人心に届いているのだ。人の世に成し遂げられぬ出来事は、こうした仏の力で調伏して貰う以外に手が無い。だから護摩を焚いて、微力ながら祈願をしている。この祈りは仏の元に届いている、そう実感を得た慧隠和尚だった。

 薪が使い切ってしまった。念仏を書いた札も既に終わった。護摩焚きは灰となって天に届いたろう。台座の上には火種が微かに赤く光り、灰の山から除き見えている。一心不乱に祈った慧隠和尚は、深く疲れていた。両手を上げて数珠を練る力もこと切れたと感じた。眼で消えそうな種火を見て、感謝の念を薪に送った。境内に静かな時が流れる。

 すると静寂を破って炎が上がる。もう燃え上がる薪は残っていないはず。立ち上る炎は薪の赤色でなく、青白く黄金の輝きを放っている。慧隠和尚は食い入るように炎に見入る。

神々しい炎の中に仏が立ち上った。手には錫杖を持っている。伝えに聞く地蔵菩薩の御姿であると瞬時に気づいた慧隠和尚。疲れで動かぬ腕が動いて、手と手が合い合掌した。

 地蔵菩薩は慧隠和尚に視線を送って、石仏地蔵のように優しく微笑んでいる。大きく強い慈悲が、心の奥まで染み込んで来た。和尚は体温が急上昇するような感覚を与えられた。これが人知を超えた愛なのだと実感する。この御力を生生に配り与えれば、仏の御代になるのだろう。それを餓鬼道や地獄道で配っているのである。さぞかし地獄の亡者は有り難いと感じている筈だと考えて、体が震える慧隠和尚であった。

 地蔵菩薩は暫く慧隠和尚を見て祝福を投げて、炎の中から静かに外へ出て行く。星明りの中に消えて行った。だが闇のカ化に見えない光を見る慧隠和尚。見えずともあることはこのような感覚なのかと理解した。護摩の台座にあった種火は今も赤く光っている。燃え尽きる気配は無さそうだと感じる。慧隠和尚は身を正して、もう一度祈りを捧げるよう念仏を唱えた。すると薪が無いのに青い金色の炎が上がる。現世を浄化する天の炎が、絶える気配も無く燃え上がる。慧隠は腹の底から力が漲るのを感じた。これが仏の力なのだ。疲れも何も消え去っている。若い頃の情熱までも蘇り、心と体を漲らせる。規の声も若さを取り戻し、張りのある声が己の耳に聞こえる。奇跡がこの場に起きたと知る。

 和尚の声が寺の中に聞こえ、寝静まった僧たちの耳に届いた。ある者は目を覚まし、ある者は心安らかになり、眠りが深まる。目を覚まさぬのに、涙が頬を伝う者もあった。仏の御力は聖達にも届いて、奇跡を為した。




〇慈悲の光



 金時は神剣で切り付けたが、二匹の妖怪は簡単にかわして逃げた。川にいた魑魅魍魎とは素養が違うのだと知る。これが探し求めて歩いた末の成果だと喜んだ。この世に舞い戻った甲斐は、この一刀にあると理解した。神剣もこの場で震え、手の平で震えている。柄から力が全身にみなぎって来るのが分かる。二手に分かれた妖怪は、鬼の仲間だろうと予想した金時。刺し込まれぬように二匹に気配を投げて、逃げぬように縛った。

 強い気迫で二匹を縛っても、退散する気になれば振り解くだろう。人ならば失禁して座り込むような強い気迫である。人でないから効力は薄い。剛の者の気迫は、人の延長でしかない。彼の世の物は、人知を超えた力を持つのだ。生半可に立ち向かえば返り討ちに合うだけ。だから黄泉から歴代の勇者が呼び戻された。この力が神界からでなく、仏の力なのが予想外のこと。だが与えられた刀は、神の力が宿る神剣である。双方が自分を選んで連れ添っている証がある。それが柄から伝わる無限のちからなのだ。

 この刀で切れぬ者はいない。特に物の怪には効果が高いだろう。神通力が直接伝わるはずだ。だから川の妖怪は一目散に逃げて、林の中に消えたのだ。刀の力を見て理解したのだろう。金時が神剣の神通力を実感した瞬間だ。物の怪を求めて歩く足取りが軽く感じた。この世の物でない者に力を奮えるのだ。人に力を奮えば暴力となって身を亡ぼす。人に悪さをする物の怪であれば、容赦も情けも逡巡しない。世を掬う手助けとして、力の限り叩けばいいだけ。生き甲斐を強くする絶好の機会である。それが今だ。


 帰蝶は厄介な男が現れたと知った。彼の世の物を退治する選ばれた勇者だ。都に辺りに住んで、魑魅魍魎でも退散していればいいのに、田舎にのこのこ現れた。きっと神代の仕業で導かれたのだろう。実態を伴う現世への紀行は危険を伴うし、大王の知ることになるのは必定。この勇者が寿命が尽きて審判にくれば、現世の行いが露わになる。そこで見た自分の姿を大王に見られたら処罰の対象になる。地獄に戻って処遇を待つか、この世で逃げ回るしか手が無くなる。自分とあった勇者の魂を、この世に縛り付けて、呪わせる対象の神代に仕立てる以外無い。悪鬼羅刹として、新しい神社に御霊を固定するよう、人々に仕向けるのだ。手間が増えたと分かり、酷く力が萎える。向かいの青鬼は敵意をむき出しにしている。神剣に触れたら切り捨てられるだろう。地獄の鬼の力も、ほとんど置いて来たはずだ。直接戦ったら勝てないだろう。だから早く地獄に帰れと言ったのに、指示を聞かないからこうなる。散々悪さを仕掛けて来た青鬼だ。上役から強く叱責されるだろう。もう黒兄は地獄にいない。直接叱られて、責任もすべて受け止めねばならないのだ。勇者を殺しても意味がない。先に情報が洩れるだけである。早くに逃げて地獄に戻る事が望ましい。


 帰蝶と青鬼、金時は三方で睨み合う形になる。三竦み状態だ。金時は一方を襲えば、背中に逆襲されると考えて、更に踏み込めない。初刀をかわされた以上、打つ手が限られている。急襲した際に、太刀を浴びせることが叶わなかったのだ。だがこのままでも居られない。一匹が逃げたら追えない。どちらか順次切り結ぶしか無いのだ。それにはまた追跡が必要だ。結界を張れていないから、どこかに逃げ果せたら面倒だ。途中でどんな悪さをするか分からない。逃げる速さも人知を超えている。どこかに滞留していないと追い付けない。睨みを利かせていても、心が一向に休まらないし、攻撃の手立てが見えて来ない。

 神剣の切っ先が届けば、神剣の持つ浄化の力が入るだろう。大きな傷を負わせて弱らせることが叶う。だから二手で同時に襲って欲しいと思う。一閃する力は、小さな体にもある。見た目以上に力が漲っている。背丈が不足しているのから、刀の先が届く範囲が狭いことだ。その分体が軽く早く動けるので、足捌きで刀の切っ先を広げられる。藪の中でも素早く走れるのだ。それが利点である。

 だが今は草むらの上で、周囲には闇しかない。素早く気配を殺して足音を忍ばせたが見破られた。こうして近くに妖怪を見据えていられるのは、半分くらい上手く行った証拠だと思えた。だが全部上手く行かない。蘇って間が無い分、戦略を練り切れていない。


 帰蝶は勇者が諦めて立ち去るのを待った。黒兄の見守りで現世に来たのだ。破邪の者に目を付けられたら計画が狂う。ここは強そうに見える青鬼に身代わりになって貰い、全速力で逃げて貰いたい。走る速さは犬の自分が上だ。老い付けそうな人型の鬼が、追跡し易いと思えるだろう。人の限界まで走って、疲れ諦めて貰う方が良いと考える。だから青鬼が行動を起こすまで待った。その間に勇者は足先を動かして間合いを詰めて来るのが分かる。獣のように細かい動きが分からぬことは無い。犬の形をしていても、人より知恵が回るのだ。見た目に騙されているのが見て判るので、策略に乗ってやろうと待ち構えた。剣先が届きそうになれば、神速で闇に消えよう。青鬼を襲うなら黙って見届けようとした。

 

 気を楽にして待ったら、遠方より温かな気を感じる。懐かしい大きな慈悲の気。闇夜に太陽が現れるような温かさを感じ取る。時間切れだ。お地蔵さまに見つかってしまった。妖怪の知恵も、菩薩の知恵には敵わない。大人しく仏の指図に従うしかない。逃げても即座に現れて来る。時空を超越する力をお持ちだ。向かいの青鬼は絶望の顔を浮かべたのが見える。帰蝶は犬の顔で笑えなかったが、舌を出して吐息を漏らした。

 

 金時は神仏の気を感じたとたんに、妖怪二匹が意気消沈したのを理解した。戦闘気配が霧消して行く。相手の気概が萎えると切り付けられない。無の境地に近くなって隙だらけでも隙が見えない。逆に自分の気が明らかになって、鏡合わせで弾かれてしまう。達人の境地に至ると、無闇に刀が振るえないのが面倒である。この点、悪人や悪鬼羅刹は単純でわかりやすい。視界の二匹は相当な手練れの妖怪のようだ。神仏の法に従って動きを止める。現世に合って悪事を為しても、神通力の源に逆らったりしない。

 深い闇にも見えずとも見える慈悲の光。一度も見たことも無い大きな温かな力である。このまま黙ってここに待つ以外に方策が無い。逃げも隠れもできない。それが神仏の力である。生々の術も神仏に寄る加護で成り立っている。悪事も災害も神仏の采配だ。人は黙って従うしかない。真理は常に神代が知っている。こうして二匹と自分がここで出会うのも、神仏の導きか大いなる奇跡の偶然なのだろう。

 待つとは無しに待ち、妖怪に襲われる準備を怠らぬようにしていた。直ぐに闇真に黄金色の球が現れた。地蔵の後光である。道端の石仏のように、顔に微笑みが満たされている。妖怪二匹は大人しく膝を付いてしまう。

 金時はその姿を見て、刀の先を地面に向けてから、むき身のまま背中に控えて片膝を付いた。戦場で対象に敬意を払う姿である。臨戦態勢は解かないのが武士である。必要であれば神でも仏でも切らねばならない。手に持つ神剣は喜んで震えている。戦いの喜びと違う振動と力の色が、腕を通じて見て取れた。

 三者の中心に地蔵菩薩が来てたった。一方を見ているのに、何故か視線と顔が見える。物理の顔でなく、心の顔が三者を穏やかに見守ってくれる。戦いの最中が、安心の場に変化した。二匹の鬼は小さくなって地蔵の手の平に乗ってしまう。金時は驚きながら一部始終を見ていた。地蔵は手に持つ錫杖を一度鳴らした。錫杖の先端が眩く光り金時の視界を奪い、やがて闇が来て見えなくなった。草むらには星明りが降り、薄暗い闇を映し出している。天には見たことも無い輝きを放ち、天女が舞い踊るのを感じる。天女の姿は見えないが、待っているのがわかる。

 金時は立ち上がり刀を鞘に納めた。神剣は静かになって、この辺りに魔が居ないことを継げている。だが自分が消えずにここに居ることは、役目が終わっていない証だと知る。世に出た鬼は他にもいるのだろう。神剣が腰で温かく力を漲らせている。次の魔を探しに行かねばならない。行き先は神仏が教えてくれるだろうと確信した金時であった。


 慧隠和尚の読経が突然に止まった。台座の護摩が突然鎮火したのである。種火の姿も灰に見えない。地蔵菩薩が全てを終わらせたのだと理解した。ならば公達の武者はどうしたのだろうか。一緒にあの世に行ったのか。肉を持つ武者がそのまま彼の世に消えることはないだろう。仏の教えにも無いことだ。役目がある限り武者は妖怪探しをするはずである。

 和尚は幾日かの護摩焚きがこれで終わったと感じた。役目があれば神仏からの神託があるだろう。もう二度と無いことを祈るばかりだ。人の戦や争いだけでも対処し切れない。これからも命ある限り祈りを捧げるために読経をして、後輩共を修行させるのが努めである。地蔵菩薩を見たことは、己の修行が正しいと証を立ててくれたのだと考えた。


 平助は抜けた壁の外で、落ちていた帰蝶の着物を拾い上げる。微かに体温を感じられる。夜鷹を抱いたのは遠い昔だと思い返した。あれが物の怪ならば、呪われているのかと思う。ヤクザに殴られて身包み剥がされるし、訳の分からぬ男と女に難癖付けられる。山で野犬に襲われそうになるし、最後は壁抜けだ。大家に見つかる前に修繕しなくちゃいけない。隣近所に告げ口されたら、酒飲んで暴れたことにしよう。いつもの事だと思ってくれるだろう。悪い夢を見たと思い忘れることする。女が戻らねば、この服を売って食い物に替えればいい。役得かも知れぬが、大損したふた晩になった。たまには神社仏閣へお参りに行こうかと考えた平助だった。


 新右衛門は喜助とともに、代官の詮議を受けた。配下の者も多数の怪我人がでたのだ。野党の類が集まっているかもしれない。代官は遠くの配下に指示をだして、武家人を集めることに決めた。夜鷹の件はうやむやになるが仕方ない。町の安全を守らねば、支配者として烙印を押されて、周囲の武家一党から狙われる。弱き者は領地や荘園を奪われる時代だ。野党が近隣の武家の配下であれば、戦支度もする必要がある。大名に言って詮議をする材料も集める必要がある。新右衛門は仕事が増えるのを実感して、身震いした。







金時は何処へ鬼を求めて行くのか?

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[良い点] 日本独特の雰囲気のある物語でそれを最後まで貫いているところ。 [気になる点] 悪い点なのかどうなのか……日本の怪談風のおどろおどろしい表現があり、昔語り風に整えてらっしゃるので、都会人では…
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