野太い雄叫びが、神殿内に響いた。
その神殿は崖の淵に建てられていた。崖の下は海だ。黒い波が全てを飲み込むように荒れている。
潮風にさらされたそこは、しかし白亜の美しさを保っていた。森の中にある神殿と同じはずなのに、周りの景色が違うだけで印象も変わる。下から吹き上げる風が人々を拒むようにふいていた。
神殿内の窓は全て二重サッシだ。しかしそれでも風がふくたびに大きな音を立てる。
天才錬金術師であるセス・ウィングが浚われたのは数日前。王都からの鷹便で、まずヨシュカに知らされた。彼は慌てて、寝間着姿であるにも関わらず部屋を飛び出そうとして己の騎士に襟首をつかまれて止められた。
その後着替えを素早く済ませると、朝の入浴を楽しんでいた百合を目撃し、その光景に眩暈を覚えた彼は、恥じらい一つない姿にこれは夢だと思い込んだ。すぐにゼノンに頭蓋を片手で締め上げられ現実に気付く。
セス・ウィングが浚われました!
その言葉をなんとか叫んで、次の瞬間女の裸体に吐き気を催した。そんな彼を無視してゼノンたちの行動は早かった。すぐに騎士団に連絡し人員を確保すると、一刻後には神殿を飛び出していったのだ。
そして三日後。彼らは北のエメランティス神殿にいた。
正確には、囚われていた。
「わたくし、とても退屈だわ」
白く滑らかな肌に映える黒髪を指先で弄びながら百合は言った。
桜色の爪が黒に見え隠れするたび、近くにいる男たちがぼうっと見入る。
「そうねえ、ところでその爪、何か手入れに特別な方法でもあるの?」
ただ一人、厚い胸板を惜しげもなく晒し、白く清潔なシャツを着たピンクの髪の男だけが頷いた。
目に痛い程のショッキング・ピンクの髪。光り輝く黄金の瞳。趣味は服飾、主に下着作りを得意としている海賊、ガルテリオ・ダリその人であった。
「知らないわ。いつも任せているの」
「羨ましい。なんて美しい爪かしら! ちょっと見せて」
いいわよ、と言って百合は手を差し出す。その手を取るのはゴツゴツと節くれだった分厚い指だ。どれだけ女らしく振舞っても隠せない“彼女”の手。
しかし見た目に反してとても優しく触れた。まるでささくれ立った心を慰めるかのようにやさしく撫でていく。
「それにしても、怖くないの? ここは牢屋よ」
「初めてじゃないもの」
さらりと重大発言した女に、金の瞳が驚いたように見開かれる。
「色々大変だったのね」
「あなたも、怖がらないのね」
彼女の静かな言葉に、にやりと笑って返した。
「あたしはもと軍人よ。それに今は海賊。何を怖がることがあるのかしら?」
百合はしばらくきょとんと眼を瞬かせ、そしてふっと笑った。
「ここではなくて、ここにいるアレのことよ」
つい、と目線で誘導されて見た先には、黒に近い茶色の羽を持ちカサカサと音を立てて高速で移動する虫。古代から姿が変わっていないとされ、一匹いればその十倍は隠れているといわれるそれは、多くの人間に嫌われる存在だった。
その時“彼女”は、それと目があったような気がした。もちろんただの思い込みだが。
百合はそっと彼から手を離して、己の耳をふさいだ。そして。
「ぎいやあああああああああぁっ!!」
耳をつんざくような野太い雄叫びが、神殿内に響いた。
北の街ノルデンは、年中を通して曇り空の広がる場所だった。風は強く作物は育ちにくい。海が近いわりに、空気はどこか埃っぽく潮の匂いはあまりない。
晴天になることは年に数度しかなく、その日は誰もが仕事の手を休め空の青を楽しむ。そんな土地柄ゆえ、敬虔な信者が多く、神殿に属するものは貴族よりも尊いとされていた。
「我が街・ノルデンは質素倹約を重んじる。人々も、神殿も変わりなく皆平等であり、助け合いが必要であり、助け合うことは当然である」
しわがれた声はどこか重苦しい。
ゼノンは意識して表情を殺していた。場所は神殿の地下。百合たちが囚われている牢屋とはまた別の狭い牢屋だった。
横になるスペースもない。とにかく狭い場所で、座っているのが精いっぱいだった。だが彼は決して不平不満を漏らさない。
背を伸ばし、顎を引き、そして目の前の相手を感情のない瞳で見つめている。
「そなたらがこちらに来たことは、間違いである・・・馬を用意するゆえ、帰られよ。西の者たちよ」
前もって知らせがなかったからと言って、同じ神殿に属する者を捕えて地下牢に放り込んだあげく帰れとはどういう了見か。だがそれを口にしてはならない。
ゼノンは少しだけ考えて、そっと首を横に振った。
「我らは王都の神殿長より命を受けて参りました。ここで帰ることは許されません」
赤い瞳が相手を射抜く。困ったような、疲れたような表情の老人がそこにはいた。
「そなたの言い分はわかる。だが、今はよくない」
「いつならば良いのですか。神殿長を説得する何かを頂けなければ、我々は帰還できません」
ゼノンの言葉はどこまでも淡々として機械的だ。老人は悲しげな顔を横にふるばかり。
「ところで、プリーティアはいずこに」
「かのプリーティアならば、今はここよりも大きな牢の中だ。そなたらの件を西に確認している最中でな。確認が終わるまでは我慢しておくれ」
「か弱いプリーティアを牢に閉じ込めるのは如何かと」
「一人、部屋に監禁されるよりはマシだろう」
その言葉に違和感を覚えた瞬間、耳をつんざく雄叫びが響き渡った。
「なんじゃ・・・?」
口を開けたまま固まる老人に、ゼノンは初めて感情を見せた。
燃えるような赤い瞳の中には絶対零度の怒りのようなものが浮かんでいる。
「今の声の主と、まさか一緒にいるなどということはありませんね?」
老人の喉が、ごくりと嚥下した。




