その男、アファナーシー・ニキータ
第三章はじまります!
潮風に痛んだ髪がわずかに揺れた。快晴の空の下、燃えるような赤い瞳をもった男は彼方を見つめる。
目的地までまだかかる。予定ではあと十日程だろう。それまで酒はあるが女はない。男としての性を鎮める手段として奴隷の少年を抱くこともあるが、今はそんな気分ではなかった。
原因は己の仕事を邪魔した二人だ。
一人は黒髪の美しい聖女。もう一人は天才とうたわれる少年だ。絵姿でしかそれぞれ見たことはないが、確かに見目麗しい二人だった。
その二人が己の邪魔を何度もしている。
一度目は西の病。特殊な薬を作る場所を失ってしまった。
二度目は南の貿易。もともと騎士団に邪魔されていたが、売買の相手を失うのは痛手だ。
三度目は東の貿易。頭の悪い、しかしプライドだけは高い連中との取引は金になったし、西で作った薬を売り捌けて稼ぎになった。
だのに、その全てを邪魔された。
早急に対処せねば、どんどん悪い風が男に吹くだろう。それは決して許さない。
現在男は北の街を狙っている。この国は神々に守られている自負からか、どこか甘い考えの人間が多く、また隙に付け入りやすい。
まだ搾り取れる。まだ、金になるはずだ。
全て奪うつもりはない。本当に欲しいものは別にある。この国を壊すのはその後で良い。
ふいに空を見上げた。
高い位置に取りが飛んでいる。大きな鳥だ。北に生息している珍しい鳥で、深い緑の羽が下から見ると黒曜石のようで印象的だった。
ふと、己を追う若い男の事を思い出した。
灰褐色の髪に、光の加減では黒曜石にも見える瞳。一見優男だが荒くれ集団の海賊を束ねる力量を持っている。もとは海軍だったくせに、ただ己に復讐するためだけに安定を捨てた男。
あの男の事はよく知っている。フェルディ・イグナーツだ。
マリアロス・イグナーツの弟。彼女がよく呼んでいた名前の一つ。
マリアロスは幸せを形にしたような女だった。港で弟と話をしている姿に惚れた。純粋な笑顔というものが、あれほど破壊力があると知らなかった。
潮風にさらされても尚、柔らかな髪。白い肌。太陽にきらめく瞳。少々胸は小さかったが、形は良さそうだった。
どれをとっても、最高に思えた。
海賊に囚われ、己に体を奪われた後は毎日泣き暮らしていたが、三月ほどたったある日、突然命を絶った。
最期は己にも微笑んでくれたが、どこか作り物めいていた。それもそうだろう。当たり前だ。
それでも、初めて見せた笑みが嬉しくて気を抜いてしまった。
そして彼女は、鎖を足につけたまま海に飛び込んだ。
あの国を手に入れることができれば、また彼女に会えるだろうか。馬鹿な考えであることは分かっている。だがそもそも海賊は奪うものだ。
だから、奪う。
国を、民を。あの女が生きていた全てを。
緑の鳥は彼方へ飛び去っていき、潮風が優しく頬を撫でた。




