女優と褒めたたえなさい
数年前に突如神殿内に現れた一人の迷い人は、少年だったという話だ。夕陽色の髪に落ち葉色の瞳。あどけない表情が印象的だと旅人は言った。
少年は何を言われても反応せず、言葉が通じていなかった。神殿は、彼を保護して育てているようだった。
フェルディが知り合った旅人は現在この王国にはおらず、別の国を旅しているらしい。迷い人の情報はそれだけで金になることもあり、旅人に酒を奢ったことが書かれていた。
「旅人が少年を見かけたのは4、5年前ですか・・・もう大人になっているかもしれませんね」
そもそも本当に子どもだったのだろうか。
百合も見た目から若くみられることがほとんどだ。この世界の住人から見て少年といって、実年齢がそうとは限らない。
なにより、気になることがあった。
「本当に言葉が通じないのかしら?」
「どういう意味ですか?」
百合はそこが一番気がかりだった。
「通じないフリをしていたとか?」
「百合は、言葉が最初から分かったのですか?」
久々に呼ばれた己の名に、百合はしばらくそうと気付かなかった。
やはり、どんな人間でも自分の名前を呼ばれるのは嬉しいらしい。百合の機嫌がみるみるうちに上昇する。
「・・・話せたわ。わたくしのような迷い人には、この世界で生き抜くためのいくつかの特典が付与されるみたいなの」
ひとつ。どの国の人間とも話せるだけの言語を。
ふたつ。なるべく死なないように神殿の近くに落とされること。
それ以上は人によって変わるらしい。付与される迷い人とそうでない迷い人が居るということだが、百合の場合はあるものを付与された。
思い出しても腹が立つもので、彼女は重いため息を隠そうとはしなかった。
「ところで、わたくしは今日一日ここにいればいいのかしら?」
「そうですね、フラジール殿が落ち着くまでは部屋から出ないでください。どうやったら彼をあんなに泣かせられるんですか」
「泣いたのはむしろ、あの無表情団長のせいだわ」
「・・・確認ですが、まさか酷いことを言ったり、苛めたり、脅したりなどという事実はありませんね?」
押し倒したし、バラすと脅した。
百合はそっと視線を逸らした。
「・・・ないわ」
「もう少し嘘をうまくついて頂きたかった」
はあ。なんてため息が頭上から落ちてきたと思った瞬間、ゼノンの姿が掻き消えた。
「盗み聞きとは悪趣味ですね、やはりアサシンがお似合いなのでは? というか、資料はどうなりましたか」
「いやはや。お二人の様子が気になりまして」
ゼノンが力任せに蹴破った扉が無残な姿に成り果て、傍には壁に背を貼りつけて冷や汗をかいているコラードがいた。彼が言う様に盗み聞いていたらしい。
「それにしても扉を蹴破るなんて随分と乱暴ですね。一応団長の自宅なんですが」
一応と言うあたり尊敬の念はない。
ゼノンはコラードの顔面すれすれに鼻先を近づけて問うた。
「どこから聞いていたんですか」
「・・・だってあなた、彼が嫌いでしょう? ってとこからです」
ほぼ最初からということになる。ゼノンは驚いた。ここまで他人の気配に気づかないなんて、彼に限っては有り得ない事態だ。
「コラード・エステ殿。もし彼女の名を外で呼べば、問答無用で神殿に入ることになりますよ。もちろん、人に話しても同じ結果になります」
腰のナイフをそっと抜いたゼノンに、コラードがぎょっとして目を見開く。
「・・・いやだいやだ。呼ぶわけないじゃないですか。ああもちろん、情報を売ったりしませんから安心してください。ナイフは仕舞いましょうね」
寿命が縮まるほどの緊張感が彼を包んでいた。
彼が恐怖する対象はナイフを仕舞ったゼノンではなくて、その後ろにあった。
ゼノンには見えていないが、彼の後ろ、少し離れたその先に立っている美しい女が、まるで作り物めいた笑みを浮かべて立っている。
その笑みの裏では、どうやって口封じしてやろうと企んでいるように見えた。
目が笑っていない。闇を形にしたような黒い瞳が己だけを真っ直ぐに見ている。ごくりと喉が動いた。己の喉だ。それだけハッキリ見えた。
女が近づいてくる。傷一つない細い指先が己の髪に触れた瞬間。
「・・・は?」
「確かにアサシンに向いているかもしれないけれど、あなたはやはり商人だわ」
損得で動く癖がついている。
囁くように言う笑う女の両脇に手をついていることが信じられなかった。
「何事だ、ゼノン」
フラジールが焦った様子で駆けてきた。後ろには家主が相変わらず無表情でついてくる。二人とも扉を見て動きを止めた。
「コラード殿が“誤って”プリーティアを押し倒してしまいまして。少々成敗しようかと」
コラードは状況を整理しようと努めた。
己は現在四つん這いになっているようだ。己の下には愛らしい顔の迷い人。先程までの恐怖をあおる存在ではなくなっており、まるで怯えたように肩を縮ませ震えている。
フラジールも彼女の怯えようを見て、信じてしまった。
先程己も同じ目にあったというのに。
「副団長の教育を誤ったようですな」
「・・・エステ。立て」
まるで氷の上に素足で立つような身震いをし、彼は光の速さで立ち上がった。
「来い」
短い命令だったが有無を言わせぬ迫力があった。




