誰です、いい年をして迷子ですか
水辺の大きな岩の前で跪いて美しい女の“足の爪”を真剣に整える男を見た時、西方騎士団副団長フラジール・アンドレ43歳は己の見たものを信じられず固まってしまった。
焦げ茶色の短髪に同じ色の瞳。西方騎士団を示す青と黄色の制服。大きな剣を二本も腰から下げ、足はしっかりとブーツで守っている。渋いおじさまという感じの男は、生まれが侯爵家の三男であるためか、とても品があった。
ただし、現在はその瞳がこぼれんばかりに見開かれているが。
見たことのあるプリーストは確か一年前に戦場で見えた相手だ。特徴的で力強い瞳をよく覚えていた。誰よりも雄々しい男で、騎士と言うよりは戦士だった。その強気な性格が剣に現れていて、彼を部下にできないことを悔しく思った程だった。
戦場で死んだと聞いていたけれど、はて他人の空似か? いや、そんなわけがない。しかしあの男は間違っても女に跪くタイプではなかったはずだ。
それとも隠れた性癖でもあるのだろうか。
「騎士が迷子・・・ふふ、大変ね」
女の声は楽しげで、優しかった。
部下の殆どが彼女に見入っている中、フラジールだけが男を凝視していた。
「ゼノン、あなたを知っているようよ。お友達かしら?」
鈴のような軽やかな声。部下の一人が固唾を飲み込んだのが分かった。
「・・・終わりました」
「ありがとう」
ゼノンはゆっくりと立ち上がり、少しだけわずらわしそうにフラジールを見た。
二人の距離は数メートル。
「・・・誰です、いい年をして迷子ですか」
ゼノンは持っていたナイフをしまって淡々と言う。邪魔しやがってと本末転倒なことを考えていた。
「私は西方騎士団副団長フラジール・アンドレ。ここは西方を守護するエメランティス神殿が存在する山だな?」
エメランティス神殿には外部から悪意を持ってやってくる全ての存在から守られる特殊な結界があった。時折間違って人を入れることがあるが、そういう時はゼノンのような存在が適切に対処する決まりだ。
が、ゼノンはフラジールやその部下を見たまま動かない。
「迷子の迷子のフラジール。あなたは神殿になんの御用かしら?」
歌うように言うと、惜しげもなく白い足を組んだ。
フラジールの部下がまたごくりと・・・いや、それは問題ではない。
なんだろう、迷子の迷子のとは、まるで子供のような扱いだ。
「神殿に居るプリーティアの中で、医術の心得があるものがいると聞く。そのものに助力を願いに来たのだ」
「・・・ここにいるプリーティアは俗世と交わることはないわ」
「むろん、礼はする」
女は柔らかな笑みを浮かべてフラジールを見やる。
「・・・なぜ、助力が必要なのかしら? 騎士団にも医師はいるのでしょう? ここにいるのは医師の勉強などしたことのないものばかりよ。どうやって役に立つというのかしら?」
フラジールはそこで初めて、女が自分を警戒していることに気付いた。柔らかな笑みは見せかけだ。そして、女が命じれば浅黒い肌の男が自分たちに刃物を向けることがわかった。
「この神殿には迷い人がいるのだろう。知識を借りたい」
女がわずかに首を傾げた。
「名は?」
「わからぬが、とても美しい女だと・・・・ん?」
全員が彼女を見た。
「貴殿が迷い人か?」
「まあ、うふふ。迷子はあなたのほうだと思うけれど」
迷子ではない。仕事だと男は言う。
「本当に助けを求めているのならば、神殿に直接たどり着けるわ。けれどあなたはここに来た。あなたは助けられることを迷っている。だから、迷子よ」
それは神殿の結界がもたらすことだった。フラジールは困ったような顔で娘ぐらいの年齢の女を見た。
「今街では奇妙な病が流行っている。奇妙と言っても咳が止まらぬだけで風邪の症状と似ておるのだ。もう一月も咳が止まらぬようだ」
ふと、女は一瞬だけ笑みを消した。しかしすぐにまた警戒の笑みを浮かべる。
「それで?」
「錬金術師に聞くと不治の病と言われた。症状を緩和することならできると薬を出されたがあまり効果がない。他にも、病に罹るのは子供や老人ばかりでなく、若いものも多い」
知恵を借りたいと、真剣な瞳が言う。
「あなたは西方騎士団の副団長という地位にいる。王都に救援を頼むこともできたのではなくて?」
「・・・出来ぬ。いや、できなかった。そんな場所に数少ない王都の優秀な医師団を派遣することは出来ぬとな。さいわい、死者はまだほとんど出ていない」
それは見殺しにすることと同じだったが、正式な回答であるならば仕方がない。
女はじっとフラジールを見つめ、そうしてふっとまた笑った。
「いらっしゃい」
そう言うと立ち上がり歩き出した。
彼女の後ろをゼノンがついていく。その眼はついて来いと言っていたように見えてフラジール達は慌ててついていった。