食べることは生きることだ
ゼノンは隣国の騎士だった。無謀な作戦で使い捨てられるようにボロボロになり、仲間は全員死んでしまった。
祖国や上官に失望し、着の身着のまま流れ着いた国で見つけた美しい森の中。人とは思えない美しい女が裸体のまま彼を見ていた。
恐れない瞳が映し出したのは立っていることすら不思議な自分。全身から血液を流し絶望をまとい、怒りと悲しみと言いようのない孤独を発している、獣のような自分だった。
その時、彼は己が死んだのだと知った。
こんなに美しい女が人間のはずがない。きっと天上の世界に来てしまったのだろう。この女はそこに住まう天上人に違いない。
ゼノンはそこで初めて膝をついた。全身から流れ出た血液のせいでもう立ち上がれそうにない。それでもよかった。
女は音もなく彼の傍にそっと膝をつき、白い指先で浅黒い頬をそっと撫でた。
「おまえは、どうしたい?」
質問の意味はわからなかった。こんな怪我で生きているはずはないのだから。
「どうなりたい?」
わからない。ゼノンは力なく首を横に振ることしかできない。しかしそうすると白い肌に赤黒い血が付着して、悪いことをしている気分になった。慌てて手を退かせようとするが、触れた手は柔らかくひんやりとした。
これは触れてはならないものだ。穢してしまう。
ゼノンは生まれてはじめて自分を恥ずかしく思った。それまで恥と言えるのは敵に負けることだけだと思っていたのに、そんなものが酷く滑稽でちっぽけに思えた。
「俺は・・・もう・・・疲れた」
女はそっと、ゼノンの頭を抱え込んだ。柔らかな絹のような髪がゼノンの頬を撫で、豊満な乳房が耳をくすぐった。
それなのに、ゼノンは男として反応しないばかりか、神聖なものに触れていると思った。
ああ、このまま深い眠りに落ちてしまいたい。この美しく神聖な女に抱かれていたい。
そう思ったことが理由なのか、たんに体力の限界がとうに超えていた為か、ゼノンはそのまま意識を失った。
次に目を覚ました時、女は傍に居なかった。
神殿に保護されたと気付いたのは、丁寧に手当てした自分の身体を見た時だ。年老いたプリーストが心配そうに見つめていた。
「・・・ここは」
「西のエメランティス神殿だ」
「なぜ・・・助かった?」
「そなたを助けたのはプリーティアだよ。運が良かったね、他のものなら手当もできずそなたを死なせていただろう」
プリーティアは、この国だけがそう呼ぶ女神官の事だ。
「彼女は・・・人だったのか?」
「ほほ! そうさな、誰もが一度はそう言うの」
人のよさそうなプリーストが楽しげに笑う。
「どれ、目を覚ましたのなら何か食べなされ。今持って来よう」
食べることは生きることだ。今の彼に生きる理由はなかった。
ゼノンはわずかに首を横に振った。
「疲れた」
生きることに。
できるなら彼女に抱かれたまま死にたかったのに。
「ならぬよ、プリーティアはそなたを助けた。そなたに生きて欲しいと願ったのだろう」
なぜ、そんなことを?
考えても仕方がないと、今度は小さく頷いた。
「・・・会えるか?」
「プリーティアにか? ふむ・・・ああ、あえるとも。彼女は毎日そなたの傍に来ておるよ」
手当のために。そう言われて丁寧に巻かれた包帯をもう一度見た。
「あれだけの傷だったのに」
「彼女は特別じゃよ」
にこにこと人の良い笑みを浮かべたまま、プリーストは部屋を出て行った。
小さなテーブルと、ゼノンが寝ているベッドしかない簡素な部屋。テーブルの上には一冊の聖典と一輪の花が置いてあった。椅子すらない部屋でプリーストはどうやって本を読んでいたのか。まさか怪我人のベッドを椅子代わりにしていないよなと、どうでも良いことを考えていた。
戻ってきたプリーストは美味しそうなスープと焼きたての柔らかなパンを抱えていた。スープには何も具が入っていなかったが、黄金色に輝くそれはなぜか、たくさんの野菜の味がした。
「何日も寝込んでいたからね、形のあるものはもう少し元気になってからじゃよ」
そう言われたが正直どうでもよかった。早く女に会いたかった。
しかし、彼が女の姿を見たのは、それから何日もしてからだった。