外伝 7 アルバニアとの別れ(前編)
百合が眠っている間の物語開幕です。
まずはバッカス・メイフィールドのお話から。
エリオン王国の第一王女にして水の女王であるアルバニア・ファウスタ・エンリチェッタは、二十歳を目前に他界した。
水不足を解消するために、己の命を犠牲にして雨を呼び続けた彼女を、多くの人が悼んだ。
アルバニアを力不足と責める国民は決して少なくなかったが、それでも彼女の死は多くの人々を悲しませた。
それは、最後に深く彼女に関わった迷い人、バッカス・メイフィールドもその一人であった。
最後に会ったのは、百合が消えた後、急いでエンリオ王国へ戻った時だった。
ホッとしたように微笑んだ彼女の細い体は、以前よりも細くなり、己の力で立つことすらできなくなっていた。
バッカスは強い衝撃を受けたが、それでも目の前の弱弱しい女性に笑ってほしくて、いつも通り爽やかな笑顔を浮かべた。
「だだいま、王女さま」
「おかえりなさい、バッカス・メイフィールド」
たとえ己の足で立てなくなっていても、その声は彼女の強さを表していた。
変わらず淡々とした口調だったが、その瞳はとても穏やかだった。
頬はこけ、目はくぼみ、二十歳になろうかという女にはとうてい見えなかったが、それでも彼女には凛とした美しさがあった。
「此度の活躍、本当に感謝しておる」
「僕は、やれることをやっただけだよ」
「何を言うか。そなたがおらねば、わらわはここまで来られなかった。まことに、感謝しておるのだ」
バッカスは苦笑した。
そっと彼女の前に膝をつき、ゆっくりと、優しく手を取った。
まるで今にも折れてしまいそうな細い手には力が入っていない。両手で包み込んで、それから迷うことなくリップ音を響かせる。
「あなたがここまで来たのは、あなたがこの国を愛しているから。僕にはもう、帰る故郷はないけど。でも、この国に来てあなたに出会って、僕も・・・」
「・・・帰るのか、あの国へ」
瞳は雄弁だ。お喋りが上手ではないアルバニアのそれは、とても寂しげに揺れた。
「今はまだ。もう少しあなたの傍にいたいんだ。いっぱい旅をして疲れたし、少し休ませてほしいな」
にこりと笑った顔は、いつか見た黒髪の女と同じような優しい顔だった。
「ああ、わらわも、そなたの話が聞きたい」
二人はその後、少しずつ、けれどたくさんの話をした。
アルバニアの体では長時間の会話に耐えられなかったが、それでも出来る限り二人はそばにいた。
その様子は、城で働く人々に大きな安らぎを与えた。
アルバニアの楽しげな姿を久しく見ていなかった人々は、二人の邪魔をせず静かに見守った。
別れはあっけなく訪れた。
ある朝メイドがアルバニアの部屋へ訪れると、彼女は眠るように息を止めていた。
バッカスが彼女と最期の体面を果たしたのは、メイドが気付いてから一刻は経っていた。
お別れも満足にできなかったと、悲しげに呟いた少年の言葉に、誰もが目を逸らした。
一国の王が死去したのだ。他国の者がこうも簡単に面会できる現状のほうがおかしい。それでも、二人の間に流れる暖かく優しい空気を知っていた者たちは、罪悪感で胸が苦しくなった。
バッカスはしばらく彼女の亡骸を見つめた。
まだ眠っているようだ。本当に死んでいるのだろうか。
思い立った瞬間、彼はアルバニアの額に口付を落としていた。
死後硬直が始まっており、ところどころ異質な感触がした。けれど全身まではいっていない。通常、死後半日ほどで全身に及ぶので、あと数時間もすればもっと固くなるのだろう。
これが、人が死ぬということなのだ。
「お疲れ様、王女さま。よく頑張ったね」
たった一人でこの国を守ろうとしたアルバニア。どれほどの重圧だっただろうか。まだ二十歳にもなれず、彼女は旅立ってしまった。失われたはずの魔法がいまだ根付くかつての大国。一人の犠牲の上で生き延びた国。
バッカスは大切な友人を失ってしまった。
それでも、ここまで頑張った彼女を労わらずにはいられなかった。きっと百合ならこうするだろうという思いもあった。
再度口付を落とす。ちゅっとリップ音を響かせれば、部屋のそこかしこからすすり泣く声が聞こえた。




