美しい花
酷い雨の日だった。
弟が“素直になった”日から十日ほど経った頃。兄は悩みを抱えていた。
悩みの原因は弟の嫁に泣きつかれたことだ。
いわく「わたくしを他の女と勘違いしている!」そうだ。特殊な薬を使った副作用かもしれない。怪しい連中から買った薬だったが、何人かの奴隷で実験を重ね、使えると思ったのに大きな誤算だった。
弟は呆れるぐらい真剣な瞳で花嫁を口説いていた。正しくは花嫁を誰かに見立ててだ。しかし何故か手は出さない。愛を囁きながらわずかも触れないのだ。
あれでは子どもも作れないだろう。
しかも何を考えているのか、花嫁の手足の爪を整えようと跪いたらしい。あまりの変貌にショックを受けて、花嫁は寝込んでしまった。
貴族の男が跪くのは王の前だけだ。妻や恋人、家族に跪くなど言語道断。有り得ない事態だ。もしそんな所をよその人間に見られたら不敬を疑われてしまう。そんな疑いを駆けられたら一族全てが処刑される恐れもあるのだ。
断じて見られてはいけない。だのに。
「貴様は何をしている」
「あの方の好みそうな花を整えています」
薬が効いている間は腕の鎖を外していたが、それにしても花瓶と花がこうも似合わないとは。
「好みを聞いたのか」
「聞く必要はありません。“知っています”」
それは誰の好みだ。喉の奥で、しかし疑問を口にすることはない。
「愛しているのか」
いつわりの花嫁を。
「愛?」
初めて弟は兄を瞳に映した。しかし映しただけだ。見てはいない。
「そんな言葉で彼女を語りたくはありません」
「では、なんだ」
カサ、と葉が音を立てた。
「全てです」
静かだが、どこか重たさを含んだ声だった。
「貴様の全てはティーダ家に捧げよ」
「はて、兄上は何を言っているのか・・・ティーダはあなたのものです。俺ではない」
「貴様は私の弟だ。私を支え、ティーダを支えよ。そのための花嫁だろう」
ふと、弟は花から手を離した。
「俺の全てはあの方のものです。そして、あの方が俺のものになる時などこない」
「貴様の花嫁だ!」
「俺は・・・」
ふるっと、一度だけ首を横に振った。
「さっさと孕ませろ。子どもでも出来れば貴様も意識が変わるだろう」
「・・・」
部屋を出る兄に、弟は何も言わなかった。部屋の外には数人の使用人と、槍を持った私兵が立っていた。
「なんだ、あの気持ち悪い男は」
使用人たちは主の呟きに、そろって視線を落とした。あなたの弟だとは、誰も言えなかった。イラついた様子を隠すこともなく足音を立てる主を不信がりつつも、誰一人口を開けず後をついていく。
「ゼベリウスの、あの国での状況をもう一度詳しく調べてこい。なんなんだ、あの変貌ぶりは。本当に洗脳されていたんじゃないのか?!」
二人の使用人がそっと頭を下げて列から離れた。
その三日後、揃って戻った使用人たちは一人の女の絵姿とともに情報を持ち返った。
「なんだ、この女は」
「迷い人です。現在はプリーティアとして活動しています。美しいうえに、西の奇病を治めたこともあり、麗しのプリーティアと呼ばれています」
使用人の一人は震える声で報告する。この国で美しいのは浅黒い肌の人間だ。決して白い肌ではない。
「迷い人など、ただの奴隷ではないか」
「ですが、その瞳は黒曜石のように輝く黒と。我らが神と同じ色でございます。ゼベリウス様もそこに惹かれたのではないかと」
ユゼリウスはその言葉を受けてしばらく考えた。
「この迷い人をもっと調べろ。奴が変貌した理由はきっとここにあるはずだ」
「はっ」
二人は小さな声で返事をした。その瞬間、互いの目を見やる。震えていたはずの使用人が、にやりと笑った。
「ゼベリウス様、お食事をお持ちしました」
朝になると使用人が食事を運ぶ。足に鎖をつけられたゼノンにほだされないよう、毎日別の使用人が運ぶ決まりだ。
その日も、前日までとは違う顔だった。ただし初めての顔ではない。すでに何度も見た顔だ。右手に食事を乗せたトレーを持ち、左手に水差しを持った使用人は、部屋の外から閉められた扉をちらりと確認する。
ゼノンは返事もせず窓の外の鉄格子を見ていた。
「ゼベリウス様、少しでもお召し上がりください。お水はこちらに置かせて頂きます」
そう言いながら使用人は、素早い動きでやるべきことをやった後、音もなくゼノンに近づいた。
「さあ、お食べ下さい」
トレーは離れた場所にあるのに、近づいてくる使用人に怪訝な顔を向ける。
「・・・」
使用人は胸元から一枚の紙と、折り畳み式のナイフを取り出した。枕の下にナイフを強引に隠す。
「こちらの花は今朝咲いたのですよ。如何です、ゼベリウス様」
にやりと笑った顔を、ゼノンはもう一度よく見た。そして、相手の持つ紙を見つめた。
「・・・ああ、美しい花だ」
晴れやかな、そしてとても穏やかな笑みを浮かべて彼はそう呟いた。




