あなたを呼ぶのは、この俺だけでいいのに
百合が目を覚ましたのは見慣れた水辺だった。衣服は一切身につけていない。誰も傍にはおらず、あるのは穏やかな日差しと水の音。小鳥たちの戯れる声に、さわさわと音を奏でる草木。見上げた空は暖かな青。心地の良い時間だ。
ああ、返って来たのか。
指先は動いた。わずかに身じろぎすれば、しかし体中が悲鳴を上げるようにギシギシと痛んだ。水を含んだ黒髪が重い。
「ゼノン?」
上手く発音できなかった。それどころか喉が乾燥していて咳込んでしまう。
「百合、大丈夫ですか」
少し離れた場所から呼ばれ、顔を上げるが相手は居ない。
「ゼノン?」
「今あなたの中にある神々の加護を強化しています。近付くことはできません」
「すべて、終わったの?」
「はい。現在あの錬金術師は捕縛され王都に移送中です。フェルディ一行は航海に出て、セスは報告のため早馬で単身王都へ戻りました」
淡々とした声の中に、どこか不満そうな響きがあった。
何が気に入らないのかは知らないが、百合にはそれがなんだか面白かった。水の中に横たわった体が可笑しくて震えた。
「あなた、人らしくなってきたわね。初めて会った頃は獣のように警戒心が強くて、本能のままに動いていたのに」
「・・・もともと人間です」
「そうね、そうよね」
「百合は、少し変わりました」
声が僅かに近づいたがそれ以上は進む気がないのか、一定の距離で止まっている。
「そうかしら?」
「初めて会ったとき、あまりの神々しさに私は死んだのだと思いました。けれど今のあなたはただの人間だ」
そう、百合もゼノンも、多少人とは違うけれど人間なのだ。
「そうよ。わたくしは、ただの人」
だんだんと瞼が重くなってきて、百合はまたそっと瞳を閉じた。
「なぜフェルディに名を教えたのですか」
返事はない。
「百合?」
しばらく待って、そしてゼノンは静かに息を吐き出した。
「あなたを呼ぶのは、この俺だけでいいのに」
誰にも言えない本音だった。
月が真上に差し掛かる頃。騎士団の食堂は大いに盛り上がっていた。
「だーかーら! あの女のどこがいいって!?」
かたや半裸の男が顔を赤らめつつエールを煽り怒鳴りつけるような質問をすれば、
「だーかーら! 彼女はあんなんでもこの街を救ってくれたんだから、信者が多いのは当然だろう!?」
もう一人、金の髪にエメラルドの瞳を持つ男が怒鳴り返す。その手にはワインの瓶が握られている。
「だいたい、なんで服を着ていないんだ! 前は着ていただろう!」
「南は暑いんだよ!」
「ここは西だ! もうすぐ雪の季節だぞ!?」
「あーもー! 別にいいだろうが、それよりあの女まだ目覚めないのかよ!」
「知るか! いいから服を着ろ、見ている方が寒い!」
「お前も脱いでみろ。お前のような若造のひょろひょろじゃあ、俺には敵わないだろうがよ!」
つい四半刻前まではお互いなごやかに夕食を楽しんでいたはずなのに、いつの間にか酔っ払い同士の喧嘩一歩手前までいってしまった現状に、西方騎士団副団長のフラジール・アンドレは一人食堂を出て遠い目をして夜空を見上げていた。
本来ならば歓迎のつもりで場を提供していたはずなのに、誰かが持ち込んだ酒のせいで宴会場となり果てている。当番制で見張りをしている騎士たちからの視線に殺意のようなものが混じっているのは、絶対に気のせいではない。
「副団長。いかが致しますか、うちの団長脱ぎ始めましたよ」
いくら酒を飲んでも酔わない体質の部下が、けろっとした顔で問うてきた。
「体調でも崩せば互いに愚かな行為だったと反省するさ」
フラジールはあの暑苦しい連中が苦手だったので近づきたくもなあかった。しかし彼らは西の街・ヴェステンの宝とも言える麗しのプリーティアを連れ帰ってくれた恩人でもある。連れ帰るさいに騎士団の船を使用したせいで、報告書を作成しなければならないがプリーティアは眠ったまま。主の許可なくべらべら喋るタイプではないゼノンは黙秘を続け、不用意に彼女に近寄ろうものなら居殺さんばかりの視線で睨んできた。思い出すだけでも胃が痛い。
「はあ」
「・・・ところで副長、聞きましたか?」
「なんだ?」
「なんでもあの、ゼノンとかいうプリースト、隣国では有名人らしいですよ」
「ほう」
「実家が血眼になって探しているとか」
「ほう」
ただでさえ、ゼノンの顔を思い出すだけで胃痛に苦しめられているというのに、酷い部下である。フラジールはうろんな顔で相手を見た。
「実はそれっぽい男がいると、前から噂にはなっていたそうです。で、勝手に侵入されているとかいないとか」
「なんだそれは。大変じゃないか」
本当だったら。と二人は笑った。笑いながら、いやあの国の人間なら他国へ侵入とか簡単にやりそう。うん、やるよね。やらないほうがおかしいよね。あれ、結構やばくない?
「どこの筋の情報だ」
いつの間にかフラジールは真剣な表情をしていた。
「南の連中が酒を飲みながら言っていました」
部下も真面目な顔をして答えた。
「もっと詳しく聞いてきなさい」
「相手が酔いつぶれたので聞き出せませんでした。樽二つで酔うなんて、南の男たちは軟弱ですね」
ワイン樽を二つも飲ませておいてケロッとしている部下を、フラジールは初めて怖いと思った。
三日後は雨が降った。しとしとと土を潤わす雨が止む頃、神殿から連絡が入る。ゼノンが失踪したという驚愕の連絡だった。




