そして、男は現れた。
崖の下ぎりぎりに停泊しているマーレ号は、近づいてくる黒い物体から見えない位置にあった。少しでも下手に動けば船体を傷付けてしまう状況で、それでも全神経を注いで操舵用のハンドルを握る男や、見張り台から遠くを見つめる男。太い縄を担いで走り回る男もいる。本来なら数十人で動かす船を、現在はほんの数名で動かしている。船長はであるフェルディは陸の上だというのに、彼らの行動に乱れや迷いはなく、やるべきことは全てわかっているようだ。
「姫さん。安心してください、フェルディさんたちは無事ですから」
百合とセスの護衛として指名されたガスという男は、日焼けしたスキンヘッドに白い麻のシャツ。黒い細身のパンツに、水色で、白いレースたっぷりのエプロンを装着している。
おかしい。陸の上ではまともに見えたはずの男が、今は残念感半端ない存在と化している。ちなみに彼の手には何故か太い麺棒が握られている。
「・・・何か、食べるものを作るのかしら?」
「私はコックですので。これは私の武器なんです」
意味が分からない。近くで聞いていたセスは思い切り顔をしかめるが、ガスは爽やかな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「銃剣はどうにも手加減してしまって、フェルディさんに怒られるんですが、こちらなら思い切りやれますので」
麺棒の中には鉄が仕込んであると笑顔で教えてくれた。
「・・・そうなの、強そうね」
「はい。人の頭なら簡単につぶせますよ」
「・・・頼もしいわね」
フェルディはまともだと思っていたが、ガルテリオにしろ、ガスにしろ、変わった部下を面倒見ている彼も相当変わっているのかもしれないと認識を改めた。
「フェルディさんにはお姉さんがいたんです。ご存知ですか?」
「いいえ、知らないわ」
「奴らが到着するまでまだ時間はあります。少し、昔話を聞いていただけますか?」
ガスは、水色のエプロンを靡かせつつ、とても真剣な表情で二人に向き合った。
目視でもハッキリ黒い船が見えた頃。火薬の臭いが辺りを包んだ。
「えらく、つまらない船ですね」
「怖いのか?」
ゼノンの呟きに、フェルディがふっと挑発的な笑みを浮かべた。その顔を見てゼノンが思い切り眉をひそめた。
「誰です、あなたを紳士だと言ったのは。十分海賊だ」
「そうだよ。僕らは海賊だ。そういえば、薬を作っていた錬金術師はどうなったんだ?」
「彼女に、不用意に触った下種ならば、現在地下牢でお休み頂いております」
縄で簀巻きにして、口には猿轡を噛ませて地下牢に放置してきたことを思い出しながら、彼は淡々と報告した。
「そうだ。彼女の事だけど、これが終わったら本気で口説くことにしたから」
「ほう、寝言は寝てからほざいていただけますか」
「はは、君もね」
ゆっくりと巨大な船が音を立てて停泊した。車などと違いブレーキのない船は舵の向きを変えて方向転換する。野太い声が近づくと、笑みを浮かべて話していたフェルディや、不機嫌全開のゼノンが目を細め、すっと剣を抜いた。
その様子に、後ろで見ていた部下たちがため息を飲み込む。
二人のまわりだけ温度がかなり低いのだ。その怒りをどうか敵に向けて欲しい。
「口説く前にアファナーシー・ニキータを倒していただけるんですよね。ああ、なんならお手伝いしますよ。お坊ちゃんには難しいようですからね」
「気遣い感謝する。だけど、貴族の若様の手を煩わせるほどの相手じゃないよ」
「よく言いますね、今まで何度取り逃がしてきたんです。あなたはずいぶんと甘いようだ」
「そうかもしれないね。だけど今日は違う」
崖を登ってきた海賊たちがギョッとして剣を抜いた。完全に日が沈みきるまでおよそ十分。わずかに光が剣に反射した瞬間、音もなく二人が駆け出した。
右手に借りた剣を握り、左手に己の短剣を構えたゼノンは、相手の喉元に狙いを定め切り込む。わずかに相手が避けたが、避けきれずたたらをふんだ。
悲鳴をあげることもできず絶命した相手を、ゼノンは崖下に蹴り落とす。
「そんな姿を彼女が見たら嫌われるんじゃないか? 思っていたより綺麗な戦い方じゃないね」
「はっ。私は、今は彼女のものです。貴族の身分などとうにありませんからね。戦いは勝てばいいんです・・・っよ!」
事態に気付いた他の海賊たちが慌てた様に駆け上がるが、急な崖を無理して上がってきたせいで体制が取れず、ゼノンの一蹴りで何人も海へ落ちていく。
「そもそもなんで彼女の傍にいるんだ。この国の人間じゃないくせに!」
フェルディも剣で敵の肩や頭を切り刻み遠慮なく海に落としている。部下たちも遅れぬよう必死で敵を落としていくが、すぐに敵の数が異常に多いことに気付いた。
「フェルディさん、奴が上がってきます!」
「わかってる! 手下たちは切ってから落とせよ、今日の波では落ちただけじゃ死なないからな」
余裕の笑みで言うフェルディの横顔に、ゼノンはふと百合を思い出した。
「いまいましいですね」
「は?」
「どうしてか、あなたを見ていると彼女を思い出します。全然似ていないのに」
呟きは、彼の耳には届かなかった。
神殿に松明の明かりがともる。夜の海からは不気味な海賊たちがぞろぞろと上がって来ていた。もう何人も海に落としたのに、まるで永遠に続かと思われるほど、大量の人数が上がってくる。
その頃には、一人一人海に落とすこともできなくなり、仕方なくじりじりと後退する。だがこれ以上進めさせるわけにはいかない。万が一にも神殿に踏み込ませるわけにはいかないのだ。もし籠城されたら形勢はいっきに不利になる。
火薬と、血の臭いがあたりを包んだ。鈍くぶつかる音や、何かがこすれる音がいたる所から聞こえる。マーレ号の海賊たちは大きな声を出して相手を威嚇しながら突進していく。
右手に剣を、左手に銃を持ち、敵を確実に仕留めていく。パン、パン、と乾いた銃声が幾度も鳴り響く。
だが、依然として敵の数は減らない。悔しさと焦りが、いつのまにか彼らの中にあった。
そして、男は現れた。
「よう、坊主。またあったな」
浅黒い肌に黒い長髪。燃えるような赤い瞳をもった男、アファナーシー・ニキータその人だった。




