この時は、そう信じていた。
セスが来たのは本当にタイミングが悪かった。
西の街で工場を作った錬金術師が神殿に滞在していたのだ。神殿のある崖の下で採取される花には不思議な効果があった。特殊な作業をすると、特別な薬として高く売れるのだ。
美しい淡い水色の花。小さな花弁がたくさんついたそれは、今では街で人気の守りとして売られている。だがその花の根には少し変わった毒があった。
乾燥させて粉にする。粉を水に混ぜて飲めば、飲んだ人物の意識を思いのままに操れるのだ。昔から一部の貴族たちの間で使われていた薬だ。主に婚姻を拒む娘に飲ませ相手に嫁がせるのだ。だが薬の効果はあまり長くなく、婚姻式の朝に解けて逃げ出そうとして捕まり、不義の罪で拘束される貴族の娘が何人も出たため、使用は禁止された。
主にその薬を作っていたのは神殿だ。
当時の神殿長は、娘たちが嫌な思いをしないように、ただただ善意でやっていた。だが彼女たちが錯乱しながらも必死で逃げる姿を見て考えを改めた。それ以降は神殿もしばらく花を採取することをやめた。
だが数年前、アファナーシー・ニキータがやってきた。
薬の噂を聞きつけた彼は、金と暴力でプリーストたちを脅し、年寄りばかりの彼らは従うしかなかった。
アファナーシー・ニキータは効率よく薬を手に入れるために、改良できる人物を探した。その頃王都で日の出をみず、ただ毎日を自堕落に過ごしていた錬金術師だ。
金を渡して適当な女を紹介すれば、彼はなんでもいう事を聞いた。そのうち、自ら研究目的で工場を花の街に建設し、人々を雇い、更に薬の効果を見つけることに成功した。
街の中で薬を使うと目立ってしまうので、わざわざ東の街オステンまで薬を運ぶ徹底ぶりだ。
しかしそんな日々も長くは続かなかった。
西の街で奇病が流行りだしたのだ。錬金術師はいつでも逃げられるように準備していた。そして、あの日がやってきたのだ。
彼は国内を転々としながらも、あれ以上の効果が出るよう画策していた。だがやはり研究施設である工場を失ったのは大きかった。研究は思ったより進まず、仕方なく北までやってきた。プリーストを脅すのは簡単だった。彼らは乏しい表情の中に、ほんのわずかな拒絶を写しつつ、それでも従った。
セス・ウィングがやってきたのは誤算だった。偶然街に来ていた商人から話を聞いた錬金術師長が調査目的で彼を遣わしたのだ。セスはとても優秀で、若く見えるが二十歳も超えた立派な大人だ。頭も良く行動力もある。更に、西の街の奇病を治したことでも有名だった。
天才錬金術師の名を欲しいままにしているセス・ウィングが、まさか現れるなんて。
男は慌ててプリーストにセスを捕まえるよう命令した。しかし簡単に殺すことは出来ない。もしセスが協力してくれたらもっと強力な薬を作ることが出来るのだ。殺すには惜しい人物だった。
だがここで誤算が生じる。
地下牢の中に放り込まれたはずのセスが、放り込まれた途端眠り続けたのだ。まさかプリーストが薬でも盛ったのかと聞けば全員が否定した。
ただ寝ているだけのようだと。
冷静に考えてこの状況で間抜けな顔をさらして眠れる程、神経の図太い奴だとは思わなかった。
男は何度も足を運んだが、その度に彼は爆睡していた。これでは話も出来ない。
牢の扉を開けて起そうかとも思ったが、男は己が牢に、一瞬でも足を踏み入れるのは絶対に嫌だった。
そして今日もセスと話をするために廊下を歩く。明日の晩にはアファナーシー・ニキータがやって来る。それまでに説得できなければせっかくの協力者を失うことになってしまうのだ。アファナーシー・ニキータは恐ろしい相手だ。セスなど簡単に殺してしまうだろう。それは避けなければならない。
そう考えていた男は、ついうっかり当たり前のように薄暗い神殿の廊下を歩いたがために、出会ってしまった。
「あら?」
鈴を転がして人の声にしたらきっと、こんな声だと思うようなそれ。白い肌に桜色の唇。整った眉に高すぎず低すぎない鼻。夜色の瞳と、絹のような黒い髪を靡かせた女。
「こんにちは」
しなやかに伸びる腕。指先は荒れることもなく、淡い花を想像させる爪。胸元には見慣れた水色の花を模したネックレス。
なんだ、これは。男は目を見開いた。
「あなたは、どちら様ですか? わたくしはプリーティア・ユーリ。お初にお目にかかりますわ」
穢れを知らない少女のような女。世界中の汚いモノから切り離されたような純粋な瞳がそこにはあった。
「こちらの方は神殿長のお客様です。さあ、参りましょう。プリーティア」
後ろに控えていたプリーストがそっと囁いた。
「まあ、そうですの」
プリーティアになるのは多くが貴族の子女たちだ。“世間知らずなお嬢様”はおっとり微笑んで、しずしずと横を通り過ぎようとした。
慌てて男が止める。
「ぷ、プリーティア!」
「はい、なんでしょう?」
彼女は驚くこともなく、彼を見上げた。ただまっすぐに、彼を見た。黒い瞳の中に吸い込まれそうだ。
「お時間ありますか」
「まあ・・・ええ、ありますわ」
「お、お茶でもご一緒にいかがですか」
年老いたプリーストが僅かに眉をひそめたが、何も言わなかった。それはそうだろう。彼はこの神殿の中ならどんな行動も許されるのだ。
この時は、そう信じていた。
「ええ、嬉しいわ」
まるで初恋をした少年のように、彼は彼女しか見えなかった。
彼女の胸元に揺れる花が、香ったような気がした。




