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現実からの逃避行(序)

作者: 千曲千明

 ――あれは忘れもしない、六月下旬。俺の誕生日を翌日に控えた蒸し暑い金曜日の朝だった。


「ショーゴ、おいっす」


 最寄り駅から二駅のところで電車に乗り込んできたのは、俺と同じ市立高校の制服に身を包んだ男。

 俺よりもやや背が低く、猫のような釣り目をした彼の名はミズキ。

 互いの父親が友人同士で、俺達自身も俺が小三のときにこっちに越して来の仲。

 いわゆる、幼馴染というヤツだ。


「おう、今日は間に合ったなぁ」


 吊り革に手を掛けたまま、片手を軽く上げて遅刻常習犯を労ってやる。

 彼はそれが不満だったようで、俺の右隣の吊り革に掴まると、上気して僅かに赤みを帯びた頬を膨らませてみせた。


「今日“は”て何や今日“は”て。信号引っ掛からんかったらこんなもんや」


「言うて今週、一勝四敗やんか。先発投手(ピッチャー)やったら二軍落とされてるで自分」


「ははっ、朝っぱらから手厳しいなぁ。……って、何やショーゴお前、元気無いやんか。ちゃあんと飯食うてんのか」


 ミズキは俺の指摘にたじたじといった様子から一転、細く整えられた眉をひそめ、いかにも心配しています、と言わんばかりにこちらを窺ってきた。


「んー、食うた。けど」


「けど?」


「昨日なぁ、お()んと喧嘩した」


 少しだけもったいぶってから、俺は打ち明けた。

 本当はもうしばらく、自分の中で整理する時間が欲しかったのだが仕方がない。

 同じ面倒事を押し付けるのであれば早い遅いの相違はないだろう。多分。


「またか」


 それを聞いたミズキはなんだか拍子抜けしたような、ほっとしたような中途半端な顔をした。


「またって言うけどなお前、昨日のは大分デカいで。もう取っ組み合いでお()ん真っ青や、へへっ」


 言いながら、少し笑みが零れる。ミズキも釣られて口許を緩めた。


「いやいや、何笑うてんの。お前当事者やろが」


「まあそうなんやけど、へへっ。何かもう、笑うしかない、みたいな?」


 俺はどうしても大学に進学したい。

 でも、俺に家業を継がせるつもりのお父んはそう思っていない。

 それで言い合いになる。

 卒業後の進路なんてまだ先の話だ、と思っていた頃はお母んと妹に仲裁されて終了。

 それで良かった。

 だが、高二の六月に差し掛かり、周りがやれ参考書だのやれ予備校だのと言い始めた今、本気で話をしないといけないと思った。

 してみたらあのザマだ。……はぁ、思い出しただけで腹が立つ。


「なぁ、ミズキ。今日泊めてくれや」


「はぁ?」


 本題を切り出すと、事態がそこまで逼迫しているとは思っていなかったらしく、間の抜けた声が返ってきた。

 無理もない。俺達の間では、俺対お父んの対決シリーズは週に二、三度は出てくる、言わばスタメン級の話題だ。

 だから、それしきのことで俺が思いつめているのがミズキには信じられないのだろう。


「いや、昨日の今日やん? 家、帰り辛いわ」


 とにかく今は俺が本気であることをアピールしなければならない。

 左手で吊り革を掴んだまま、右手だけで合掌のポーズを取ってみせる。

 無言を保ったままのミズキに向けて、さらに頭を下げた。


「頼むって」


「せやかて、お前なぁ」


「ほんま頼むわ。俺、今お父んの顔見たらまた殴り合いんなる。ほとぼり冷めるまででええから」


 手応えは芳しくなかったが、なおも必死に食い下がった。

 それでようやく只事ではないことを分かってもらえたのだろう。

 ミズキは諾とも否ともつかぬ曖昧な表情を貼り付けたまま、口を開いた。


「ほんなら尚更あかんやろ。ちょっと考えてみい。ショーゴの家出先言うたら百パー俺ん()やろ。んで、親父さんの性格考えてみい。間違えなく乗り込んで来るやろ。ほとぼり冷めるどころか、俺ん家で第二ラウンド始まってまうわドアホ」


 ミズキの言葉が容易に脳内で再現される。

 あの時代遅れでクソ頑固なお父んならやりかねない。

 口から相槌とため息を足して二で割ったような声が、力なく漏れた。


「……あぁ」


「せやからな。他んところに家出せえ、頭冷えるまでな」


「うん? 他て言うても――」


 無論、他に友達が居ない訳ではないが、アポ無しで泊まれる程仲の良い友達なんてお前以外に無いだろう。

 そう言いかけた俺を遮って、ミズキは言葉を続けた。


「遠くや」


「と、遠く?」


 意外な申し出に、今度は俺の声が浮ついた。


「せや。とにかく遠く、親父さんが来れんぐらいに遠くや」


「遠く言うても――」


 そろそろ駅が近づいてきたのだろう。

 電車が緩やかに減速をはじめ、ミズキの体がこちらへ傾いてくる。

 傾いた姿勢のまま、ミズキは声をワントーン落とし、囁くようにして言い放った。


「俺かてな、お前んこと応援したい。味方したい。お前とはお前が小三んときに越して来たときからの付き合いや。俺に任してくれ、ショーゴ」


 この低声は、年に一度聞けるかどうかのミズキが真剣な時のものだ。

 彼が真っ直ぐにこちらを見据えるのに気圧されて、思わず頷いた。


「お、おう……」


「なら決まりやな。善は急げや、早速行くで」


「えっ、ちょっ」


 ミズキが言い終わるのと同時に電車が完全に停まり、扉が開く。

 俺達の学校の最寄り駅にはまだ遠い。

 けれども、そこから半ば強引に押し出されるようにして、俺達は電車を降りた。

 つまり、これが俺史上最大の家出のプロローグという訳である。

(序)ですがこれで完結です。

お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 先が気になる作品でした。文章がとても丁寧で、ショーゴとミズキの仲の良さや、ちょっとした電車内の風景が手に取るように伝わってきました。 面白かったです。ありがとうございました(^^)
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