scene8 <稽古場・当日>
——「その呼び名はタウ十字架、またはT十字架だけではありません。時によっては、それは——」彼はちょっと言葉を切って、静かに言葉を結んだ——「エジプト十字架と呼ばれるのです」——
(“The Egyptian Cross Mystery” Ellery Queen)
scene8 <稽古場・当日>
北区の飛鳥山近くにある、劇団魔法九がよく使っているという稽古場に案内された。公民館のようなところの一階部分で、がらんとした作り、壁の一部には鏡が張られていた。警察署の会議室と同じような、事務机とパイプ椅子。そういえば、たまたま見たテレビで、有名な劇団なのかわからないが、事務机に座って台本の読み合わせをしていた。その中に入り込んだような気がして、奇妙な気分だ。宮園さんが暖房をつけてくれたけど、決して効きはよくない。多分、夏は暑くて冬は寒いんだろう。稽古場ってそういうものだ、という気がした。
乾きものと清酒、それから各々好きな酒を買い込んでの、ひっそりとしたお通夜になるはずだったが、僕以外の劇団の面々は、ひっきりなしにかかってくる電話やメールに応答していた。堂戸さんは相変わらず渋い声で。番田さんは早口で何を言ってるのかわからない。窓輪さんは泣きわめくように関西弁をまき散らす。蒼白な宮園さんも、気丈に振る舞っていた。所在ない僕は、一人だけ飲み始めるわけにもいかないので、携帯電話をいじっていると、今日の事件がネットニュースのトピックに上がっていることを知った。そうか、僕以外の人は、曲がりなりにも芸能人なのだ、とようやく気づいた。
根居部さんの簡単なプロフィールまで知ることができた。劇団魔法九の公式HPのリンクが張られており、ほとんどテレビドラマや映画を見ない僕でもタイトルは知っている作品に出演していることを知った。公式ではないにしろファンサイトが存在し、小劇団に対するアンチの意見も検索することができた。
同じ現実でも、遠い世界。不思議の国か、鏡の国か、それとも憂鬱の国か。昨日見た『憂鬱の国のアリス』という芝居が思い出された。から騒ぎばかりで言葉を弄ぶ憂鬱の国のままがいいのか、秩序を取り戻した現実のほうがいいのか、でも現実に秩序が存在するわけじゃない。
それでも、戻る場所は現実しかない。
「すまんな」長い電話を終えた反筆は、携帯電話の電源を落とした。「どの業界でも、噂話の足は速い」
「確かにね。こんな話を聞いたことがあるよ。プロしかいない空間でこそ、情報漏洩は行われやすい。10を聞いて1を知るのが素人なら、1を聞いて100を知るのがプロだから、ってね」
「なるほど、その通りだ。他の連中も、そろそろ納めるだろうから、先に始めようか」
プラスティックのコップに、清酒を注ぐ。日本酒なんて、生まれてこの方飲んだことがない。この年になっても、初めてのことがある、というのはありがたい話だ。先ほどいつもの儀式で服薬をしたので、本来はアルコールを控えたほうがいいのだけど、世の中はそんなルールだけでできているわけじゃない。
乾杯の言葉はもちろん、ない。ただ静かに、心の中で、杯を捧げた。
焼けるような熱さを舌に感じる。
「長い一日だったな……」反筆はタバコに火をつけた。「本当にすまない、こんなところまでつき合わせてしまって」
「いいんだよ、別に。絶対にできっこない、探偵役のお芝居もできたことだし」
「あれも、すまん……俺がやるべきだったんだろうが」
「いいんだって」
「……それにしても、どうしてあんなことを考えたんだろうな、俺たちは。よりによって、エラリー・クイーンだ。島田荘司や東野圭吾でもいいだろうに」
「僕らの偏った読書趣味のせいだよね。PTAが、現実とフィクションの区別がつかなくなるからって、焚書をしたくなる気持ちがわからないでもないよ。まさか、『チャイナ・オレンジの秘密』だもの」
「そうだな。それに、俺の場合は、自分が<アリスもの>をよく書いているせいもあるんだろう。『チャイナ・オレンジの秘密』はナンセンスだし、随所に『不思議の国のアリス』からの引用もあって、俺は気に入ってるんだろう。もし俺じゃなければ、『エジプト十字架の秘密』でもよかったはずだ」
クイーンの<国名シリーズ>でも傑作に分類されることの多い『エジプト十字架の秘密』は、T字型の十字架に磔にされた首なし死体が出てくるミステリーだ。
「でも、『エジプト十字架の秘密』では、逆さまの死体は出てこないからね。それに、意味ありげな逆さまの椅子と、舞台に置かれた照明。『チャイナ・オレンジの秘密』を想起しても仕方ない、と僕は自分に言い訳しているよ」
「……例えば、犯人がだ、『エジプト十字架の秘密』を想起してほしくないために、わざわざ死体を逆さまにした、というのはどうだ?」
「変なこと考えるなぁ。もし仮にそうだとしても、そうじゃなくても、捜査するのは警察なんだから、明らかに『首を切ったのはなぜなのか』ってことが問題になる。『逆さま』になっていることなんて二の次に追いやられるし、犯人は狂っていた、というだけで終わりにされてもおかしくない」
「そうか……考え過ぎか。現実というのは厳然としているな」
電話を終えた劇団の面々が、事務机の周りに集ってきた。反筆がそれぞれに日本酒を配り、改めて杯を捧げた。
「……ほんまに、もう、根居部ちゃん、おらんのやなぁ……」
窓輪さんはしみじみと言い、慌てて宮園さんのほうを見た。
「ごめんな、ミャー」
「いいんです。付き合いは主宰や堂戸さんや窓輪さんのほうが長いんだから、私なんかよりずっと辛いはずです」
「でも……なぁ」窓輪さんは涙をにじませていた。「あんた、根居部ちゃんのファンやったやない。それなのに、根居部ちゃんは芝居以外には興味がないような朴念仁でさ、もうちょっとあんたのことを考えてくれたってよかったやない」
「考えてくださいましたよ。演技のアドバイスはすごくしていただけましたし、相談にもよく乗ってくださいました。私にとっては、夢のようでした。あの根居部さんと同じ劇団に所属して、同じ舞台で演じているなんて」
「いや、だから、それとこれはちゃうやん。そういうことやなくて、もっとこう……」
「いいんです。私にはそれだけでよかったんです。間近で根居部さんの演技を見て、あの人の作り出す<世界>に触れているだけで幸せでした。どうしたらあんな風にできるんだろうって考えて考えて、まるで近づけなくて、それでも幸せでした。私にとっては何よりも高い壁、何よりも強い存在だったんです……」
たった数時間で、人は過去形で語られる。
今いる僕たちも、かつていた誰かになる。
それが世界の無常なのだと分かっていても、それだけで割り切れないのが人の身というものだ。過去形で語られるには、早すぎるんじゃないか。
「だからだめなんだ、お前は」
反筆の厳しい言葉に、宮園さんは身を堅くした。
「はい」
「お前は、演技をしたいために根居部にアドバイスを求めていたんじゃない、アドバイスをしてほしいから演技をしていただけだ。誰よりも熱烈なファンでいたいなら、特別にいつでも会えるようにしてやるから劇団をやめろと何度も言ったのに、何故やめなかった?」
「まぁ主宰、今日はそんな話はいいじゃないか」堂戸さんが間に入る。
「そうだぜ反筆さん別の話を……」
番田さんの早口を反筆は遮った。
「今まで俺がお前をクビにしなかったのは、根居部がお前の才能を買っていたからだ。もしお前が根居部の芝居を邪魔するようになったら、いつでもクビにするつもりだった。そんなやつは劇団魔法九にはいらん」
青白かった宮園さんの顔が、より白くなった。散々彼女をかばっていた窓輪さんが表情を苦くしながらもそうしないということは、反筆が本気で言っている証拠なのだろう。それも何度も同じことを言われているのがわかった。
そして彼女は、その半端じゃないプレッシャーを何度もはねのけて、この劇団に所属し続けている。モチベーションが何であれ、その強靭な意思は尊敬に値する。少なくとも僕はそう思う。
「反筆」僕は日本酒を一気に煽って、友人を睨みつけた。「僕は昔から、自分が根性なしであることに自覚的だった。だから、自分の周りに戦いを挑んでいた。先手必勝、そうやっていれば相手はひるむし、主導権を握って、距離感もとれる。ずっとそうやってきて、でも結局僕はそれを続けられるほどの根性がなかった。他の方法がわからないから、逃げることもできなかった。僕の正体がわかると、世の中全てが僕を役立たずと見ているように思った。その頃から病んでいたのかもしれない。どこにいても、誰も彼も、僕を脱落者だと見ている」
「お前のことを言っているわけじゃない。俺はこいつの……」
「僕は戦っている自分を認めてほしかった。こんなに必死で戦っているんだと知ってほしかった。そしてできるなら、そんなに戦わなくてもいいんじゃないのか、と言ってほしかった。でも誰も僕にそんなことは言ってくれなかった。そして僕は、あの『憂鬱の国のアリス』に出てきたチャールズのように、全力で絶望することさえできなかった。ドーパミンが出ない、僕の脳内物質は枯れ果てている、感情が震えない、そんな僕でもあのチャールズの全力の絶望が突き刺さって熱くなった。それに引き換え僕はどうだ、かろうじて生きている、何故か理由もわからないまま生きている、自分で自分の……」
頭の中で音がした。
視界が真っ暗になる。
酒と薬の相乗効果のせいなのか、急に全身から血の気が引いていった。
手が震える。口が震える。骨が震える。
周りで誰かの声がしている。
吊された男。
その絶望。
僕にはないもの。
逆さま。
落下していく男。
見届けること。
それが、復讐か。
だったら……。