scene7 <警察署会議室・当日4>
——「……僕はまだ、この事件の音質に——歌劇としての音質に充分なじんでいませんからね。ばかげた推測をたくましゅうすることができるだけで、知的確信がないのです……」——
(“The Quick And The Dead” Ellery Queen)
scene7 <警察署会議室・当日4>
刑事二人が戻って来た。準備されていたかのように、先ほどの席に座る。パーカー姿の刑事はバインダーを構え、スーツの刑事は疲れた表情でタバコを取り出した。タバコ特有の臭いが、緊張を生んだ。
「何か、お話しておられましたか?」
「少しばかり、黙祷を」反筆が答えた。
「ああ」
スーツの刑事はそこで、タバコを顔の前に掲げて目を閉じた。パーカー姿の刑事も同じように目をつむり、何か呟いたように見えた。
「……いくつか、またお伺いしようと思います。気分をさらに害されると思いますが、よろしくお願いいたします」
「何でもどうぞ」窓輪さんが挑発的に言った。
「それでは、番田さん以外の方の、昨夜の動きを確認させていただきたいと思います。まずは、堂戸さんから」
「私はまぁ飲み会がお開きになってから、店の前で主宰達と別れまして、音響や照明をしているスタッフ3人と駅に向かいました。私の家はまぁ登戸の方でね、新宿から終電近い小田急に乗って帰宅したというわけです。ああ、ちなみに妻帯者ですが、まぁ身内の証言は当てになりませんからな」
「結構です。では、主宰さんと窓輪さんとあなたは……」
「さっきも言いましたが、居酒屋で堂戸さん達と別れたあと、コンビニで酒を買って劇場に向かいました。前後不覚とは言いませんが、かなり酔っていたことは確かです。劇場についたのが正確に何時かはわかりませんが、メールでは0時に集合、と伝えました。で、来ていたのは宮園だけでしたが、ドアが開きません。そのうちに、いつも鍵なんかの管理をしているスタッフから、鍵なら番田が持っていったと返事が入ってきました。一応、番田にも連絡してみたんですが、返事はなかったので、こりゃだめだろうと解散することにしたんです」
「それから?」
「俺の家は北区で、窓輪は練馬区です。とりあえずタクシーを拾って、まず窓輪を家の前でたたき出して、それから自分の家にこいつと向かいました」
「あなたの自宅はどちらで?」スーツ姿の刑事がこちらを見た。
「僕は大塚です」
「自宅に帰らなかったのですか?」
「いや、俺が無理矢理連れて行ったんです。10年ぶりくらいに会って、もう少し話もしたかったんで」反筆が答えた。
「それでは……ああ、宮園さんですな。もうお加減は?」
「はい、大丈夫です」
華奢な外見と裏腹に、腹に響くようなしっかりした声だった。宮園さんはウェーブのかかった長い髪を垂らし、疲れ切った表情で刑事の方を見ていた。まだ顔に生気は戻っていない。隣に付き添う窓輪さんが、心配そうに顔を覗き込んだ。
「ほんまか、ミャー」
「大丈夫ですよ、マド姉」かすかに笑った。「私は、飲み会がお開きになる前、十時半過ぎでしょうか、店を出ました。といっても、帰ろうと思っていたわけではなくて、スタッフの女の子達をとりあえず駅まで送って、それからまた店に戻るつもりでした。でも、戻る前にマド姉から、もうお開きにするってメールをもらって、それでも一応戻ろうと思っていました。その後で主宰から、劇場で続きをするから0時に集合というメールをもらったので、それならと劇場に向かって、入り口で待っていました」
「劇場についたのは何時頃だったか、覚えていますか?」
「そうですね……主宰達が来る5分くらい前には着いたんじゃないでしょうか」
「それから、みなさんと別れてお帰りになられた?」
「はい。私の家は杉並区です。走ればぎりぎり終電に間に合うかなと思ったんですが、結局タクシーを拾って帰りました」
「ふむ……」
宮園さんは思っていたより回復しているように見えた。刑事の方を大きな目でじっと見つめ、はきはきと話している。よく観察すれば、人並み以上に美しい女優に見つめられて、スーツ姿の刑事は少々気圧されているようにも思えた。
「なるほど、そうですか……捜査情報をどこまでお伝えしたものかと思いますが、まぁ構わんでしょう。舞台が床面からちょっと上がっておりますな。その舞台の一番後ろ、何というんですか、黒い幕の後ろ、舞台と壁の間に隙間がありましてな、そこに鍵が落ちているのを見つけました」
「鍵ですか?」堂戸さんが言った。
「ええ、確認したところ、劇場入り口の鍵でした。隙間は非常に狭いので、取り出すのはなかなか骨だったようですが、それほど新しいものではありませんでした。つまり、いつからそこにあったのかはよくわかりません。ですが、少なくとも、番田さんが持っていた以外に鍵は存在していた。これで、被害者にせよ犯人にせよ、劇場入り口に鍵がかかっていようといまいと、中に入れた可能性が出てきました」
スーツの刑事は劇団の面々を見渡したが、望んだ反応がなかったせいなのか、困惑した表情を浮かべた。先ほど堂戸さんから合鍵の話は出ていたので、誰も驚かなかったのだ。
「それから、あの、照明がぶら下がっている棒ですが」
「バトンですね」反筆が言った。
「ああ、バトンと言うのですか。その棒なんですが、あれはワイヤーと滑車で上下させることができるようですな。あの規模の劇場では珍しい機構のようですが」
「そうですね、あまりないでしょう。といっても、去年の大地震で後ろの二本は機構が緩んでしまって固定していますから、実際には一番前のバトンしか昇降できなくなっています。他のバトンに吊すときは、脚立を使いますね。あの劇場の袖にも、何台かあったと思います」
「動くのは、被害者が吊されていたバトンだけ、ということですね?」
「ええ」反筆の表情が苦く歪んだ。
「ワイヤーが天井から滑車を伝って舞台袖へ、その先には重りを積めるようになっていて、バトンとバランスをとるようになっている。ワイヤーはもう一本が、重りを積む部分からもう一度天井の滑車を伝って伸び、床に固定できるようになっている。言葉で説明するのはなかなか難しいですが、こんな構造ですかな」
「おおよそは」
「さて、被害者が吊されていたバトンの重りですが、かなりの重さでした。被害者の体重が50キロ前後としますと、その倍近い重りが積まれていたことになる。まぁ、一つの重りが5キロから10キロ程度ですから、積んでいく分にはそれほどの労力ではないでしょうが、それでも、被害者を吊り下げるだけであればそれほどの重さはいらないのではないかと思いますが」
舞台の事情に疎い僕には、刑事の言いたいことがよくわからなかった。反筆も意図をはかりかねているのか、堂戸さんと視線を交わしていた。
「手動でバトンを動かす場合はだな吊すものと同じだけのカウンターウェイトを積んだだけじゃバランスがとれるだけでバトンが天井まで上がらないだろ?」番田さんが言った。
「番田さん、もうちょっとゆっくり喋っていただけませんか?」
「そう言われてもこれは癖みたいなもんだからしょうがねぇだな。で、バトンと吊すものがつりあっちまうとそのつりあいが取れる位置でバトンと吊すものは静止する。そこからウェイト側の引き綱をたぐって天井まで引き上げて引き綱を床で固定するんだな。もし、バトンに吊すものよりも重いウェイトを積んでしまうと、何かの弾みで引き綱を外した場合に、バトンが天井まで一気に引き上げられて大事故になる場合があるんだな。今回は引き綱は床に固定されていたのか?」
「いえ。重りの重さだけで、天井までつり上げられていたようです」
「そうすると犯人は根居部をバトンに結びつけてから引き綱を引っ張ったが天井までは上がらなかったんでウェイトを積んでいったってことか」
「しかし、一度は引き綱を固定しないといかんだろう。バトンが舞台まで降りていたら、とてもじゃないがウェイトを積む高さまでは、脚立でもなきゃ手が届かない」反筆が指摘した。
「んじゃそうしたんじゃねえのか。脚立に上ってウェイトを一つずつ積んでいったんだろ。バトンの照明を外したのもそのためじゃねえのか?バトン側の重さを軽くしねぇと積むウェイトの数が増える」
何だって?
「番田さん」
「あん?」
「なるほど、そういうことか……照明を外した理由は、バトン側を軽くするため。別に『逆さま』を演出したかったわけではないってことか……」
反筆があごを撫でた。番田さんは自分が何を口走ったか、よく理解していないようで、困惑した顔つきで黙り込んだ。
どんな理由があるのかはわからないけれど、犯人は根居部さんを吊さなければならなかった。そのための工作として、まずバトンを下ろし、そこに取り付けられている照明を外す。それから、根居部さんを吊してバトンを上げる。そのときに、根居部さんの体重以上の重さのウェイトを使った。先ほど僕が妄想したように、照明が外されていたのには、理由があったということだ。
……?
何か、違和感があった。
照明を外して、天井を照らしているように置かれていたのは、『逆さま』を演出するためではなかった。とすると、根居部さんを吊すことが第一義であり、そのために照明を外し、そのことをごまかすために椅子を天地逆にしたのだろうか。
そして……そもそも根居部さんを『逆さま』に吊るしたそのこともまた、何かをごまかすためのものなのだろうか。
どうして、根居部さんを吊さなければならなかったのか。猟奇的な殺人者の死体装飾でしかないとしたら、その理由を探ることはあまりに無意味だ。犯人に直接訊ねなければ、永遠にわからないだろう。根居部さんを殺害し、首を切り、バトンを下ろして照明を外し、遺体を吊し、バトンを上げ、椅子を天地逆にする。内側から鍵を閉めていれば、時間は充分にあった。物理的に不可能ではない。
しかし……いつ、誰が入ってくるかわからない劇場の中でそんなことをするものなのか。もし劇場のことを知っていれば、泊まっていくこともできると分かっている。終電に乗り遅れた劇団員がやってくる可能性は充分にある。今回も、たまたま中に入らせないようにできただけで、反筆達の中の誰かが鍵を持っていたらそれで終わりだ。劇団や劇場関係者がそんな危険を冒すだろうか。やはり外部の人間か、あるいは突発的に起こってしまい、他に方法がないからあんなことをした、と考えざるを得ない。では、何故あんなことをしなければならないのか。
思考が堂々巡りを起こし、何一つ確信めいたものを得ることができない。そうしているうちに、鬱が首をもたげてきそうだったので、僕は考えることをやめた。
「ふむ、なるほど参考になりました。それから、今みなさんの劇団のスタッフさん達に集ってもらっているんですが、いくつか現場からなくなったものがあったようです。そのうち一つは、美術さんの管理していたのこぎりで、おそらくは首を切断するために使ったのではないかと思われるんですが……どうも切り口が完全に一致しない。のこぎりを多少は使った様子はある、しかしそこで諦めて何か別の方法で首を切断したのではないか……あとは、舞台袖にあったロープが一本、なくなっているようです。長さは数メーターということでしたか」
のこぎりと、ロープ。
なくなっている、ということは犯人が持ち去ったのだろう。のこぎりはともかく、何故ロープを持ち去ったのだろうか。
「分からないことは多いですが、ここにいるみなさんが合鍵をお持ちでなかった場合、今提出していただいているアリバイを考えると、死亡推定時刻に劇場内に入れなかったことになる。ひとまずは容疑圏外、ということですな。所在を明らかにしていただくこと、警察からの呼び出しがあればすぐに出頭していただくこと、それから指紋を提出していただくことを条件に、お帰りいただいても結構です」
指紋を採られる、ということに窓輪さんがあからさまに顔をしかめた。しかし、解放されるのはありがたかった。さすがにそろそろ、拘束されていることに倦んできていた。
警察署を出ると、気づけば時刻は夕方になっていた。春を前にしても空気は冷たい。腹が減ったという実感はなく、気だるさだけが体を支配している。
「……このあと、まだ時間あるか?」
反筆が訊ねた。自宅警備のシフトは自由自在だ。
「ああ、僕は大丈夫だよ」
「そうか……よかったらつき合わないか?根居部が戻ってくるのはまだ先だろうが、通夜くらいしても罰はあたらんだろう」
「僕がいてもいいのかな?」
「来てもらえるとありがたい」
そう頼まれて断る理由はない。
僕より若く、僕より才能に溢れ、僕よりも他人に影響力を持った人が、僕のような人間に送られても嬉しくはないだろうが。