scene6 <警察署会議室・当日3>
——「すばらしいですよ」エラリーは、間のびした声でいいながら拍手した。「Brava、アリス。動物役の諸君、眠り鼠も三日月兎も、うまいもんだ。帽子屋は、申すにおよばず」——
(“The Mad Tea Party” Ellery Queen)
scene6 <警察署会議室・当日3>
宮園さんが、ベンチから身を起こした。蒼白な顔に相変わらず赤みはないが、興味深そうな表情になっていた。ふわふわした少女趣味のワンピースがよく似合っている。そういえば、彼女をちゃんと見るのは初めてかもしれない。
反筆を除く劇団魔法九の面々は、呆然としていた。なるほど、御手洗潔や火村先生は、こんな気分を味わっていたのか。そう思うとなんだかくすぐったい。
「それは」堂戸さんがいち早く回復した。「つまりまぁ、クイーンのあれ、かね?」
「そうです。ご存知でしたら話は早い」
「うちの主宰はミステリーが好きだからね。特に黄金時代の本格派、それもユーモアやナンセンスのこもった、まぁ不可思議な作品を私らにも読むように薦めている」
「ああ確かに」番田さんが続けた。「クイーンていや『靴に住む老婆』とか『十日間の不思議』とか『Yの悲劇』とか読めって言われたなだな」
「エラリー・クイーンはアメリカの推理作家です。マンフレッド・リーとフレデリック・ダネイといういとこ同士の共作作家のペンネームが、エラリー・クイーン。主に1920年代から40年代に活躍しており、その作風はあくまでフェアかつ、ミステリーの限界に挑戦する野心的なものでした。私見を申し上げれば、ポーに始まるミステリーの系譜において、ドイル、クイーン、クリスティ、カー、チェスタトンでやれることはほとんどやってしまったのではないか、と思います。黄金時代はミステリーの可能性に挑み、それを超えてきた時代でもあったのです。
そんなクイーンの代表作が『Xの悲劇』に始まる<レーン四部作>。演劇に携わるみなさんならご存知かもしれませんが、英国はロンドンにある、シアター・ロイヤルやニュー・ロンドン・シアターといった劇場を指す名前でもある通りの名前と同じ、ドルリー・レーンという探偵役が登場します。長年シェークスピアにおいて名声を博しながら、聴力を失ったために引退したという頭脳明晰な老人です。レーンのすごいところは、もちろん推理の能力もありますが、読唇術を心得ており、対面して会話する分には聴覚に障害があることを悟らせないほどです。<四部作>の中でも、『Yの悲劇』は、オールタイムベストに挙げられる超名作であり、未読の方にはぜひ読んでいただきたいと思います。
これとは別に、<国名シリーズ>というもう一つの代表作があります。こちらに登場するのは、作者と同名の探偵、エラリー・クイーン。ニューヨーク市警の警視リチャードを父に持つ作家で、父親の頭を悩ませるいくつもの事件を解決します。ちなみに作家が本業ではありますが、彼の活躍した事件を小説にして発表しているのは、J・J・マックという別の人物です。『ローマ帽子の秘密』から始まる<国名シリーズ>の初期には、<読者への挑戦>という、手がかりが全て作中に示されて読者に推理をさせる趣向が取り入れられ、その緻密さと説得力は余人の入る隙がありません。その後には架空の町<ライツヴィル>を舞台にした作品、名探偵としてのアイデンティティにまで迫る作品などで活躍します。
そんな<国名シリーズ>の8作目として上梓されたのが、『チャイナ・オレンジの秘密』です。ああ、クイーンの作品は主に早川書房と東京創元社から翻訳されており、訳文や活字も含めて好みのわかれるところですが、個人的に早川版を好んでいるので、『——の秘密』の方を取らせていただきます。創元推理文庫版では『——の謎』とされており、原題は『——Mystery』となっています。ミステリーを語る上での常識として、ネタバレには極力注意をさせていただきますが、ある程度真相を示唆してしまう可能性があることはお許しください。
さて、『チャイナ・オレンジの秘密』ですが、物語は、あるホテルにある出版社のオフィスから始まります。そこの経営者は、宝石と切手の蒐集家でもあるのですが、彼の元を訪れた人物が、謎の死を遂げます。関係者は死んだ人物の顔も名前も知らず、何故オフィスの一室で殺されたのかもわからないのですが、ある一つの点がクイーンの目を引きます。その人物が殺害されたオフィスにある、動かせるものはことごとく『逆さま』にされていたばかりか、その人物の衣服までもが前後『逆さま』に着替えさせられていたのです」
一息に語り終えた僕を見ている劇団の面々の顔がまたぽかん、となっている。おっといかんいかん、顧客を置き去りにしすぎたか。
「すみません。営業をやっていたもので、セールストークになるとそれなりに舌が回るんです」
「そ、そうだったんか。いや、いきなりどこか故障したんかと思ったわ」
窓輪さんがほっと息をついた。
「僕と反筆は、大学時代それほどつるんでいたわけではないのですが、何故か読書の趣味だけはあっていました。特に、ミステリーというジャンル、クイーンにしろカーにしろ、よく読んでは語り合ったものです。そんな僕らですので、今回の事件で示されていたある現象に、思わず反応してしまったのも致し方ない、と思っていただきたいのです」
「現象?」堂戸さんが首をかしげた。「劇場の椅子を引っくり返してあった、まぁあれのことかね?」
「そうです。付け加えるなら、根居部さんの遺体が『逆さま』に吊されており、舞台に置かれた照明が天井を照らしているように見えたのもまた、『逆さま』だと言えるでしょう。突然あの状況に放り込まれた僕には、それがまるで『チャイナ・オレンジの秘密』をなぞらえているのではないか、と思ったのです」
「……てことは何かその『チャイナ・オレンジ』で起きた殺人事件が解ければ今回の事件も解決するとでも言うのか?」番田さんが早口で言った。
「ちょっと待ってんか。あんた、うちらの仲間が殺されたのが、推理小説めいたものだって言うんか?そんなイカれたことを、本気で思ったんか?」
今度は窓輪さんは怒っていた。目まぐるしく感情の変わる人だ。
「ご怒りはごもっともです。だからこそ、こんなろくでもない話をしたくなかった反筆の気持ちをわかってあげてください。それは逃げたのではなく、部外者である僕にこそふさわしい役割なんです」
「……そうか」
窓輪さんはようやく、温かみのこもった目で反筆を見た。
「僕も根居部さんの死を、遊びにするつもりもありません。僕が『チャイナ・オレンジの秘密』のようだと思ってしまったのは、ひとえに僕の妄想のせいですので、お詫びしなければいけません。ただ、ある示唆を得たのは間違いないです。『チャイナ・オレンジ』では、『何故、犯人は、様々なものを『逆さま』にしたのか』、ということが推理の重要な論点でした。それでは今回、根居部さんの遺体をあのような状況にしたことに、どんな理由があったのでしょうか?」
そう、僕はこれが言いたかったのだ。犯人は、根居部さんの頭部を切断して持ち去っただけでなく、遺体を逆さまに吊し、照明を逆さまに照らし、椅子を逆さまに引っくり返した。
「ただ、この理由がわかったとしても、残念ですが犯人は分からないでしょう。先ほど刑事さんも言っていましたが、番田さんが劇場を出るときに鍵をかけたのかどうか、確定しない限りは捜査が進みません。もし、鍵をかけたのであれば、その後にどうやって根居部さんや犯人が中に入ったのか。この謎が解けなければいけないでしょう。逆に、鍵をかけなかったとすれば、犯人の可能性が拡散しすぎて絞り込めない。それこそ通り魔、という可能性も出てくる。警察の捜査に期待するしかない、というのが、この素人探偵の結論です」
妙なプレゼンの時間だったが、結局のところ僕には謎は解けない。変な妄想をしてしまった責任として語っただけで、そんな能力はないのだ。久々の緊張から解き放たれて弛緩する僕に、反筆がすまなそうな顔を向けた。気にするな、と手を振る。
「番田くんが鍵をかけようがかけまいが、根居部くんか犯人が中に入る方法はまぁあるよ」
堂戸さんはそう言って、新しいタバコに火をつけた。
え?
「方法が?」
「ああ」
「それは、一体?」
探偵としては情けない話だが、すぐさま僕は訊ねていた。
「まぁ簡単な話で、鍵があればいい」
「……で、ですが、番田さんが鍵を持って帰ってしまった以上は……」
「鍵は一本とはまぁ限らない。オーナーがマスターを持っているし、合鍵が存在する可能性もある。君は私らが、あの劇場を何年使ってきたと思う?あの劇場が何年存在すると思う?今回のことのため、でなくても、不心得者が今までに合鍵を作った、というのはまぁ十分考えられると思わないかね?」
合鍵。
そうだ、そうか、合鍵があれば、番田さんが鍵をかけようがかけまいが関係ない。合鍵を使って劇場内に入ることができる。どうして僕はそんな可能性に思い至らなかったのか。異様な状況だと妄想したために、一番簡単なことに目がいかなかった。多分、当たり前だけど、警察はその可能性を考慮しているだろう。そのことをまるで臭わせなかったあの刑事、かなりのくせ者なのかも知れない。
だとすると、犯人の目星はかなり絞られてくる。
少なくとも、劇場関係者。
そして、犯行が、計画的だった可能性も再び持ち上がってくる。
僕は堂戸さんを見た。堂戸さんは皮肉な笑みを浮かべて、紫煙を吐き出した。
「君がどう考えるかはともかく、私らはまぁ立派な容疑者というやつなのさ。ここに残されているのがその証拠だろう。残されているから容疑者なのか、容疑者だから残されているのか、どちらが先なのかはまぁわからないが」
ふう、と僕は大きな大きなため息をついた。探偵の真似事ができたのは思い出に残るかもしれないが、苦々しい想いは払拭できない。反筆の友人として、僕にはもっと何か、できることがあるのではないか。心の壊れかけた男に、妄想すること以外に、どんなことができるだろう。昨日会ったばかりの、それでも僕の人生に一瞬の熱をもたらしてくれた、この小さな劇団の面々のために、どんなことが。
真実を明らかにすることか?そんなことに何の意味がある?根居部さんが帰ってくるわけではない。
僕には、こんなことしかできないか。
立ち上がって、服の乱れを正した。劇団の面々の視線が集まる。
「……昨日、一度しか拝見しませんでしたけれど、みなさんのお芝居はとても面白かったです。根居部さんの、全力で絶望していく姿には引き込まれるようでした。できれば僕も、その『次』が観たかった。ありがとうございます。そして、このたびは本当に、お悔やみ申し上げます」
深々と頭を下げた。
反筆がのっそりと腰を上げて、タバコをくわえたままで僕を見た。
「……あいつは、芝居とアリスに全てを傾けていた、ちょっと偏った男だったが、代え難い俺たちの仲間だった。最後の観客にそう言ってもらったこと、あいつに代わって礼を言いたい……ありがとう」
堂戸さんが小さく頭を下げた。番田さんは起立し、直立不動で静かに泣き始めた。窓輪さんはもう涙は涸れてしまったのか、顔をしかめるだけだった。宮園さんもベンチから立ち上がって、僕に向かって頭を下げ、そのまましばらく顔を上げなかった。
ささやかな弔い。
僕には——いや誰にも、こんなことしかできないのだろう。