scene3 <居酒屋・前日2>
——「ええ。だからこの病気の名前はね、『不思議の国のアリス症候群』って言うの……」——
(「幻の家のアリス」加納朋子)
scene3 <居酒屋・前日2>
「元々、劇団魔法九は、俺と根居部で立ち上げたものだった」反筆は新しいタバコに火をつけた。「不良中年だった叔父貴に連れられて、ガキの頃に一度だけ観た、<暗色天幕>っていう劇団が忘れられなくてな、そんなものをやってみたいと思っていた」
<暗色天幕>というのは、だいぶ前に解散したアングラ劇団だそうだ。劇団関係者が連続殺人に巻き込まれて何人も死んだ、ということも含めての「伝説の劇団」。1960年代後半から始まった演劇ブーム——唐十郎の「状況劇場」やら寺山修司の「天井桟敷」やら——の後に立ち上がった<暗色天幕>において重要だったのは、<風景>らしい。
「とにかく、理屈は後回しだ。何というのか……既視感と未視感を畳み掛けて、観客の前に一つの<風景>を作り出す、そんな舞台だった。誰かが<あり得ない場所の蜃気楼>と表現していたが、その<風景>がガキだった俺を圧倒した」
「子供の頃から演劇に興味があったの?」
「そうだ。何かを表現する、というのは拒否しがたい魅力がある。絵でも、映像でも、文章でも、音楽でも、何でもいいんだが、どうも俺は、言葉と同じくらいに、体を使った表現というのが好きでな。運動部にいたのも、文系の部活でどうこうというよりは、肉体を使って何かしていたかったからなんだろう。ラグビー部で膝をやっちまってから、芝居の方にベクトルを向けた」
なるほど、ゴリラのようにごつい反筆が、一方でやけに思索が似合うのは、そういった思いがあったからなのか。
「大学を出てから、いろいろと仕事をしながら、ある劇団に潜り込んで、そこで出会ったのが根居部だった。あいつはその頃まだ高校生で、演技の技術はそれほどじゃなかったが、<世界>を作り出すのが抜群にうまかった」
「<世界>……って?」
「そうだな……<暗色天幕>の<風景>と似ているんだろうが、もっと複雑だ。観客に見せるんじゃなくて、観客を巻き込む。まるで『第四の壁』がそこにはないように錯覚させるとでも言うのかな……それは芝居というより、催眠術に近いのかもしれない。いや、催眠術にかけられたのは俺か……とにかく、その<世界>を作り出すことを試してみたいと思って、俺は根居部を誘って、劇団魔法九を作ったんだ」
そこまで語って、反筆は渋面になった。
「そこからは、どこにでもあるような苦労話だな。金はない、役者もいない、伝手はあったが常打ちできる箱もない。あげく、根居部は大学受験の時期になって、劇団としてはやることがないんでな。俺は仕方なく本を書きながら、何とか食っていけるような仕事をでっち上げて、それでも舞台は作れないんで、フラストレーションばかり溜めていたっけな……で、ある日、アリスと出会ったんだ」
「ようやくヒロインの登場だね」
「そんなもんじゃない。大して綺麗でもないし、歳は食ってるし、正直どうってことはないんだが、包容力だけは抜群でなぁ……そこに根居部が惚れ込んだ」
そんな僥倖のおかげで、彼ら劇団魔法九は、根城にできる小劇場を手に入れた。
「惚れ込んだのは根居部だけでもないんだがな……俺も、アリスへの感謝を込めて、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』を改変した本をいくつも書いたもんだ。それがいつの間にか評判になって、気づけば魔法九といえば、<アリスもの>をやる劇団ってことになっていた」
反筆が書いた<アリスもの>を試しに上げてもらうと、
『アリスの国の鏡よ鏡』……姿の写らない鏡が舞台の真ん中にどん、と置かれていて、その前で繰り広げられる不条理劇。その鏡に写るのは世界でアリスだけ、なのだが、誰がその前に立っても姿が映らない。チェスの駒達が反乱を起こした世界を治められるのはアリスだけ。何とか鏡に写るアリスを探し出さなければならない。
『不気味の谷のアリス(RC)』……精巧に作り込まれた、自動人形<アリス’>(もちろん、中に役者が入っている)を巡る物語。ストーリー云々よりも、役者がいかにして自動人形を演じるのか、その動きを再現するのか、ということに主眼が置かれた舞台らしい。「不気味の谷」とは、ロボット工学上の概念で、「ロボットに対する人間の感情的反応を曲線で表わしたとき、ロボットが人間に近づくにつれて上昇していくのだが、ある一点からそれが嫌悪に変わり、曲線が谷を描く」ことに由来していて、とにかく自動人形<アリス’>の中の役者が、「不気味の谷」を表現することができるかどうかにかかっていた。
他にも、兎を追って月に行ってしまったアリスを地上から眺める『アリス・スター・クロウリーと月世界旅行』、愛想を尽かして家から出て行ってしまった新妻アリスを追いかけるルイス・キャロルの物語『A・L・C』、ナンセンスな本が絶滅の危機に瀕した世界を描いた『Red Data Book Books』等など。
<アリスもの>でよくそんなにネタが続くものだと僕は半ば呆れ、半ば感心した。
「ところがやね、やっと出会えた本拠地とも、今回お別れになるわけや」
突然後ろから声をかけられ、僕は口に入れた枝豆を吹き出しそうになった。振り返ると、えんじ色のベレー帽を被った窓輪さんが、ワイングラスを手にして笑っていた。そして失地回復と言わんばかりに、僕の座っている椅子に無理矢理体をねじ込んできた。
「どうした、マド姉」
「どうしたもこうしたもないやん、反筆。こんな可愛い兄ちゃんとしけこんで楽しそうにおしゃべりおしゃべり、私のことはもう飽きたちゅうんか?」
「わけのわからんことを」
「ええか兄ちゃん、私と反筆、つきあってんで」
「あ、そうなんですか?」
「『あ、そうなんですか?』ちゃうわ!そこはもっと、こう、大げさにこんかいな!」
「そう言われましても……僕、別に反筆の女性関係に興味ないんで」
「お、そうかそうか、男性関係になら興味あるんやな?」
窓輪さんは意味ありげに笑った。
「もっとないです」
「じゃあ中性関係か!酸性の反対はアルカリ性な〜のだ!ほら、そんなに中性関係に興味があるなら、いっそ反筆とちゅ〜せい、なんてな!」
ばしばし僕の背中を叩きながら、窓輪さんは真っ赤な顔で大笑いしている。意味不明にテンションが高い上に関西弁。そういえば、一時関西支社に異動になったとき、営業成績が全然上がらなかったことを思い出した。関西のノリはどうも苦手だ。
「あんまり絡むなよ、マド姉。そいつ、今ちょっとハートを捻挫してるんだから」
「お、そうなん?いっそのこと、ぽきっと折ったったらええねん、綺麗にくっつくで」
「複雑骨折しそうなんで、やめときます」
「向こうはもうお開きか?」
「番田が、なんや忘れ物したとか何とか騒いで出てったっきり戻ってこん。根居部ちゃんもミャーも帰った。堂戸ちゃんが照明の若い子ら相手に『新・王様ゲーム』始めとるけど、あれは止めんでええんか?」
「『新・王様ゲーム』って、『世界の王家』古今東西だろ?ほっとけほっとけ」
歴代フィンランド王縛りとかで古今東西をするのだろうか。それはそれで恐ろしい気がする。
このままほっとくとどんどん脱線しそうだったので、話を戻すことにした。
「それで、どうして劇場と別れることになったの?」
「ああ。去年の震災でな」
反筆は、何ともいえない表情をした。窓輪さんも近い表情になる。恐らく、日本の多くの人が浮かべるだろう表情だ。
これから何年、何十年かかっても、整理できるのかどうかわからない大震災。個人としてではなく、日本人として在る限りは払拭できない想い。突きつけられた現実に、ルイス・キャロルであればどんなナンセンスで応えるのだろう。それとも、愛するアリスに置き去りにされた現実など、彼にはどんな意味も持たないのか。
「バブル前に立てられたテナントビルの地下で、元はナイトクラブだった店を改装した劇場だ、耐震基準なんかとても満たしてない。オーナーには今さら免震やらするつもりもないらしくてな、ビルごと取り壊しが決まった。三月中には着工だとさ」
「最後の舞台、アリスにしっかり観てもらおうと思って、今回の本にしたんやけどね」
「根居部にとって、アリスとお別れするのがよほど堪えたらしい。それだけに今回は入れ込んでいてな……だからこそと思って、俺は今回の本を書いて、チャールズの役をあいつにやってもらったんだ……が、そいつはどうやら追い討ちにしかならなかったみたいだ。アリスはどこにもいないなんて脚本を渡されて、現れた<世界>は、お前が言ったように、『全力の絶望』だ。俺としては、生きていればいつだって『次』があるし、嫌でも『次』がやってくる、という<世界>を観たかったな……」
根居部さんとはほとんど話していないけれど、その気持ちは少しわかる気がした。穏やかなインテリ、といった風貌の根居部さんが絶叫していたのは、多分「次」が見つけられなかったからなんだろう。僕の心が壊れ気味になったとき、僕には「次」なんてなかった。
また鬱が芽を出し始めたので、僕はビールを一気にあおった。酒には弱い。本当に弱い。中ジョッキを半分ほど飲んで、血が熱くなった。血管が広がり、激しいビートが体中に響いた。ぐらぐらする。
反筆には悪いけれど、「次」がなくても人間は生きていける。
生きるだけ、なら。




