scene2 <居酒屋・前日>
——「……この事件が解明されたら……まあ解明されるとして、その時にはこの韻で犯罪探偵史が書けそうだよ。何もかもあべこべ! 何もかもだ……」——
(“The Chinese Orange Mystery” Ellery Queen)
scene2 <居酒屋・前日>
刺身が売りの安い居酒屋で、苦手な酒を前にして、僕は友人に詰め寄られていた。
「で、どうだった?うちの劇団の芝居は?」
断筆亭反筆、というふざけた筆名の友人は、いかつい顔でタバコをくわえていた。ニットキャップを目深に被り、ほとんど喧嘩を売っているような目つきだ。思い出せば、大学時代の彼もそんな表情をしていた。
三十を過ぎて、僕は会社を辞めた。食品会社の営業マンをしていたが、健康を害してやめざるを得なかった。胃を壊し、ついでに精神も壊した。燃え尽きたのか、鬱なのか、よくわからないけれど、医者は「気分障害」だと診断した。生きる気力が低空飛行をしている実感はあった。落ちてしまえば楽なのに、そこまで行かずに風に煽られて何とか姿勢を保つグライダー。一日一度の服薬は儀式でしかなく、薬のおかげだと実感できるものは何もなかった。
元々ストレス耐性の低い人間だった。それを補うために、周囲に戦いを挑むように生きてきた。それに疲れて、何かが折れた。職を辞して収入が途絶えることが不安だったけど、十年近いサラリーマン生活で結構な金が貯まっていたことに初めて気づいた。それで、ようやく自分を嘲ることができた。
無駄に金を使うこともできなかったのか、と。
当面は仕事をする気になれなかった。気が向けば、古本屋チェーン店の100円コーナーで文庫本を買い、ときどきはハードカバーを買った。酒は飲まないし、タバコは吸わないし、風俗にも行かない。自炊が得意なので、気づかないうちに食費を削っている。仕事をしていた頃と比べて支出はほとんど増えなかった。金の使い方が下手なことが、無性に残念だった。
三月、春の暖かさの予感から逃げるように、久々に池袋の大きな本屋に入った。そこで見かけた金髪のごつい男に見覚えがあった。向こうも僕に気づき、近づいてきた。格好はラッパーのようだった。髭だらけの顔で、笑うこともなく、なぜかうなずいた。
「ピンチョンか」
僕の手にしている分厚い本を指差した。奮発、というものをしようと思って、トマス・ピンチョンの『V.』を買おうと思ったのだ。
「久しぶり。大学卒業以来だね」
「そんなになるか。今、何してるんだ?」
「本を買ってる」
「仕事、だよ」
「自宅警備員」
「ふうん」
「そっちは?」
「介護系」
「へぇ、そんなタイプだったっけ?」
「人生いろいろあるからな」
確かに、こんなにごつい介護職なら老人も安心して体を任せられるだろう。そんな思いが顔に出たのか、反筆は拳で僕の胸を突いた。
「現場にゃもう出てない。経営者だ」
「そりゃまた、すごいね」
「そうでもないさ」
聞くと、ヘルパーを派遣する事業所と、デイサービスとやらを経営しているらしい。いざとなれば現場にも出るけれど、それ以外のことも忙しいので、迷惑をかけていると言った。
「自宅警備ってことは、暇なのか?」
「暇じゃないよ、自宅を警備しているんだから」
「シフトは自分次第だろう?」
「そうだね」
「じゃあちょっと、顔を貸してくれよ」
そう言って、反筆はダウンジャケットのポケットから、一枚の紙切れを取り出した。受け取ると、つるつるした紙で、派手な印刷がされていた。
<劇団魔法九 七ノ段 『憂鬱の国のアリス Alice’s Adventures in Somber Land』>
「何これ?」
「芝居だよ、芝居。俺のノルマの最後の一枚」
「君、お芝居するの?」
「舞台には立たない。その劇団の、一応主宰だ」
「へぇ」
リーダー気質とでもいうのか。高校時代の反筆は、関東でも強豪校のラグビー部でキャプテンだったらしい。膝を壊してあまり走れなくなり、ラグビーをやめてしまった。大学に入ってからは、怪しくないイベントサークルのボスで、大学のサークル協議会か何かにも首を突っ込んでいたはずだ。生まれながらのキャプテンシー。そして、どんな華やかな場でも苦虫をかみつぶしたような顔をしているのが反筆という男だった。自分の思い通りのことしか起こらないことを知っているくせに、自分の思いもよらないことが起こることを期待して、自分で切った木の切り株で待ち構えているのだ。その罠が成功したかどうかは僕にはわからない。
そういうお祭り的なものが苦手な僕は、人数の少ない総合格闘技同好会に籍を置いていた。反筆とは学部が同じだっただけで、講義を除けば学内ですれ違うことも少なかったが、何故かよく学食で一緒になり、話をしたことを覚えている。
「今まで、芝居を見たことは?」
「映画やドラマにはあんまり興味がなかったからね、生のお芝居なんて自分が岩の役で出た小学校の学芸会以来近づいてないよ」
「そいつはいい」
「いいの?」
「そういうやつが、うちの芝居を見て何を感じるのか、素直な感想を聞いてみたい。金はいらないから、ぜひ見に来てくれ」
「ふぅん……」
チケットをひらひらさせていると、反筆は大きい手で肩をつかんだ。
「脚本は俺が書いてる」
それには興味がわいた。死んだはずのケインズの妄想がいつまでこの国で生き延びるのか、といった類いの話では険悪になった僕たちだが、他の読書の趣味は一致していた。
というわけで、三月半ばの土曜の夕方、千秋楽を翌日に控えた劇団魔法九の舞台を見るべく、僕はテナントビルの地下にある小劇場に足を踏み入れたのだった。
階段を下りると、左手にドアがあった。トイレと楽屋がそちらにあるらしい。そして、劇場は狭かった。なるほど、これが小劇場というものか。開演時間直前に入場した僕には、一番前の席しか残されていなかった。箱馬——というらしい、木の箱——をひっくり返してクッションを置いただけの、背もたれもない椅子。手を伸ばすと、舞台に触れられそうだ。その舞台も、思い描いていたものと違って、少しばかり床より高いだけ。舞台の幅は六メートルくらいだろうか。天井も低く、よく見ると配管がむき出しになっている。
観劇後に書くアンケートと一緒に、おびただしい数のチラシが置かれていた。世に劇団がこれほどあり、また劇場もたくさん存在し、そこで夜ごとにお芝居が行われている。パックス・ジャポニカ、日本の平和、あとに残るのは滅びだけ。それでローマ人が死に絶えたという話は聞かないので、パンと見せ物を奪われた日本人はどこを彷徨うのだろうかと少し暗澹たる気持ちになる。
いかんいかん、やや鬱の気が入り込んでいるみたいだ。
タイトルのわからないヘヴィな洋楽が相当な音量で流れていた。こういう場であまりきょろきょろできない小心者の僕だが、今日は物珍しさも手伝って客席を振り返ってみた。僕から見れば奇抜なファッション、芸術家っぽいというか、素人っぽくないというか、そんな格好の客が半分以上。高校生らしき女の子から、白髪の男性まで年齢層は幅広い。客席はほとんど埋まっていたが、何人ほどいるのかがわからない。交わされる会話が意味のないハウリングになって、かなりうるさい。そして、隣の客と触れ合うほどに、客席に押し込まれている。
なるほど、ちょっと不思議な感覚だ。約束された祝祭に立ち会うような高揚感とでもいうのだろうか。
スーツ姿の若い男が出てきて、開演前の注意事項を朗々とした声で語った。彼が楽屋の方に引っ込むと、ひときわ音楽が大きくなり、ぶつり、と途切れ、そして黒い幕が上がった。
先ほどのスーツ姿の男が、舞台中央に置かれている、樹を表現したらしい大道具の前に立っていた。枝からは円を描くロープが下がっており、その下に椅子。恐る恐るといった調子で椅子に上り、ロープに手をかけ、そこに首を突っ込もうとしてはやめ、してはやめ、を繰り返しながら、とんでもない大きな声で台詞を吐き出し始めた。
『どこを探したって見つからないじゃないか!』
男はついにロープに首を突っ込んだ。しかし、枝がぽっきりと折れて、落下していく。
暗転。
そこから物語はものすごい速さで動き出した。
繰り広げられているものを、僕は呆然と眺めていた。映像を処理するのが苦手なせいで、何が起こっているのか、置いていかれまいとするのが精一杯だった。テキストを追うのは得意なので、ストーリーは頭の中で組み立てられていく。しかし、それがイメージを作る前にもどんどん物語は進んでいった。役者は絶叫し、ときに意味のないと思われるシーンがねじ込まれ、突然踊り出し、かと思えば歌い出し、まったくわからないが落語が始まったりした。
これはいったいなんなんだろう。
いつの間にか、汗をかいていた。視線をそらせなかった。混沌としたエネルギーに満ちていたが、繰り広げられるものはただただ空虚だった。まるで意味がない。こんなことに、役者達は何故必死になっているのか。
そこでようやく、先ほどの若い役者扮するチャールズという男だけが、まともな様子なのに気づいた。
そして、それ以外の役者は、誰もが「意味のないこと」を「意味があるように見えるのに、実は意味がない」ように演じていることがわかった。しかし僕にはもう、わけのわからない世界だった。空虚だと思わせるために、すさまじい熱量が込められている。しかもそれが、みるみるうちに消費されていく。
これはいったいなんなんだろう。
「憂鬱の国」と呼ばれる世界で一人だけまともなチャールズは、どうやらこの空虚な世界では「言葉」が意味と力を失ってしまったのだと気づいた。女王であるアリスを探し出せば、秩序を取り戻せるのではないか、そう考えたチャールズは、世界中を旅しながら、様々な「言葉」と戦い、世界には少しずつ秩序が取り戻されていく。
そして混沌は立て直され、秩序は回復し、彼の探し求めたアリスが女王の座に座って……いなかった。
「憂鬱の国」の女王であるはずのアリスは、この世界には存在しないのだ。時が過ぎれば、アリスは去っていく。アリスが去ったから、この世界は「憂鬱の国」となった。そして、「憂鬱の国」が言葉の意味と力を取り戻して「現実の世界」になったところで、そこにチャールズの探し求めたアリスは、彼が愛した純粋で無垢で、ナンセンスな言葉を何よりも好んだアリスはもういない。
『どこを探したって見つからないじゃないか!』
そう叫んで、それでもチャールズは——チャールズ・ドジソン——すなわちルイス・キャロルは、時間が奪っていった彼だけのアリス・リデルを探して世界を彷徨う。
ストーリーを追いかければ、そういう話なのだろう。しかしそれは、観終わってから、断片をつなぎ合わせた僕の解釈で、観ている最中にはそんなことを思う暇もなかった。ただただ絶望的なから騒ぎを繰り返す登場人物達、それに無謀な戦いを挑むチャールズの力強さと、そして絶望。から騒ぎのままがいいのか、現実はそれより少しはましなのか、そんな葛藤が叫び声に変わり、虚空に向かって放たれる。
無闇に熱く濃密。
それが、僕の感想だった。
拍手も忘れて呆然としていた僕は、何故か反筆に引きずられ、役者やスタッフの打ち上げに参加していた。営業をしていた僕には本来、上辺だけで言葉を繕う能力が備わっているのだが、彼らの前でそれを披露することはできなかった。緊張しているのではなく、自分の頭の中を整理できていない。それほど、観たものが衝撃的だった。
やむなく反筆は、僕を座敷からテーブル席に連れ出し、中ジョッキを目の前にして先ほどからすごんでいるのだった。
「熱くて濃い、か……」
「ごめんね、どうも的確な言葉が見つからなくて」
「いや、その辺りはいわば狙った通りだからな、そう感じてもらうのは当然なんだが……もうちょっと他にないか?」
「他にねぇ……ああ」僕はふと、思いついたことを口にした。「チャールズを演じていた、根居部さんだっけ、あの人は何か、すごかった」
「根居部が?どう?」
「うーん……全力で絶望している、っていうのかな」
「全力で絶望……」
「まるで自分も『憂鬱の国』にいる気分になったよ。僕の表現力じゃ、こんな感想が限界かな」
「……そうか」
難しい顔で反筆はビールを一口飲み、唇を掌でぬぐった。
「素人の感想は的外れだよね」
「そんなことはない。根居部はうちの看板だし、演技では確かに抜きん出ているんだが……そうなると、脚本がまずかったってことだな」
「まずいって?」
「ああ……この脚本は、アリスとのお別れのために書いたものでな」