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(6)

——……「地球人類をどう思うか」

「神に似せられている姿はわれわれには羨しい。しかし、あらゆる悪徳を重ねながら主にそむいてまで、生存し続けなければならない宿命は悲惨である……」——

(「ウコンレオラ」山本修雄)

 


(6)



「さすが先生。『不気味の谷のアリス』、ぴったりだわ」

 アリスは拍手喝采せんばかりに喜んでいた。

 僕たちによって『不気味の谷のアリス』と名付けられたそれは、ゆっくりとこちらに近づいてきた。元々が何だったのかわからないほど人間に似ているが、明らかに人間ではないことが知覚できた。そのことが、さらに感覚の摩擦を生んで気持ち悪い。

 陸上で不意に船酔いになってしまったような奇妙な酩酊。

 直視することがためらわれるほどの背徳感。

 完璧なプログラムで二次元から三次元へ補正され、3Dプリンタで立体的に印刷された造形物。

 それが、表情を変えることなく歩いてくる。

 ただただ、不気味としか言いようがない。

 大体、あれだけの大きさのものがどうやって動いているんだ。

「光応答性素子が光を受けて変形する際に生じるごく微量の運動エネルギーを、数百万層の積層構造で増幅させて動力にしているのよ」

「なんだって?」

 アリスの説明は、僕に少しの理解も提供しなかった。彼女が竦めた肩に、嘲りが宿っているような気がした。

「簡単に言えばね、光エネルギーを変換してるってわけ」

 光……って、あっさりとんでもないことを言った気がするぞ。光を電気に変換しているのではなく、直接運動エネルギーに変換しているのか。それはある意味、無尽蔵のエネルギーということにならないだろうか。

「さて、ああなっちゃうと面倒くさいけど、やるしかないわね……!」

 突然僕はアリスに突き飛ばされた。

 前のめりに床に倒れ込み、膝をしたたかにぶつけた。顔をしかめて振り返ると、今まで座っていた椅子から牙のようなとげが無数に伸び、そのいくつかがアリスの右肩に突き刺さっていた。ささくれ立ったとげが、軍服を模したジャケットの袖を引き裂いていく。苦痛に顔を歪めてアリスは椅子だったものを蹴り付け、その勢いで床に転がった。

「くそったれ」

 ただゆっくり歩いていると思われた「不気味の谷のアリス」の足裏から、濃い灰色の触手が伸びていた。それが床と半ば一体化しながら、劇場のあらゆる方向に走っている。椅子を変形させたのはそのうちの一本のようだった。

 僕は触手に注意しながらアリスに駆け寄った。肩から上腕にかけて、のこぎりででたらめにつけたような傷が浮かび、生々しい切り口を露にしていた。応急処置の方法を思い出す僕の前で、溢れ出す血を左手で押さえつけながら、額に滲む汗を拭くこともなく、アリスは微笑んだ。

「先生、大丈夫?」

「ちょっと膝が痛むくらいだよ。君こそ大丈夫なのか?」

「私はいいのよ。先生に大けがでもさせちゃ申し訳ないから」

「でも」

「元はといえば、<驚異の部屋>の<読書卿>が始めたこと。そこにあいつの意図がはまり込んだことで、先生を<魔書>の作者にしてしまった。せめて先生は、無事に帰さないと、死書係としての私のプライドが許さない。それに、<文学機関>はプログラムで文章を書いているけれど、人間はその全身で文章を書いているわ。作家にとって、体は大切なものなのよ、その作風を変えてしまうほどに。そんなこともおかまいなしに人間を攻撃するようなやつは……今の世界にはいらないわ」

 立ち上がったアリスは左手に張り付いた血を振り払った。怒りを隠そうともせず、その眼差しに込めて、「不気味の谷のアリス」を睨みつける。ふっと小さく息を吐き、房になった金髪を一度払い、左耳のピアスに触れた。


「……定められた物語に望みの上書きを。行くわよ、<|断つことのできない混沌の螺旋ジャバウォッキー>」


 不意に叫び声が聞こえた。今までに聴いたことのない、余韻が尾を引くような叫び声。何か意味がある言葉のようであり、何ら意味を成さない悲鳴のようにも思えた。

 その源は、目の前に立っているアリスだった。

 その全身は鈍い光で包まれていた。何かに似ている、と僕は思った。すぐに気づいた。先ほど、<魔字>を生み出した、プリンタの中に見え隠れしていた、あの光だ。アリスは同じ種類の光をまとい、何かを抱えるように両手を体の前に差し出していた。

 ほとばしる光に重なって放たれる叫び声。

 その隙間を縫うように、ガラスが粉々に割れるような音がした。

 続けざまの破裂音は、小さな突風を生み出し顔を叩く。

 きらきらと鈍い色の埃が舞い踊り、辺りはもやがかかったように視界が悪くなった。

 「不気味の谷のアリス」が、歩みを止めた。美しい白磁のような顔の、鼻の下辺りに横一直線のひびが走った。そこから、力任せに肉を引きちぎるように、上下に開いていく。割れ目は乱杭の牙となり、初めて表情のようなものが生まれた。

 声のない絶叫。

 僕には、明らかに不快を示しているように思えた。

 目の前のアリスを、自分の中の整合性を否定する何か異質なものと認識したのか。

 突然、床や天井から飛び出した鋭いとげがアリスに襲いかかる。

 激突音。

 僕は息を飲んだ。

『……感情があろうがなかろうが、不愉快なものは不愉快みたいね。それは私も同じよ』

 ややくぐもったアリスの声には、相変わらず怒りが充填されているようだった。

 ひと際大きな悲鳴とともに、もやが吹き飛ばされた。

 「不気味の谷のアリス」が繰り出したとげが、塵となって崩れ落ちていった。

 目を細めると、そこにはやはり、奇妙な存在が立っていた。

 足元は20センチ近いヒールがあり、靴というよりはむき出しの鳥の脚のように見えた。太腿の付け根は太く張り出しており、小さな尻からは長いしっぽが生えている。細い背中の肩甲骨辺りに一対の翼を備え、やはり大きく張り出した肩から下がる腕には、鋭い爪が生えている。お面のようにのっぺりした顔には、切れ長の目だけが刻まれており、前後に長い頭からは一対の角が天を衝いていた。

 体のラインは明らかに女性のものだったが、人間というには無理がある。脚や腕が長すぎるし、翼やしっぽはあるし、何よりその造形は、そう、ガラスかセラミックのようだった。脚も腕も生物に似せられているようだが、直線的で、関節と思われる部分だけが少しくすんだ柔らかそうな素材でできているようだった。しっぽは細かいリング状のパーツが連なって蛇腹になっており、翼は形だけで風を受ける用途には使えそうにない。全てのパーツは、表面に透明な釉薬を何層にも塗り重ねたような美しい艶を放っており、その内側から漏れ出る青白く鈍い光を透かしていた。左耳に当たる部分の光がもっとも強く、一瞬そこに文字が浮かんだように見えた。



<Alice in Jabberwocky>



『終わらせようか、可愛いアリス』

 透け出している光が一瞬強くなる。

 次の瞬間、恐ろしい金切り声とともに、鎧のようなものをまとったアリスは、<不気味の谷のアリス>に向かって跳躍した。構えも予備動作もない、一体どうやって跳んだのかも分からない動き。今までアリスが立っていた床が大きくへこんでいた。

 アリスの跳び蹴りを<不気味の谷のアリス>は防御しなかった。直撃を食らって粉々に砕けた、かと思えば、まるで原生生物のように脳天から左右に分裂した。

 蹴りを外されたアリスは爪の生えた左手で相手の頭をつかむ。それすらも予想したのか、ぼろぼろと崩れ落ちた<不気味の谷のアリス>は一瞬床と同化し、次の瞬間アリスの背後に立っていた。

 テニスン描くアリスの顔は、再び不自然に鼻の辺りから大きく上下に開き、アリスの輝く左腕に食らいつく。その前に、鋭いアリスのしっぽが、顎の下から脳天を貫いた。輝く塵となって崩れる頭を気にすることもなく<不気味の谷のアリス>は移動し、再び舞台の上に上がった。PCが描き出す文字の軌跡はフラクタルな図形を描いて明滅し、失われた頭部が見る間に再生されていく。

 <不気味の谷のアリス>は人間のするように、受けたダメージを確認しない。どこかに視線を送ることもない。ガラスの眼球が本当に何かを見るためのものなのかもわからない。ただ、何らかのプログラムによるものなのか、アリスを警戒して動きを止めているようだった。

『<ジャバウォッキー>の能力は<後付けの誤植アフター・ミスプリント>。<魔書>の印刷内容を無理矢理変更するものよ。つまり、ウイルスの描き出す暗号を上書きして無効化することができるわ。当然それは、<魔字>にも有効。残念ながら、細かい制御はできないから、あんたの体を塵に戻すことしかできないけれどね』

 その言葉を理解したのか、単に別の攻撃方法を選択したのか、<不気味の谷のアリス>は再び歩き出した。

 劇場が揺れたように感じた。いや、揺れたのは劇場全体ではなく、足元の床のようだった。見ると、<不気味の谷のアリス>から伸びた無数の触手がうねりながら劇場の床を埋め尽くそうとしていた。壁も、そして見上げれば配管がむき出しの天井も。

 曇天の海面のように不気味に波打つ床や壁、天井。その波が干渉し合い、いくつもの波頭が生まれる。潮騒に似たざわめき。水銀の妙に生物的な艶に似ている。僕は、バランスを取りながら幻惑されていることを自覚した。奇妙で、不気味だが、綺麗だ。

 それが止み、凪が訪れた。

 次の瞬間、先ほどまでとは比べ物にならない数の鋭い突起物が床に、壁に、天井に、不吉に立ち上がった。

『先生、伏せてて!』

 と言われても、自分の反射神経はあまり信用できない。とにかく、何かに見とれていてはいけないので、目をつぶって床に転がった。受け身なんてとれないので、呼吸が一瞬止まる。その苦しさに目を開けてしまうと、突起物は弾丸のような早さで一斉にアリスに襲いかかった。多分、僕は悲鳴を上げた。 

 アリスの体を覆っている鎧が再び鈍い光を透過していた。

 一本だったしっぽが、いつの間にか二本になった。付け根を中心として回転するしっぽの数が、二本から四本へ、四本から八本へと増えていく。その回転運動が襲いかかる突起物を跳ね返し、同時に塵芥へと還元させている。

 幾重にも生まれる鈍い光の軌跡が、回転を止め、獲物を狙う蛇のように四方八方へと伸びる。

 もうもうと立ちこめる埃の中、何本ものしっぽをゆらゆらと揺らめかせながら背を向けているアリスの姿に、インド神話の踊るシヴァ神の姿が重なる。床、壁、天井に突き刺さるそれらのしっぽが<不気味の谷のアリス>の触手を無効化しているらしい。無様に四つん這いで眺めているしかできない僕には目もくれず、アリスは高すぎるヒールで床を踏み鳴らし、舞台だった方へ近づいていった。

 <不気味の谷のアリス>には何の反応もなかった。

 アリスの方を見ているようだが、表情はない。意思らしきものも窺えない。打つ手をなくした人間のする素振りは、何一つとして見せない。

 ただ、そこにあるだけ。

 それが不気味であり、どこか悲しげにも見えた。

『書かれたものには全て意味があるでしょうし、だからこそ<図書館>は存在している。その点では<魔字>であるあんたにも、誰かにとっては存在する意味があるでしょうね。でも……』

 跳躍したアリスは右脚を高々と振り上げた。そこにしっぽの一本が絡み付く。美しく引き絞られた矢のような緊張感。

 <不気味の谷のアリス>は頭上に舞い上がったアリスを見上げることもしない。

 悲鳴のような音とともに矢が放たれる。

 振り下ろされた踵は<不気味の谷のアリス>の脳天に命中し、鈍く輝くアリスのしっぽが触れる部分を次々と塵に帰していく。


『……私の本棚に、あんたはいらないわ(・・・・・・・・・)


 やがて、ある程度の形を保っていた<不気味の谷のアリス>が、一瞬で微細な塵となって、重力に敗北して床に崩れ落ちていった。

 同時に、アリスの体を覆っていた鎧もまた、光を放つのを止め、美しい透過性のある表面には灰色の炭が走るように広がり、少しずつ形を失っていく。

「ふう……」

 表情のない仮面がなくなると、アリスの可憐な顔が険しい表情のままで、辺りを見渡していた。霧散していく鎧を気にすることもなく床に膝をつき、先ほどまで<不気味の谷のアリス>が存在していた辺りを手で払っている。ぱ、ぱと塵が舞い上がり、その度に顔の前で手を振りながら、どうやら何かを探しているようだった。

「……ない」

 アリスの視線が、何故か傷一つないPCに移った。画面はブラックアウトして何も映っていない。そのPCの後ろ、舞台の奥の方の暗がりから姿を見せたのは、一匹の子猫だった。

「しまった」

 眉を寄せてアリスは左手で耳に触れようとした。その手が途中で止まり、忌々しげに仔猫を睨みつけた。

「時間切れか……こちらの戦闘可能時間でも計っていたか」

 黒の子猫はアリスを見上げていた。その額の奥の方に、鈍い光が透けて見えるような気がした。

「いいだろう、見逃してやる。<可哀想なチャーリー(・・・・・・・・・)>に伝えておけ、次は必ず回収させてもらう」

 しばらく黒の子猫は微動だにせずアリスを見ていたが、突然身を翻して走り出し、舞台袖の闇の中に消えていった。アリスはその後を視線だけで追い、肩をすくめて立ち上がるとこちらに歩いてきた。

「やれやれ。大立ち回りをやらかして、結局<Vタイプ>は回収できなかった。さっきの黒猫が<魔字>の本体で、<不気味の谷のアリス>はただの人形。いくらこちらが<Vタイプ>を使って戦えるとはいっても、時間も回数も限度があるから、今日は打ち止めなのよね。あぁ、残念」

 どうやら終わったらしい。

 力が抜けて、僕はぐったりと床に座り込んだ。フロアタイルの貼られていた床は、どう形容したらいいのか、コンクリートがむき出しになっており、ところどころ大きくへこんだりえぐれたりしている。壁も同じ有様で、天井にいたってはむき出しの配管や照明が今にも落ちてくるのではないかと思わせた。

「この有様をみると、とんでもないことが起こったのは間違いないけど、人にはどうやって説明すればいいんだろうね」

「基本的には内緒にしておいてね」

「言ったところで、信じてはもらえないさ」

 自分がどんな顔をしているのかなんて気にもならなかったが、アリスは顔も髪も埃で汚れており、右腕の傷は痛々しい。いくら業務とはいえ、守ったのが僕のような素人の文章書きでは、その苦労も浮かばれないというものだ。こんなとき、人間は、簡単に嘲笑を浮かべられるものなんだろう。唇をゆがめて僕は言った。

「必死で書き上げたつもりのものが、<文学機関>という人工知能に誘導された代物だった。その内容にみるべきところはほとんどない。何のために自分の時間を費やしたのか、これでは書かない方がましだったね。書かなければ、<文学機関>の実験台になることもなかっただろうし、<図書館>の、君の手をわずらわせることもなかっただろうに」

「……書かない方がましだった、か。それは、本音?」

 全身の埃を払いながらアリスは訊ねた。

「本音さ。他にもいろいろと、ぐちゃぐちゃと思い浮かぶことはある。けれど、本音であることは間違いないよ」

「ふぅ……」

 トレンチコートを拾い上げ、僕の目の前まで歩いてきたアリスは、ミニスカートの裾を気にすることもなく膝を折り、渋面のまま僕の汚れた髪に手を伸ばした。鼻先が触れ合いそうになって、僕は息を止めた。

「何……」

 僕の下品な想像などおかまいなくアリスは両手で髪をつかんだ。

 そのまま、思い切り。

 頭突きを食らわしてきた。

 突然額に熱が生まれ、瞼の裏で星が飛んだ。

「……な、なんだよ! いきなり何するんだ!」

「痛っいなぁもう……」額をこすりながらアリスは怒鳴った。「何言ってんのよ全く! 確かにね、丸谷才一は『新しいものが一つもないなら、本なんて書かない方がいい』って言ってるわよ! ……多分、丸谷だったと思うけど……それに永野護だって、西尾維新だって、『新しいことは正しい』って言ってる! そんなこと言われちゃね、書く気もなくなるってものよ! それでなくても、あらゆる創作は技術として分析され、その技術さえ駆使できればそれなりのものを作ることができる時代になっちゃったから、本当に新しいものなんてどこにあるのかって疑いたくもなるわ。

 でもね先生、だからって書かない方がましなの?

 『新しいものが一つもないなら、本なんて書かない方がいい』かもしれない、でも『全てが新しくなければ、本を書いてはいけない』わけじゃないでしょ?

 『新しいことは正しい』かもしれない、でも『新しいことだけが正しい』わけじゃないでしょ?

 先生、あなたの頭の中にあるものが『新しいのか、そうじゃないのか』、『新しいものが一つでもあるのか、そうじゃないのか』、それは書かなきゃ誰にもわかんないのよ!」

「……書かなければわからない?」

「書いて、誰かが読んで、例えば私が読んで、クッソミソにこき下ろして、こんなもん書く価値があったのか、って言われたとしたってね、書かなければこき下ろされる価値だってなかったのよ! 書いたからこそ、その価値を問われるのよ! 畢生の大作だと思って書いたものがゴミの価値もないと言われた、人生の貴重な時間を削って書いたものが嘲弄されるだけだった、誰にもその価値を認められず絶望した……それは、何かを書いた人間にしか許されない絶望なの。だったら、全力で書いて、全力で絶望すればいいじゃない! その後で世を儚んで自殺するのか、筆を折ってただの読書家になるのか、相変わらず面白くもないものを書き続けるのか、考えればいいじゃない! だからね、先生、書かない方がましだったなんてこと、ないのよ!」

「でも、結局書いたのは<文学機関>で、僕じゃない……」

「そうよ、先生が書いたわけじゃないのよ? ちょっと先生、まさか、<文学機関>の力がなかったら、書き上げられなかった、なんて思っているわけじゃないでしょうね? 何そのネガティブさ。どうして、<文学機関>のせいで、こんな本にしかならなかったんだ、って思わないの? どうして、あのくそボケ<読書卿>の作ったいい加減な人工知能が横槍入れたせいで人生最高傑作が小娘に罵倒されるようなゴミにしかならなかったんだって思えないの? これは、先生が書きたかったものでも、書きたかったものとはほど遠いものでも、書きたかったけど今はこれしか書けなかったものでもないの。どこかの誰かが先生のアイデアパクって勝手に仕立てた<偽書>なのよ! 書きたかったものはこれじゃないんだから、今度こそ、書いてみればいいじゃない!」

 ひどく熱を帯びた言葉に僕は当惑しながら、自分の中に小さな燻りが残っているのを感じていた。それでも頭は、恐れるように、恥じ入るように、どこかへ逃げ出す言葉を作り出していた。

「今度こそ? 次に書くものに、価値があるかどうかもわからないのに? 面白いのかどうかも、新しいかどうかも、認められるかどうかもわからないのに?」

「そうよ! 人から絶望させられるくらいなら、自分で絶望してみなさいよ! 今度こそ!」

「でも……<文学機関>が完成すれば、作家は滅びる、そう言っていたのは君だ。誰も本を書かなくてもいい世界が誕生する。そんな穏やかな、読書にだけ集中できる世界がいつかやってくる。それなのに、何かを書くことに価値があるのかな?」

「わかってない、わかってないなぁ先生! オールマイティーでユニバーサルな<文学機関>が完成したからって何なの? そんなのね、オールタイムベストセラー作家が誕生するってだけのことでしょ? 完成することで、<文学機関>は一人の作家に成り下がるのよ? だったら、そいつより面白いものを、そいつより新しいものを、そいつよりとんでもないものを書いてやればいいじゃない! 不可能かもしれない? 確かにそうかもね、でもそれは<文学機関>に失礼だわ。たかだか人工知能が、世界中の作家が本を書かなくてもいい世界を作る、なんて不可能に挑んでるのよ? だったら人間が不可能に挑まないでどうするのよ!」

「<文学機関>が不可能に挑んでいる……」

「それにね、例えあらゆる本が既に書かれていたとしても、書くのをやめられるほど人間の業は浅くない、と私は思っているわ」

「そうだとしても、どうやって書けばいいんだ? <文学機関>が侵入していないPCが日本には存在しているのか? そんなものはもう、この世界にはないんじゃないのか……」

「な〜にゆとり世代の言い訳かましてるのよ、先生。そんな若くないくせに」

 それは、心外だが、確かにその通りだ。

「まだ、鉛筆と紙があるじゃない」アリスは屈託なく笑った。「それが全ての始まりでしょ?」

 例え面白くなくても、新しくなくても、書きたいと思ったのなら、書いてみたい。

 書くしかない。

 書かずにはいられない。

 鉛筆と紙があれば、それができる。

 そうか……書くしかないのか。

 それが、何かを書きたい、と一瞬でも思ってしまった人間の、取り返しのつかない業、というものなのか。

「だったら……きっと、書くしかないんだね」

 燻りが小さな種火になったことを確信して、僕も笑った。

「さて、そろそろ出ましょうか先生。暴れすぎたから、ここ、危ないわ」

 先に立ってアリスは劇場の階段を上り始めた。

 ふと、僕は疑問を覚えて、彼女の背中に声をかけた。

「訊いてもいいかな?」

「何?」振り返りもせずアリスは言った。

「どうして君は、<図書館>の死書係なんかをしているの?」

「……私の目的はね先生、<Vタイプ>を全部集めて、それを使って本を書くことなの」

 足を止めたアリスの背中越しに、沈んだ声が降ってきた。

「それはつまり、<魔書>を書きたいということ?」

「結果的にはそうなるんだけど、そうじゃなくて、ただこの活字の力——<自動筆記>の力で書き上げたい本があるの。とても私一人だけじゃ書き上げられないから、イメージを受け取って表現してくれるこの活字の力を借りて、ね。あの人と過ごした時間は、どんな本を読むよりも素晴らしかったけれど、もう戻ってこないから……だから、本にしたい、と思っているの」

 アリスは振り返って、寂しそうに微笑むと、でもいつになるかわからないわ、と付け加えた。

「それでも……それでもいつか、ね」

 本を書きたい、と望む理由は人それぞれ、か。

 僕は何故、書きたいと思ったのだろう。

 何故書きたいと。

 それを思い出しながら、時間をかけて、暗い階段を上った。

「あ、先生」

 アリスに声をかけられて、視線を上げた。その左肩に、笑っている猫の顔が見えたような気がした。

「やっぱり、いろいろまずいから、ごめんなさい」


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