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(5)

——彼らは「真紅の六角形」の本——普通のものより小型で、全能で、挿絵入りで、魔力をそなえた本——を手に入れたいという欲に動かされていたのだ。——

(“La Biblioteca de Babel” JORGE LUIS BORGES)



(5)



「さっき、作者は<魔書>の影響を受けない、と言ったわよね?実は作者以外にも、<魔書>の影響を受けない人間がいるの。それは、<魔書>のウイルス抗体を持っている人間。<驚異の部屋>付属<図書館>で死書係の業務についている人間は、全員このウイルス抗体を持っているわ。他にも何人かいて、<図書館>に関係ない人でいえば、<読書卿>もそうね。もちろん、私も持っているのよ。でないと、先生の書いた本の内容を知っているはずがないでしょう?」

 確かに、よく考えればアリスは<魔書>であるはずのこの本の内容を熟知していた。事前に読んでいなければそんなことは不可能だろう。読んだにも拘らず何ら影響を受けていないということは、特別な能力を持っていることになる。

「そして、<魔書>のウイルス抗体を持っている人間には、<魔書>を読めるだけでなく、もう一つ別の能力があるの。 偽グーテンベルクの<Vタイプ>に眠っているウイルスに命令を出して、様々な特殊能力を行使する力」アリスは左耳のピアスに触れた。「このピアス、<Vタイプ>なのよね」

「……ウイルスの塊をピアスに?そんなものをピアスにしてしまって大丈夫なのかい?」

「このウイルス自体が、直接人体に影響を与えることはないからね。こうしておけば、私以外の人間が触ることもないだろうし」

 それにしても……よく見ると、銀色の輝きを放つピアスは一つだけではない。少なくとも三つはあるようだ。

「<Vタイプ>は作られて時間が経っていて、今じゃそれぞれが同位体みたいなものなの。元々は、<魔書>を書くためのペン先から増殖・分離したはずなのに、元のように一体になることはできなくなってしまった。だから、少なくとも最初に作られたラテン語アルファベットの数だけ——それも、数少ない伝承などから導き出した結論だから、真偽は不明なんだけど——、<Vタイプ>はあると考えられているわ。<図書館>死書係は、それぞれが<Vタイプ>を所持していて、自分で『死蔵処理』を行う能力を付与して業務に当たっている、というわけ。能力に名前を与えてそのイメージを括ることで、効率よく能力を引き出すことができる。

 私の場合、自分の名前がアリスだからね、『不思議の国のアリス』、『鏡の国のアリス』のキャラクターにちなんだ名前をつけているの。そのうちの一つが<チェシャ猫>。この子の<遅い火>は、仕込んでから実際に活字を消すまで、どうしても時間がかかるのが難点で、『死蔵処理』に時間がかけられない場合にはあまり効果的ではないわ。<図書館>じゃ役立たず呼ばわりされることもあるけれど、原書の損傷を最小限にとどめておけるのは自慢ね」

 それが嬉しいわけでもないだろうが、<チェシャ猫>がいると思われるアリスの左肩辺りから鳴き声がしたような気がした。ウイルスに名前をつけて、愛着を持っているように振る舞う、というのは僕には理解しがたい。いや、アニミズムの一種だと思えば、わからないでもないか。車だろうと、PCだろうと、二次元世界のキャラクターだろうと、名前をつければ愛着が沸き、そしてその物も所有者に愛情を持つ、と錯覚する。愛着が沸けば、執着が生まれる。

 ウイルスは宿主がなければ増殖できない。アリスとそのウイルスは共生関係、ということになるのだろうか。アリスが自分の業務のためにウイルスを利用しているのか、ウイルスが何かの目的でアリスを利用しているのか、そんなことは誰にも分からない。蜜月関係はいつまでも続くとは限らない……いや、承知の上かもしれない。利己的な目的でのだまし合いも、長く続けば信頼という名前になる可能性がある。

 そして信頼は、高い確率で裏切られるものだ。

 ふと見ると、アリスは表情を消していた。僕が少し長く考えごとをしていたせいで、何か不審を感じたのだろうか。

「……まぁ、先生に何でもかんでも信じてもらおう、というのも虫がいい話だけど、ともかくその本は<図書館>で死蔵させてもらうわね」

 そう言って、薄っぺらな本を僕の手からもぎ取り、コートのポケットに入れた。抗議の声をあげるつもりはない。せっかく書いた小説だけど、そもそも僕が書いたかどうかもわからない代物だ、執着もない。

「それから、このパソコンとプリンタも……」

 <文学機関>に感染しているPCと、<Vタイプ>が仕込まれているプリンタ。そっちだってとても持って帰れる代物ではないし、ぶら下げて帰る気力もない。しかし、PCの方は、中のデータがちょっと惜しい。どうせ無数のPCが<文学機関>に感染しているなら、今後あのPCを使っていても特に大過ない気がする。だったら返してもらうという選択肢もあるな。生活にそれほど余裕はない、新しいPCを買い直すだけのお金は財布にも銀行にも親元にもない。

 よし、PCだけでも返してもらおう、僕はそう決めてアリスに声をかけようとした。

 アリスは舞台を振り返ったまま固まっていた。その背中から、今まではまったく窺えなかった、張りつめたものが見て取れる。言葉が行き場を失って、当惑の中に消えた。

「何かあったの……」

 アリスの視線を追って、PCを見た。

 いつの間にかスクリーンセーバーが消えていた。

 代りにテキストエディタが起動していた。

 キーボードを叩くものはいないのに、文字が次々に打たれていく。ウィンドウは無数に展開し、その全てで文字が、一見すればでたらめのようにしか思えない文字の羅列が、高速で成長する蛇のようにのたうち回っていた。

 目の錯覚か、螺旋を描いているようにも見える。

 開いたウィンドウは文字で埋め尽くされては閉じ、ぷつりぷつりとディスプレイは不規則な明滅を繰り返していた。

「……有線でネットにはつながっていない、妨害電波で無線も絶っている、ということはスタンダロンのはずだ。それでもやる気か」アリスの声に、緊張によると思われる硬さが加わった。「<文学機関>ver.XX……自己保存機能特化型。何かを書くことだけ学習していればいいものを、余計なことを吹き込まれているわね<文学機関>も。そんなことをするから<図書館>に目を付けられる」

 一歩下がったアリスは、身にまとっていた黒のトレンチコートを華麗に脱ぎ捨てた。

「ちょっと、何が……」

「ああ、先生……騒々しくなるかもしれないから、気をつけてね。最悪の場合に備えて、取り壊しの決まっているこの劇場を舞台に選んだんだけれど、得てしてそういうときには最悪の事態が起こるものねぇ。

 先生、この世のものは言葉でできているわ。原子や分子の配列、という形も、ある意味では言葉、暗号と言える。もし、それを記述し印刷することが可能であれば、必要な物質を必要なだけ手に入れることが可能になるでしょう。今のところ、そういったものは開発されていないけれど、ナノレベルでは近いことが実現されるのも遠い日じゃないでしょうね」

 小さな花火のような破裂音が舞台から響いた。

 驚いて見てみると、相変わらずPCは意味のない文字を延々と書き出している。変化といえば、どうやらプリンタが作動し始めたらしいことだ。比較的小型のインクジェットプリンタは小さく振動しており、パーツか何かが弾け飛んだ。

「ところで、偽グーテンベルクの<Vタイプ>は、増殖・分裂したウイルスを転写することで<魔書>を印刷するんだけど、そのウイルスは内部に様々な原子を取り込むことができるらしいのね。もし、ウイルスに正しい暗号を出すことができれば、ウイルスが擬似的に物質を構成する、なんてこともできるんじゃないか……と考えた人物がいたの。そいつは、<読書卿>の作った<文学機関>に後から手を加えたのと同一人物。<魔書>を世界中にばらまこうとしているそいつは、数に限りのある<Vタイプ>を定期的に回収するために、<文学機関>にあるプログラムを仕込んだ」

 アリスの語りを背景に、異様な光景が進行していた。

 インクジェットプリンタが、唐突に、前ぶれなく、縮んだ。巨大な何かが見えない足で踏みつけたように、いや内側から強力な吸引機が吸い取ったように、様々な破裂音を立てながら平らになった。鰐のような頑強な顎を持ったものが、激しく噛み砕いているようにも見えた。

 そのあまりの異様さに言葉も出ないでいるうちに、次の変化が起こった。

 プリンタだったものの残骸の中で輝くものがあり、何色ともつかない鈍い光が少しずつ大きくなっていった。光に触れると、恐らくプラスティックや金属でできているプリンタの破片が変形していった。

 飴のように溶けたかと思えば、平たい棒状になったり、繊維状になって他の破片に絡み付いたりしながら、何か別の物になろうとしているようだった。

「時限式のプログラムは、<Vタイプ>の周囲にある物質を取り込み、変異させて、自ら稼働する小型の——そうね、そう呼んでよければ、ロボットにするのよ。そして、自分の手元に戻ってくるように仕込むのね。ただ、<文学機関>にも様々なヴァージョンが存在していて、中には厄介なことに、例えば回収にやってきた<図書館>の死書係を攻撃するようなやつもいたりするのよね」

「……攻撃?」

 僕がアリスの言葉を理解するより早く、異変はどんどん進んでいく。

 不可視の恐竜が突然虚空から飛び降りてきて、舞台の板に爪を立て、轟音を立てて引きはがしていった。袖幕が舞台の左右から、風切り音とともに何かに引きちぎられて、プリンタの残骸の上に覆い被さった。鈍い光を内側から透かした幕は、鋭い刃によって分断され、剪断され、絡み合って天井へと伸びていった。そして照明バトンに巻き付き、勢いよく引きずりおろし、轟音とともに破壊された照明のガラスがきらきらと輝く。コードが切れたせいか青白い火花が無数にほとばしり、その現象すらも取り込んだ鈍い光が一層強くなると、瓦礫の一山が何かを形作り始めた。

 その音は、声を殺して鳴く鴉のように不気味だった。

 その無色の光の明滅は、力尽きる寸前の蛍の儚さに似ていた。

 その運動は、脈動し蠕動するむき出しの、しかし無機質な、生物の内臓そのものだった。

 それらが重なり合って僕の感覚から侵入し、脳の処理速度を置き去りにしながら変貌していく。速いのではなく、あまりに多様すぎて理解が追いつかない。大画面のスクリーンいっぱいで展開される、視覚的に計算されていないCGアニメーションのように、神経の上を違和感が走り抜ける。

 今までに見たことのない光景。

 それが徐々に、統合されていく。

 客電の薄暗がりの中、舞台だったはずの場所で、人影が立ち上がった。

「それを<図書館>では、<魔字(カリグリモア)>と呼んでいるわ」

 <Vタイプ>で並べられた文字が形作る、存在。

 身長は、目の前で背を向けて立つアリスと同じくらいだろうか。金色とおぼしき髪は後頭部で一度まとめられているようだ。パフスリーブのエプロンドレスは水色で、細い手足が伸びている。肌と思われる部分は白く、頭身は幼い少女のように低い。

 どこかで見たことのある人影。

 どこだったっけ。

「……なるほどね。それなりにふさわしい姿を取るくらいに、<文学機関>も洒落がわかるようになってきたのかしら。それとも、あいつのプログラム?まぁ、どっちでもいいけれど、ほら先生、よく見てみて。あれってまるで、テニエルが描いた『不思議の国のアリス』の挿絵みたいじゃない」

 アリスは言葉に挑戦的な響きを込めた。

 そうか、あれは、ルイス・キャロルに懇願されて挿絵を描いたというテニエルの手になる、『不思議の国のアリス』に登場するアリスにそっくりなのだ。

 愛らしい、独特のタッチで描かれたアリスは、世界中にファンがいるだろう。それこそ、アリスと言えばテニエルの描いたものでなければならない、という狭量なファンも少なくない。そんな、テニエル画のアリスが目の前にいる。

 よく見れば、二次元のイラストをかなり違和感なく三次元に造りかえている。見事な造形といってもいい。 身長は170センチ近いが、頭身は10歳くらいの少女のままというアンバランスな巨大さも、着ぐるみのようだと思えば何となく許せるような気がする。

 可愛いアリス。

 それが、一歩、こちらに向かって動き出した瞬間。

 言い知れない感覚が足元から背筋を伝って脳天まで走り抜けた。

 遅れて肌が泡立ち、呼吸が一瞬止まり、ひと際大きく鼓動が脈打った。息が荒くなり、呼吸が早くなり、髪の毛がふわふわと誰かに引っ張られているように感じる。全身の毛穴がどっと開き、汗がにじみ出る。

 寒気がした。

 劇場の瓦礫で作られたテニエルのアリスは、かすかな叫び声のような音を立ててはいたが、極めて自然に動いていた。左足を一歩踏み出し、床を踏みしめるその体重移動。軽く空気を撹拌するようにバランスを取った両上肢。揺れる金色の髪。こちらを見据えるガラスの眼球。その運動は、まぎれもなく、「歩く」と名付けられた、複雑きわまりないシステムの産物。

 それなのに、恐怖を感じる。

 あまりにも自然すぎて、不自然。

 そう、それは……。

「<魔字>という呼び名はあるけれども、個体識別用にも、『何にでも名前は必要』よね、先生。私、先生のネーミングセンス、気に入っているの。きっと何か、頭に浮かんでいるわよね、名前が。どうせなら、せーの、で言ってみない?」

 首をねじって振り返ったアリスは微笑んでいた。

 あれは。

 あれに名前を付けるとしたら。

 それはまさしく。

——『不気味の谷のアリス(・・・・・・・・・・)


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