(4)
——「……たぶん、こいつは鍵の一部だ。世界という偉大な<作品>内に生きているおれたちの存在を説明する」——
(“LA CAVERNA DE LAS IDEAS” JOSE CARLOS SOMOZA)
(4)
「先生の書いたこの本」
膝の上にまたがるアリスは、手を伸ばして僕の持つ本に触れた。ミニスカートに皺がよって、裾が少しずり上がっている。やはり、あまり行儀がよくない。
「あのパソコンで書いたのよね?」
「他にPCを持つほど余裕のある生活はしていないよ」
このミステリーは、主宰や所属する役者に友人がいる、劇団魔法九のために書いたものだ。もう何年も魔法九の舞台を観劇しているが、その度に新しい感動と興奮を与えてくれる、素晴らしいものだった。もっとメジャーになってもいいのではないか、と思うのだけれど、ひょっとすると自分の偏った感性に響いているだけかもしれないので、世間の評価とのギャップは致し方ない。
この3月に、長年使用してきたこの劇場が取り壊しになり、その記念公演を劇団魔法九がつとめることになったと連絡を受けた。何度も観に来たことのある劇場だったので、劇団員ならずとも愛着が生まれている。せっかくの機会なので、僕が日頃持て余している鬱屈を、欠片も存在しない才能に託して、何年かぶりに小説を書いた。素人が思いつきで書いた、ろくに推敲もされていない代物を、主宰は何故か気に入ってくれた。今回の劇場取り壊しに合わせた内容ながら、決して明るいものではない。何年も芝居を見ているのに劇場の構造には素人なので、無謀なトリックにどこまで説得力があるかもわからない。偏った趣味の偏った表出は、万人に受けるはずもない。目新しさは皆無だ。それでも、せっかくの記念だから配ろうと言ってくれて、喜んで30部だけ印刷して持ち込んだ。ちょっとした彩りになってくれればいい、という想いしかなかった。
「殊能将之だったかな、『あらすじ美人』って表現を使っていて、特定の作家の名前は出さないけど、文庫の裏のあらすじを読むとすごく面白そうなのに、中身がそうでもない、って作品があるじゃない。でも、先生のは、あらすじどころか『タイトル美人』よね。『タイニィ・アリスと不機嫌な密室』、詩情も感じる素敵なタイトルだけど、どうにも中身が伴っていないもの」
「容赦のない批評だね」
僕は苦笑した。仕方がない、タイトルが先に浮かんでしまって、内容は後から追いかけてきたのだから。個人的には、タイトルが決まることで、様々な要素が有機的に融合し、主張し、作品の形を決定すると考えている。つまり、タイトルが決まった時点で、作品作りの半分は終わっているようなものだ。
それだけ、タイトルの力は大きい。
「それだけに、今回のように『名前負け』していると目も当てられないね」
「そうね、名前って、人間が発明したものの中でも一番だと思うわ。例えば、中国拳法のひとつの套路——型のことね——を本当に説明しようとすると、意識している躯の動き、意識していない躯の動きも含めて、その情報は膨大な量になるわ。でも、その套路に一つの名前を与えれば、その名前を聞いた人間は大量の情報を瞬間にイメージすることができる。名前が情報をくくって、イメージさせるのよ。だから、『何にしても、名前は必要だ』という、怪獣映画でも使われるセリフには真理が宿っているわ。ただ、名前のおかげでイメージを払拭できなくなる、というマイナス面ももちろんあるけど。
それはともかく、名前。私、読んだときにどこかで触れられるのか、せめて後書きでのネタばらしがあるのかと思ったんだけど、どうしてそうしなかったの?冒頭で引用して、作品の中で<暗色天幕>まで登場させて、世にも稀な暗合ミステリーである『霧越邸殺人事件』を意識していることはわかっているのに」
アリスは不満そうに唇を突き出した。
綾辻行人の『霧越邸殺人事件』は、吹雪に閉ざされた洋館に迷い込んだ劇団<暗色天幕>の面々が巻き込まれる連続殺人事件を描いている。そこで発生する見立て殺人は相当にナンセンスだが、それにも増してこの作品を際立たせているのは、館の持つ奇妙な力によって、いたるところに暗合が発生している、というところだろう。本歌取りのつもりは毛頭ないけれど、それでもいくらか意識した部分はある。
「断筆亭反筆って主宰の名前ですぐに気づくわよね。あれ、筆を『ふで』って読んで、『だんふでてい・はんふで』、引っくり返して『はんふで・だんふでてい』、つまり『鏡の国のアリス』に出てくる『ハンプティ・ダンプティ』のこと。最後の辺りで、事件を『詩情を見出して説明しよう』としているのは、『鏡の国のアリス』の中で、『ハンプティ・ダンプティ』がでたらめな「ジャバウォッキー」の詩を説明したことに引っ掛けてあるのよね?
そう考えれば、他の登場人物も、アリスの物語のキャラクターになぞらえているのではないか、と思うわ。
帽子を被っている窓輪さんは、『マッドハッター』。『不思議の国のアリス』の、「はちゃめちゃお茶会」に登場しているわ。
あまりに早く喋る番田さんは、「ジャバウォッキー」の詩の中に出てくる『バンダースナッチ』。早く動きすぎるから目にも止まらないのよね。
堂戸さんは、『不思議の国のアリス』の「コーカス競争」に登場するドードー鳥。ふざけたこの競争を仕切っている、いかめしいキャラクター。
宮園さんは、ちょっとひねりが加わっているけれど、『宮』を『キュウ』、『園』を『エン』だとすれば、『Que』と『en』で『Queen』、多分これは『不思議の国のアリス』の方の、『ハートの女王』ね。
そして、最後が根居部さん。これは難しかったわ。でも、元々の言語——英語で書かれたものを読んでいればわかるわ。『ネイベ』、つまり『Knave』のこと。普通、日本語に訳されてしまうと大体『ハートのジャック』と書かれることが多いけれど、原文では『the Knave of Heart』だもんね。『不思議の国のアリス』の最後で裁判にかけられるキャラクターよ。
そう、登場人物がアリスの物語のキャラクターになぞらえているとわかってしまえば、根居部さんの首を切ったのが誰なのかもすぐわかるわ。裁判で『ハートのジャック』の首を刎ねようとしていたのは、『ハートのクイーン』だもの、当然宮園さんよ。
まぁ大して斬新でもないわね」
「お見事」
答えながら、頬が熱くなるのを感じた。他人にネタばらしをされてしまうのがこれほど恥ずかしいとは思わなかった。ミステリーの中のトリックを弄した犯人は、名探偵に真相を指摘されてこんな気分に陥っているのだろうか。
「事件の解決も甘いわね」
どうやらアリスは追及の手を緩めるつもりはないらしい。
「根居部さんは自殺したことになっているけれど、果たしてそうなのかしら?その事実を隠すために、宮園さんは『殺人事件』をねつ造しようとした。必要のない逆さ吊りの死体、奇妙な装飾、こういったものが顕著であればあるほど、自殺したという可能性から目を遠ざけることができる。
でも、もし本当に根居部さんが殺されていたとしたら?
そして、誰かに『自殺したのではないか』と指摘してほしかったのだとしたら?
だって、証拠である頭部は結局登場しなかった。頭部がない以上、死因がなんだったのかわからない。もしかしたら、本当に殺されていたという可能性もまだ残っている。あれだけの情報で『自殺した遺体の首を切った、死体損壊事件』だと決めつけるのは、とても論理的とは言えないわ。
遺書があったというのだって、宮園さんの証言だけ。彼女が口走ったのは、『不思議の国のアリス』の最後の裁判のシーンでの、被告である『ハートのジャック』が書いた手紙の中の一節だから、恐らく意味はないんでしょう。でも、もし本当の遺書があったとしても、根居部さんが自分の意思で書いたとは限らないわ。例えば、作中のお芝居『憂鬱の国のアリス』冒頭で根居部さん演じるチャールズは首吊り自殺をすることになっていた。『芝居の中で使うための遺書を書こう』とかなんとか誘えば、本人直筆の遺書が手に入るじゃない。
こうなると、犯人は宮園さんだけなのかしら?
確かに、宮園さんはあの密室状況——犯行時刻前後に劇場の鍵がかかっていて中に入れなかった——のおかげで偽のアリバイを手に入れることができた。でも、あの状況で確固たるアリバイを手に入れた人はあと二人いる。部外者の『僕』と一緒に行動していた、主宰の反筆さんと窓輪さんよ。ひょっとしたら三人は、いや劇団全員は共犯者で、『僕』を利用して宮園さんのアリバイを確保させたのではないかしら。
根居部さんを殺したかった動機?そんなこと知らないわよ、私は探偵でも名探偵でもないもの。でも、あの劇場を取り壊すにあたって、愛着のある根居部さんと、他の劇団員の間で何か確執があったのかもしれないわね」
「なるほど、確かにその通り」
タイトルを決めてしまった以上、密室を登場させなければならない。しかし、この劇場をモデルにした劇中の劇場で密室殺人のトリックを考えるには、とてもじゃないが才能が及ばない。仕方なく、できそこないの密室をでっち上げてはみたものの、それを応用するだけの事件を起こすことができなかった。本格ミステリの壁は高い。
「ミステリーとしても、ナンセンス小説としても、文芸作品としても三流以下。目新しさもないし、評価できるポイントがほとんどないわ」
趣味で書いたとはいえ、ある程度読者を限定していたとはいえ、さすがにここまで言われるといい気分ではない。それでも僕が言い返せないのは、全て的を射ていたからだろう。
「面白さも、新しさも、価値も何もないものを、人生の貴重な時間を消費して書いた。笑われて当然だね」
しかし、アリスは笑っていなかった。真摯な目つきで眉を寄せ、手を伸ばして僕の顔を挟んた。ガラスのように冷たい手が心地よい。
「でも先生、これは本当に先生が書きたかった小説なの?」
「書きたかった?」
書きたかったとはどういうことだ?
「書きたいと望んでいるものが書けるくらいなら、世の中の全ての人は小説家になれる。そうじゃないから苦しんでいるんだ。狂おしいほど切望するのに、書きたい姿にはならない。だから筆が止まり、ときには筆を折り、煩悶としながらアイデアを捨てる、そんなことを繰り返しても、一つの作品を書き上げることは簡単じゃないんだよ」
「そういうものかも知れない。それでも、先生は書き上げた。それが描いていた理想とは違っていても、確かに書き上げたの。訊きたいのはね……」アリスは目を細めて、視線にいくらかの哀れみを込めたようだった。「そこに達成感はあった? 理想とはほど遠い、という失望は? しかたがない、今はこれしか書けないのだ、という諦めは?」
「……」
そう、そうなのだ。
僕には、それがない。
出来上がったものは、確かに完結していた。書いている最中は驚くほどに筆が走るのがわかった。今時筆が走るという表現が実際的ではないとすると、キーボードを叩く指が走った。続きを書かなければならないという脅迫めいた観念が指を走らせた。何日も何日も、時間があれば書き続けた。休みの日なんて、それだけで一日が終わった。
その結果でき上がったもの。
苦労と疲労の結晶。
それなのに、達成感がわき上がらなかった。
理想していた形とは違う、という失望がなかった。理想としていた形が、分からなくなっていたからだ。
諦めるしかない、と思えるほどの実感がなかった。
「……<読書卿>とAI<文学機関>が日本に標的を定めた理由は、日本語変換機能にある、と言ったわよね?」
「……さっき、そんなことを言っていたね」
「<文学機関>は文章を学んでいる最中。パソコンを使って文章を書く、そのほとんど全てをモニターし、膨大な作例をかき集めているの。でも、ただ学んでいるだけではないわ、少しずつ実践もしている。それは極めて控えめに、用心深く実施されている。だから、パソコンの前にいてキーボードを打っている人には気づかれない。少しずつ、少しずつ、自分が手に入れた文章技術を試しているのよ」
「試している? でも、どうやって?一体何を試しているんだ?」
「現代において使用されている言語体系の中で、恐らくもっとも複雑な形態を持つ日本語。パソコンの日本語変換プログラムは、どのような方向で発展していったか?いえ、そもそも言語はどのようなものなのか。使われることが言語の価値、だったら誰にでも使いやすいように進化していくのが自然よね。できるだけ簡単に……日本語変換機能においてもそれは同様。使用者のストレスをできる限り軽減し、快適に文章作成が行えるような方向に進化していく。そう」アリスは唇を歪めた。「それが、学習機能と予測変換」
学習機能と予測変換……PCや携帯電話で文章を打ち込んでいると、使用頻度の高い言葉が変換リストの上位に現れる。それは、自分の使用頻度だけでなく、インターネットを介して集められた全国の文章作成者の使用頻度も含まれている。日本語で文章を書く人間であれば、誰もがその恩恵に預かっていることだろう。
「<文学機関>は慎重に実験をしている。誰かが日本語で文章を作成する、その予測変換機能に割り込んで、別の言葉を——自分が使わせたいと思っている言葉を挿入する。そのとき生じる違和感は、人間に認識できるかどうかのスピードだわ。もちろん、その文章を打っている人は、ミスタイプをしたのかもしれないと思ったり、自分の望んだ言葉ではないと考えたりして、修正することもあるでしょう。それすらも、<文学機関>にとっては学習の機会。そうやって、岩が水滴で穿たれるようにして仕込まれる<文学機関>の実験は、次第に書き手の違和感を払拭し、まるでスムーズに文章が書けているかのような錯覚に陥らせる」
筆が走る。
キーボードを叩く指が走る。
それが……。
「やがて予測変換は、書き手の思考スピードさえ超えて、いわば『超予測変換』として、<文学機関>が望む文章へと誘導していく。プログラムが書き手を追い越していくのよ。そのシークエンスを身につけるのに最適なのが、日本語という言語なの」
それが全て、AIのせいだと。
作者の想いを追い越していく、それはメタ領域の話だ。
自分で書いていると錯覚しているのは書き手だけで、全ては電子の神によって導かれている。
神がかって書かれる<自動筆記>……そう、<自動筆記>だ。
これが、<読書卿>と<文学機関>が望む、<自動筆記>のあり方。
「何故、そんなことを?」
「……言ったでしょ、<読書卿>に興味があるのは<文章を書く>ことだけ。それは、彼が<文章を書く>ことを望んでいるからじゃないのよ。<文章が書かれる>ことを望んでいるからなの」
「文章が……書かれる?」
「ヴォルター・ベンヤミンは、『作家とは、貧乏で本が買えないからではなく、本は買えるのだが売っている本は気に入らないからという理由で本を書く人々なのだ』と言っているわ。<読書卿>も似た思想を持っている。もっとも、ベンヤミンはそれとは別に、本を集める方法の中で『もっとも称賛に値するのは、自ら本を書くという方法だ』とも言っていて、作家への暖かい眼差しも持っているけれど、<読書卿>にとって作家という人種は、この世界でもっとも哀れむべき存在なのよ。それは、『本を読む時間を削ってまで本を書かなければならない』から。
<本を読む>ことが至上の<読書卿>にとって、それはあまりに悲劇的、絶望的なの。だから彼は、<文学機関>をプログラミングしたわ。ジョイスの『ユリシーズ』を読みながら。人工知能プログラムにしたのは、それ以降メンテナンスをする必要がないように、なの。<本を読む>時間を必要以上に奪われたくないから。
<読書卿>はね、本が好きなのに、本を読む時間を本を書くことに奪われている全ての作家を解放したいと願っているの。もう自分で本を書くことがないように、人間が書き得る全ての本を無限に生み出し続ける<文学機関>によって。そうすればもう、誰も本を書く必要がなくなる。今はまだ、<文学機関>にそれだけの能力はない、でも少しずつ、作家というものは滅亡に向かっているの。誰も本を書かなくてもいい世界、それが<読書卿>の考える理想の世界なのよ」
誰も本を書かず、ただプログラムが書いた本を読むだけの世界。
何かを書こうと思っても、それが既に書かれている世界。
読みたい本を、与えられるだけの世界。
そんな世界が、理想的なのか。
いや……そうか。
ただ、本を読みたい人間にとっては、誰が書いているかなんてどうでもいいのだ。
ただ、面白い本がそこにあればいい。
読む本があればいい。
次に読む本が残っていればそれでいい。
それは、今だって変わらないではないか。
そんな世界に比べれば、<読書卿>の理想の世界のほうがまだましじゃないのか。少なくとも<読書卿>は、作家のことを考えてくれている。
そうか……そうやってこの本は<文学機関>の力を借りて、書かれたのか。僕の手の中のこの本は、確かに自分の頭の中にあったアイデアなのに、出力されてみれば、目新しさはなく、評価すべき点もなく、形になったことですら人工知能プログラムの助けを借りていたのか。
悔しさなのか、寂しさなのか、それともこれが絶望なのか。脈打つ心臓が石のように重い。体が震えない。目が乾く。涙が出ない。
自分が書いた本ではない。
それが、<魔書>と呼ばれて糾弾されている。
本当に<読書卿>という人が、作家を救いたいと思っただけなら、書かれた作品が<魔書>である必要はない。ただの本、どれほどくだらなくても、三文の価値もなくても、ただ読まれるためだけに存在する普通の本でよかったはずだ。
「どうして、その<読書卿>という人は、<魔書>を生み出すようなシステムを作ったんだ?」
「……そこが面倒くさいところなのよね」
アリスは、本を握りつぶそうと震える僕の手に自分の手を添えて、優しく言った。
「<読書卿>が理想とする世界を作り出すために、<文学機関>をプログラミングしたのは確かよ。でも、それなら別に、偽グーテンベルクの残した<自動印刷機>は関係ないでしょう? 何を使って印刷されても、<読書卿>にはどうでもいいのだから。彼にとっては読むことが全て、<読書>を愛して病まないけれど、<本>を愛しているわけじゃないの。読んだ本に興味はない、読まれていない本にこそ価値がある。
それに、<読書卿>は<自動印刷機>に使われた、ウイルスでできた活字——<Vタイプ>が、<魔書>を生み出すものだなんて知らなかったのよ。彼にとってそれは、あくまで<文学機関>のインスピレーションを与えてくれた不思議なものでしかなかった。
つまり、誰か別の者が、<読書卿>の理想を隠れ蓑にして、世界中に<魔書>をばらまこうとしているのよ。<文学機関>によって書かれた本を、<自動印刷機>の活字を使って印刷することで」
アリスはやっと僕の膝から降りて、ミニスカートの裾を直すと、トレンチコートを翻しながら舞台を振り返った。かすかな残り香が一瞬の風に消える。
そこには僕が持参したPCとプリンタが置かれている。
この本を書いたPCと、印刷したプリンタ。
「偽グーテンベルクは、<自動印刷機>を教会の地下に破棄したけれど、その活字の元となったペンはそれ以後行方不明。きっと誰かが受け継いでいるのでしょう。だから、そのペンで書かれた<魔書>が今もどこかで生まれている。それとは別の方法で、新たな<魔書>も、ね。
<読書卿>が興味を失ってどこかに売っぱらった<自動印刷機>を、誰が買い取ったのか、<図書館>でもつかんでいないわ。でも、<自動印刷機>が行方不明になり、<文学機関>が実験を始めた頃から、<魔書>の出現率が高くなった。<図書館>はこう推測しているわ。何者かが、<自動印刷機>の活字を、どこかの印刷機に仕込んでいるのではないか。それも、世界中の」
「……でも、確か<自動印刷機>の活字は、ラテン語のアルファベット一通りくらいしかなかったんじゃないか? もし変形させることができても、通常の活版印刷のようには使えない。一ページを構成するには活字の数が少なすぎる」
「方法はわからないけれど、偽グーテンベルクはウイルスを増加させたんでしょうね。でも、いくら数を増やしても、一台の印刷機で印刷できる書物には限界があるでしょう? 効率が悪い。
どうやらその人物は、<魔書>が何故<魔書>なのかを解き明かしていたのね。そして、<読書卿>のときと同じように、時代がその人物に味方をした。金属活字を必要としない印刷技術、インクジェット、レーザー、様々な方法。それを利用して、その人物は<魔書>を印刷することにした」
「……ちょっと待て」
僕は話を切った。肝心なことを聞き忘れている。
「そもそも、<魔書>って何なんだ? 何が<魔書>を<魔書>たらしめているんだ?」
「ああ、そうね」
アリスは僕に背中を向けたまま、顔だけで振り返った。表情がこわばっているような気がした。緊張しているのか。
「偽グーテンベルクの活字が結晶化したウイルスだということはさっき話した通り。そして、そのウイルスと反応する同種のウイルスが存在するの」
「そんな物騒なものが他にもいるのか」
「いるのよ。ここにね」
アリスは人差し指を立てて、自分の頭を指した。
「ここ?」
僕は同じように頭を指差す。
アリスはうなずいた。
「人間の中に潜在的にいるウイルス。そのウイルスが、<魔書>によって活性化し、人間に深刻な影響を与えるの。最悪の場合、死ぬわ。
現在判明しているプロセスは、こう。結晶化したウイルスは、人間の思考によって活性化・増殖し、何かに<書かれる>ことで、その書物に転写される。転写されると、その文字、文章、図柄、それ自体が暗号となって、その暗号を認識した——つまり<読んだ>人間の中で不活性化しているウイルスに対して反応、特定の命令を与える。それがどんな命令なのか、それをコントロールできるのか、それらはまだ研究中だけれど、書き手の何らかのイメージが現れていることが多いようね。
先生の書いた本、それを読んだ中の何人かが発作的に自殺を図っているわ。ただ、今のところ実際に死者はいないから安心してね」
安心できる話ではない。
この本で、自分が書いた本で、誰かが死のうとした。
こんな本に興味を持ち、手に取り、読んでくれたというのに、その人を理由もなく死に追いやろうとした、というのか。
自分が書いた、この本が。
<魔書>……アリスがそう呼んだ理由がようやくわかった。
薄っぺらい本が、突然恐ろしくなった。
こんなものは。
「あ、待ってね」
破り捨てようと本を両手でつかむと、アリスがあわてて駆け寄ってきて押しとどめた。
「どうして止めるんだ? これを書いた責任は僕にある。だったら、僕にできることは、この本を破り捨てることくらいだ」
「さっきも言ったけれど、この本は、正確には先生だけが書いたものではないから、そこまで責任を感じる必要はないの」
「しかし」
「<魔書>の出現率と、<文学機関>が実験を始めた時期が一致している、って言ったわよね? <読書卿>は自分が作った<文学機関>がどんな風に彼の理想を実現していくのか、には興味がなかったの。ただ、日本を最適な実験場として設定しただけ。
それに便乗した何者かが、<文学機関>のプログラムを一部だけ書き換えたの。紛れを少なくするために」
「紛れってどういうこと?」
「人間の思考って電気信号のやりとりのはずなんだけど、そのメカニズムはよくわかっていなくて、トンでも話によるとその思考スピードから超伝導物質が関係しているんじゃないかと思われているの。まぁ、とにかく、よほどの天才でもないとノイズが走って安定しないのね。自然界で生き残るために脳を発達させたのは、状況の変化に瞬時に対応できるように、なんだから、当たり前といえば当たり前なんだけど。
だから、ウイルス結晶体の活性化も不安定で、そうすると増殖・転写されるウイルス暗号もまた不安定になり、歴史上<魔書>と言われているものもあまり強力じゃない場合が多い。その紛れを少なくするためには、どうしたらいいと思う?
それはね、出力に特化した存在がいればいいの。他のことを考えず、ただ安定して出力するだけの存在——それには<文学機関>がうってつけなのよ。だからこそ、<魔書>を普及させたい何者かは、<文学機関>の実験によって書かれた文書が、ウイルス結晶体の活字を仕込まれた印刷機にデータを送ることで強力な<魔書>を効率的に生み出せるようにし、<文学機関>のプログラムを変更して、<Vタイプ>が仕込まれた印刷機とリンクした場合に、その実験の割合を増やすようにしたの。今や<文学機関>がどの程度ネットではびこっているのかを調査するのは難しいし、<Vタイプ>が仕込まれた印刷機がどれなのかを判別するのも難しい。今回は、先生がたまたま買ったあのプリンタに、<Vタイプ>が仕込まれていただけなの。だから、先生の責任ではないのよ」
「あの、有名メーカーの新型プリンタに、<自動印刷機>の活字が仕込まれているだって?」
僕の視線の先には、鈍い銀色のプラスチックで構成された、大人が抱えられるほどの大きさの箱があった。購入したのはわずか三ヶ月前、そのときに型落ちになっていなかったということは、発売されて一年も経っていないんじゃないだろうか。そんなものに、ウィルス結晶体の活字が仕込まれている?
「あれって、インクジェットプリンタだよ。活字なんか使っていない。どうやってウィルスを転写するんだ?」
「インクジェットなら、インクの噴出口辺りに取り付けられているわね。飛ばされるインクに乗せて、増殖したウイルスが転写されるの。レーザーにしろ、転写する方法が違うだけで、何らかのインクを使うのには変わりないから、そのシステムのどこかに<Vタイプ>が仕込まれていればいいの」
「……つまり、ランダムに仕込まれた<Vタイプ>が、たまたま巡ってきたということなのかな。作家でもなく、売文家でもない、単なる素人のところに」
なるほど、それは不幸中の幸い、ということか。
「そして、最初に言ったように、<図書館>は本を蒐集しているわ。それが例え<魔書>であろうと、いいえむしろ<魔書>であるからこそ、そんな貴重なものを蒐集しないわけにはいかないのよ。とはいえ、<魔書>がその能力を持ったままではまずいから、私のような死書係が、『死蔵処理』をするというわけ。
さて、そろそろかしら」
アリスはそっと金髪の房を払った。左耳のピアスが怪しく輝く。ぼんやりとした、陽炎のような揺らめきがアリスの左肩に見えた。照明の加減か、埃がたゆたっているのか、透明な何かがそこにいるということが、何故かわかった。
透明なのに。
「ちーん。はい、時間です、出来上がり〜」
手を合わせてアリスが軽やかに告げた。電子レンジか何かの形態模写だろうか。
「先生、本を開いてみて」
「……本を?」
この、<魔書>を?
何人も自殺に追い込んだ、ウイルスが転写された<魔書>を開くのか?
すぐにでも握りつぶせそうな紙の束が、鉄条網でも纏っているように、無機質で禍々しさに満ちていると感じた。どこかへ投げ捨ててしまいたいが、既に何かの棘が掌に刺さっているのか、放せそうにない。
「大丈夫よ」僕が怖じ気づいていると、アリスは笑った。「<魔書>は、それを書いたものの中に潜在するウイルスには影響を与えられないの。作者の特権というやつね。だから、開いてみて」
ここまで来て信用しない、というのも何だかおかしい気がした。勇気を奮い立たせて、適当にページを開いた。
××××××××××
……
そこから物語はも すごい速さで動き出した。
繰り広げられているも を、僕は呆然と眺めていた。映像を処理する が苦手なせいで、何が起こっている か、置いていかれまいとするのが精一杯だった。テキストを追う は得意な で、ストーリーは頭 中で組み立てられていく。しかし、それがイメージを作る前にもどんどん物語は進んでいった。役者は絶叫し、ときに意味 ないと思われるシーンがねじ込まれ、突然踊り出し、かと思えば歌い出し、まったくわからないが落語が始まったりした。
これはいったいなんなんだろう。
いつの間にか、汗をかいていた。視線をそらせなかった。混沌としたエネルギーに満ちていたが、繰り広げられるも はただただ空虚だった。まるで意味がない。こんなことに、役者達は何故必死になっているのか。
そこでようやく、先ほど 若い役者扮するチャールズという男だけが、まともな様子な に気づいた。
そして、それ以外 役者は、誰もが「意味 ないこと」を「意味があるように見えるに、実は意味がない」ように演じていることがわかった。しかし僕にはもう、わけ わからない世界だった。空虚だと思わせるために、すさまじい熱量が込められている。しかもそれが、みるみるうちに消費されていく。
これはいったいなんなんだろう。
「憂鬱 国」と呼ばれる世界で一人だけまともなチャールズは、どうやらこ 空虚な世界では「言葉」が意味と力を失ってしまった だと気づいた。女王であるアリスを探し出せば、秩序を取り戻せる ではないか、そう考えたチャールズは、世界中を旅しながら、様々な「言葉」と戦い、世界には少しずつ秩序が取り戻されていく。
そして混沌は立て直され、秩序は回復し、彼 探し求めたアリスが女王の座に座って……いなかった。
「憂鬱 国」 女王であるはず アリスは、この世界には存在しない だ。時が過ぎれば、アリスは去っていく。アリスが去ったから、こ 世界は「憂鬱 国」となった。そして、「憂鬱 国」が言葉 意味と力を取り戻して「現実 世界」になったところで、そこにチャールズ 探し求めたアリスは、彼が愛した純粋で無垢で、ナンセンスな言葉を何よりも好んだアリスはもういない。
『どこを探したって見つからないじゃないか!』
そう叫んで、それでもチャールズは——チャールズ・ドジソン——すなわちルイス・キャロルは、時間が奪っていった彼だけ アリス・リデルを探して世界を彷徨う。
ストーリーを追いかければ、そういう話な だろう。しかしそれは、観終わってから、断片をつなぎ合わせた僕の解釈で、観ている最中にはそんなことを思う暇もなかった。ただただ絶望的なから騒ぎを繰り返す登場人物達、それに無謀な戦いを挑むチャールズ 力強さと、そして絶望。から騒ぎ ままがいい か、現実はそれより少しはましな か、そんな葛藤が叫び声に変わり、虚空に向かって放たれる。
……
××××××××××
一瞬、違和感に気づかなかった。
もう一度ページをじっくりと見てみて、何か変だとわかった。しかし、何が変なのかを発見できなかった。
三度目に読み直して、ようやく気づいた。
文章の中から、何文字かが抜けている。このまま読んでも何とか意味をとることはできるが、ひどく読みづらい。若干の苛立ちを感じながら読み続けると、<文章機関>の干渉があったとしても作者の片棒を担いだ身、何の文字が抜けてしまっているのかがわかった。
「『の』だ……」
僕は慌てて全ページを見返し、この本から「の」の文字だけが消え失せていることを確認した。アリスに視線を移すと、何故か顔をしかめていた。
「そんな使用頻度の高い文字を……まぁ勘弁してあげて、加減がわかんないの」
……加減?
「<Vタイプ>で印刷された書物の文字や図柄は、現存の化学薬品で消すことができないことがわかっているわ。濡らすのもだめ。凍らせてもだめね。一番は燃やすこと、なんだけれど、<図書館>としては、『本』はできるだけ現状維持で収蔵しておきたいものなのよね。
だってそうでしょう? 『本』は、その装丁、厚み、紙の種類、判型、活字の種類、段組み、図版、そういった全ての要素を含めての『本』なんだから、それが<偽書>であろうと<魔書>であろうと同じことよ。でも、<魔書>だけは、そのままで収蔵しておくわけにはいかない。<死蔵>している以上、<図書館>から外に出る可能性は非常に低いけれど、万が一、誰かの目に触れる可能性がある。だからこその『死蔵処理』。
<魔書>がその効力を発揮するプロセス、覚えてる?」
プロセス。
「確か、『ウイルスが転写された文字、文章、図版などが暗号となって、その暗号を認識した——<読んだ>——人間の中で不活性化しているウイルスに、特定の命令を与える』だったっけ?」
「そう、つまり<魔書>は、印刷されたその全てが、ウイルスに反応させるための暗号なの。そして、そのどれかが欠けただけで、暗号は暗号でなくなって——命令が正確ではなくなるのね——効力が激減する。それを『死蔵処理』と呼んでいて、私たち死書係はそれぞれいくつかの『死蔵処理』方法を持っているの。
私の場合、一つは<遅い火>。本来の図書館学用語としては、『近代以降使われている木材パルプを原料とした酸性紙が、化学変化によって緩やかに劣化していく現象』のことで、原因は、そもそも手梳きの和紙や麻などを原材料とする洋紙に比べて強度が弱い機械梳きのパルプ紙に対して、にじみ防止などの化学薬品が添付されたため、だと考えられているわ。私の場合は、特定の文字の印刷だけを、ウイルスを分解しながら消滅させる、ということ。そうすれば、<魔書>の『本』としての価値はできるだけ保持しながら、その内容が何だったのかについては、紙を一枚——『「の」の文字を空白に入れること』とでも書いた訂正表みたいな紙を挟んでおけば確認できる。そして、それを行うのがこれ」
そう言ってアリスは、自分の左肩辺りを指先でくすぐった。何かのうなり声のような音が響く。いや、どこかで聴いたことのある音……そう、猫が喉を鳴らす声に似ている。
見えるのに見えない猫。
消えたり現れたりする猫。
それは。
「<遅い火>の<チェシャ猫>」アリスは微笑んだ。「一応、アリスだからね」