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(3)

——ある本によると、猿がでたらめにキーボードを叩いて、『ハムレット』が生まれる確率は、10の46000乗に1回。宇宙全体に10億個の銀河があるとして、銀河ひとつひとつに10億個の星があり、その恒星のまわりを各100個の惑星が回っていて、惑星ひとつひとつに1000億匹の猿がキーボードを宇宙誕生以来かわりばんこに150億年叩き続けたとしても、宇宙全体の時間は10の46乗にしかならない。——

(『ZEЯRO』松田行正)



(3)



 アリスが何を話したいのか、僕にはわからなくなっていた。とても信じがたい自らの素性を明かし、さらに信じがたいおとぎ話を続けている。まるで意味のない空虚な一人芝居を見せられているようで、これ以上耐えられそうになかった。手の中の本を丸め席を立とうとすると、すっと忍び寄ったアリスが突然抱きついてきた。

「何を……」

「だめよ先生。まだ話は終わってないんだから」

「僕に、その話を聞き続ける責任があるっていうのか?」

「責任はないわ。でも、知りたいでしょう? どうして先生の書いた本が<魔書>に認定されたのか。何故、自分が書いたはずの本なのに、その確信が持てないのか」

 アリスは微笑んで、尖った顎で僕の鎖骨の辺りを撫でた。触れ合う衣服の衣擦れの音は滑らかで、密着した躯は思ったより肉感的だった。そのまま椅子に押し付けられると、僕の太腿の上にまたがったアリスは、房にしている美しい金髪を気だるそうに少し持ち上げて、唇でなぞった。

「<図書館>の話も含めて、部外者にはあまりしてはいけないんだけど、私、口が軽いからしかたがないの。もう少し聞いていっても、罰は当たらないでしょう?

 偽グーテンベルクは、自分が作り出したものの価値を量り、恐怖にとらわれた。仮にその印刷機が<自動筆記>を行えるのだとしたら、そして印刷されてきた本が<魔書>として特別な力を持つのだとしたら……もしそれが権力を持つものの手に渡れば、世界はどうなるだろう。彼が、教会を正しく導こうとして作り出したものが、世界を崩壊させてしまうかもしれない。今はまだ、民衆の識字率が低いが、誰もが本を読むような時代が来たとしたら……そして彼は、印刷機をばらばらにしてどこかへ持ち去り、姿を消した。

 そして最後に登場するのは、心優しい一人の狂人。本来であれば何ら害のない、ただの読書好きな人物。問題は彼が、偽グーテンベルクが作り出した<自動印刷機>の残骸を手に入れたこと」

 アリスの声に憂いが含まれた、気がした。

「第二次大戦後、シュトラースブルク近郊の教会の地下から発見されたその残骸に意味を見出す人は、彼の他にいなかった。彼は残骸を丹念に調べ、初期の活版印刷機ではないかと考えた。それにしては、一緒に発見された、元々は金属活字だったと思われる金属片の数が少なすぎたけれど。ともかく彼は、それを復元し、印刷し、そして偽グーテンベルクと同じように<自動筆記>がなされることに気づいた。何らかの条件で活字は変形し、操作している人間が思い浮かべた文章を勝手に作り出す。

 彼はまず、その金属らしき活字を調べることにした。その結果、金属と思われていたものは、結晶化したウイルスではないか、ということがわかったわ。生物とも物質とも言えないけれど、何らかの刺激——つまりエネルギーを受け取ることで自らを複製して増殖する。本来、ウイルスは代謝機能を持たないので、他の生物の細胞に感染することでしか増殖できないんだけれど、その未知のウイルスは感染することなく、別の方法でエネルギーを取り込んで増殖することができた。どこからエネルギーを取り込んでいるのか、何故文字の形をとるのか、についてはほとんど何もわからなかった。でも、明らかに、近くにいる人間の思考が関係していることは理解できた。それが<自動筆記>を可能にしている、ということがね。

 ところで先生、世の中には『短歌滅亡論』っていうものがあるんだけど、聞いたことある?」

 また唐突に、妙なことを言い出した。雅な雰囲気の短歌という言葉に滅亡とは、やけに物騒な印象を受ける。僕は聞いたことはないが、何となく内容は分かる気がする。短歌という形式の文学がいつまで続くのか、というような話か。

「ま、あとでネットで検索してもらえばいいんだけれど。その中で、短歌の持つ必然的な滅び、というのがあって、要するに短歌って、5・7・5・7・7の31文字で成り立っているでしょう?あ、字余りとかはとりあえず考慮に入れず、ってことで。で、日本語の表音文字の種類って、五十音に濁音半濁音を加えて、大体75文字なの。そうすると、短歌の作りうるパターンというのが『31の75乗』通りしかないのよね。俳句にいたっては、『17の75乗』通り。これだけしかないのだから、いずれこの文学は滅びるだろう、という危惧を抱いている人たちがいるのよ」

「なるほど、数量的な問題なんだね。文字の配置によっては、文章としての意味を成さない短歌も生まれてくるから、実際にはもっと少ない数になる。滅びを宿命づけられている、日本人らしい美しい概念なのかも知れないね」

 僕が答えると、アリスはまじまじと僕の顔を見つめ、煙草の煙を吐き出すように桃色の唇をまん丸にして、最終的には、品なく吹き出した。

「あーはははは!ああ、ごめんなさい先生。そんな深刻そうな顔しないで。だって、31の75乗って、いくつになるかわかる?31の6乗だって、8億8750万3681、7乗の時点で普通の計算機じゃ計算できないわ。『31の75乗』通りの短歌を作る前に、多分宇宙が静止している。つまり、無駄な心配というわけ。でも、世の中には真剣にそんな心配をしている人もいるのよ。

 また別の話だけど、『ガリヴァー旅行記』、知ってる?」

「……中学生にするような質問だね」

 ジョナサン・スウィフトの書いた諷刺文学で、船員ガリヴァーが様々な土地を旅する物語。当時のイギリスを諷刺しているらしいこの物語は、時代を経て読めば純然たるファンタジーか、それともナンセンスの塊としか思えないだろう。通読したことがあるのか、と問われると胸を張って答えられないが。

「最近じゃ、文学便覧に載っているような名作を読んでいない人も多いじゃない。何となく知っていればオッケー、みたいに。まぁ、それはいいんだけれど。某アニメのおかげで有名になった、空を飛ぶ島ラピュータが支配するバルニバービ島の首府ラガードーの学士院に何があったか覚えている? ちなみにラピュータもラガードーも、娼婦って意味なんだけど、それが子供向けのアニメで大々的に使われているのもなんだか皮肉よね」

 ラガードー学士院……何か、機械があったような記憶がある。挿絵が入っていたような気もする。僕がどんな版の『ガリヴァー旅行記』を読んだか覚えていないけれど、巨大な四角い機械で、たくさんのハンドルがついている。機械の中には文字が書かれた盤面があって、ハンドルを回すとその盤面が回転し、勝手に文章を作り出す……アリスを見ると、にやりといたずら猫のような笑みを浮かべた。

「そう、自動記述装置とか、単に機関とか、あるいはより疑似科学的に<文学機関(リテラリ・エンジン)>とか呼ばれるその装置には、その国で使われる単語が全て掲載されていて、回転させることで自動的に単語が組み合わされて、文章を作り出すことができる。ラガードーではそれを500台つなげて、百科全書を作るのが目的らしいんだけど、当時の空想的な科学者を自称する人たちへの、スウィフトなりの最大の嘲笑よね。まさしく、空想の産物。

 でも、それを実現したい、と考えている人がいるのよ。偽グーテンベルクの<自動印刷機>を復元した人。世の中で何よりも本を読むことが大好きな人。自分の人生を、本を読むことに捧げたかった人。それが<驚異の部屋>の一員、<読書卿>と呼ばれている人なの」

 <驚異の部屋>の一員、ということは、アリスの同類ということか。誇大妄想を弄ぶには十分な資格があると言えそうだ。

「それで、その<読書卿>が、何だっけ、偽グーテンベルクの<自動印刷機>を手に入れて、世界を支配しようとでもいうのかな」

「いいえ、<読書卿>はとても優しい人。ただ、全人類に、読書の素晴らしさを伝えたいだけの人なの。<驚異の部屋>に所属しているくらいだから、いろいろな能力が飛び抜けているんだけれど、本人は読書ができればそれでいい、隠居のおじいさんみたいな人なのよ。そんな人が、<自動印刷機>を手に入れたら、何をすると思う?」

「誇大妄想趣味のある優しい隠居老人の考えることなんて、僕にはわからないよ」

「そうよね。私にもよくわからない。でも、彼の行ったことは<脅威の部屋>ではよく知られているわ。

 彼は、<自動印刷機>の要が、ウィルスでできた活字——<図書館>では<Vタイプ>と呼ばれているけれど——にあることを知り、何らかの方法で人間の思考がその変形に影響を与えていることをつかんだ。では、真の<自動筆記>、ラガードー学士院の機械のような自動記述は可能になるのか。いいえ、それは無理だわ。文章が自動的に作られる、といっても、そのためには人間の思考による入力が必要になるから。それはそうよね、印刷機はどこまでいっても印刷機でしかない。原稿、データがなければ単なる機械の塊。チャールズ・バベッジの<階差(ディファレンス)機関(エンジン)>はすぐれたアナログコンピュータだけれど、数字を入力する人間がいなければどんな計算も行えない。それ自体で閉じたシステムではないのね。

 だから<読書卿>は考えたの。人間の代りに入力するものが存在すればいいのではないか。そして、時代が彼に追いつきつつあった。古代ギリシアで生み出された、天体の動きを観測するための「アンティキトラの円盤」から2000年、巨大な<階差機関>を生み出したバベッジから200年、高度な計算を可能にするコンピューターが<読書卿>の生きる時代にはあった。そして彼は、人間に代わって文章を作り出す人工知能の開発を行った。空想を諷刺したスウィフトに敬意を表して、<文学機関(リテラリ・エンジン)>と名付けたAIプログラムをね」

「作文する人工知能プログラム……」

 それはまた、グーテンベルクから大きく飛躍したものだ。妄想と何を反応させると、そんな巨大な誇大妄想が生まれてくるんだろう。

 しかし、先ほどの短歌の話ではないけれど、そんなことは不可能だ。スウィフトが嘲弄したように、それはやっぱり夢想の産物でしかない。

 詩は、物語は、散文は、単に文字を組み合わせればいい、というものではない。何を書くのか、どう書くのか、どこで切るのか、どこで終えるのか、それこそ無限に近い選択肢がその都度存在し、可能性を数字で表すことは不可能。まして欧米のアルファベットを使った文学ならまだしも、日本語にはひらがな、カタカナ、漢字に加えて、他言語の文字も自在に取り込むという貪欲さがある。

「そんな計算を、いくら高性能なスーパーコンピューターを使ったからといって、実現できるとは思えないね」

「<読書卿>だって、そんなことはわかっているわ。現代の技術でも、例え<驚異の部屋>の技術を使っても、今実現することはできない。でも、未来においてなら、どうなのかしら?」

「未来において?」

「今実現しないものが、将来実現しないとは限らない。

 <読書卿>は、AI<文学機関>を世界中にまき散らした。コンピューターのOSに忍び込ませてね。そうして、人間が作り出す文章を学ばせたの。やがて時代は世界的な蜘蛛の糸、インターネットで結ばれるようになり、<文学機関>は自由自在に糸を伝って様々なコンピューターに入り込んで学習していったわ。その本体がどこにあるのかは追跡しきれていないけれど、どこかの量子コンピューターか、あるいはもう本体と呼ばれるプログラムは存在しないのかも。

 世界中のコンピューターから並列的に情報を入手し、自らの糧として貪欲に進化を続ける<文学機関>。その標的の中心は、日本なの」

 日本が狙われている。

 謎のAIに。

 また笑いがこみ上げてきそうになった。

「それはそれは、光栄な話じゃないか。IT分野での発展は欧米にはなかなか及ばず、今や韓国や中国にも追い抜かれそうな勢いだよ。スーパーコンピューターの分野では世界トップの水準を誇っているようだけど、それもいつまで持つものか。政府にも市民にも、サイバー犯罪のリスクに対する認知度が低く、こんなところでまで平和ボケをする必要もないだろうに、毎日ザルのように情報が吸い出されている。いっそのこと、AIに狙われたほうが目が覚めるんじゃないかな」

「表面上明確な軍事組織を持たない日本では、技術発展のためのベクトルが他の国とは別方向を向いているからある意味しょうがないのだけれど……そういう世俗的なことに<読書卿>も<文学機関>も興味はないわ。あるのはただ、<文章を書く>ことだけ。だから、日本を選んでいるの」

「意味がわからないな。日本を標的にして、そのAIにどんなメリットがあるんだ?」

「さっき先生が言ったじゃない。日本語には、三つの種類の文字、そして他国の言語も吸収する貪欲さがあるって。つまり、文学においてもガラパゴス化しているわけよね。進化するにはもってこいだと思わない?」

「技術や文学にまで進化論が応用されるとは、チャールズ・ダーウィンでも予測できなかったんじゃないかな。しかも、ガラパゴス化はネガティブな言葉だ。ダーウィンにとっては楽園のようなところだったはずなのに」

「そういう感想はいいから。日本のパソコンにおける最大の特徴は何?」

「やたらといらないソフトが入っている?」

「そうじゃないわ。もっと単純なこと」

 単純……日本のパソコンにしか入っていないもの。

 他の国のパソコンには入っていないもの。

 それは……単純に考えれば。

「そう。日本語変換機能(・・・・・・・)。それこそ、<読書卿>と<文学機関>が考える、最大の学びの場なのよ」


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