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(2)

—一九四八年に発行された「禁書目録」の最終版は、一九六一年まで補遺によって継続されてきたが、ようやく一九六六年、ヴァチカン当局は、もうこれ以上は発行しないと宣言するに至った。——

(『グーテンベルクの謎』高宮利行) 



(2)



 <魔書>。

 「『タイニィ・アリスと不機嫌な密室』が、<魔書>?」

 思わず笑いがこみ上げてきた。目の前の可憐な少女の燃やしている妄想は、自分よりもはるかに壮大なものらしい。

 この本が、本とも呼べないような紙の束が<魔書>?

 焚書の対象?

 <禁書目録>?

 友人の劇団のために、一ファンでしかない、関係者ですらない僕が書き、たった三十部しか印刷しなかったこの本が、世に出してはならない<魔書>。

 馬鹿馬鹿しい。

 笑いが通り過ぎていくと、今度はそれが怒りに変わった。ジャケットのポケットから取り出した封筒を握りしめ、アリスに向かって投げつけた。

「あら」

 軽やかに後方にステップしたアリスは、小さな音を立てて床に転がった封筒を拾い上げた。「親展」という赤い印刷、下の方には「国会図書館特殊監察部」という文字が見える。

「なんだか怒っているみたいね、先生。ひょっとして、これも偽物だ、と思っているからかしら?」

 アリスはあくまで楽しげだ。

 その文書は、僕宛に届いた、「国会図書館特殊監察部」による召喚状だった。国立国会図書館に置かれた特殊監察部は、書籍に関する事件が起こった際に検察庁及び警察庁に協力する部署だと書かれていた。「今回、貴殿が所持しているパーソナルコンピュータが深刻なウィルスに感染していることが疑われ、この度国立国会図書館法第二十一条十五項に基づき特別召喚を通知するものです。なお、今回の事件には『劇団魔法九』の劇団員が関与していると疑われ、その検証も含めて調査を行うことになっております……」といった内容で、最後には指定された場所——つまりこの劇場に、PCとプリンタ、最近印刷した書類を持ってくるようにとの行政命令が記されていた。封筒には劇場の鍵が同封されており、三月××日午後十一時に劇場内で待つよう指示されていた。

 どう考えても、怪しさしか存在しない召喚状だった。しかし最近、他人のPCから勝手に犯行声明などを掲示板に書き込む事件が起こっており、僕のPCがひょっとしてその手のウィルスに感染したのではないか、と考えた。

 まさか、とは思いながら、召喚状の中に、友人の主宰する「劇団魔法九」の文字を発見して、なるほどと思い直した。友人達は、劇団員だからというわけではないだろうが、かなり大掛かりないたずらを仕掛けるのが好きだった。恐らくこれは僕に対して仕掛けられたいたずらなのだ。であれば、素人の書いた趣味の小説を、公演中に「公認外伝小説」と銘打ってグッズの一つとして販売してくれた、そのお礼を込めて、引っかからないわけにはいかなかった。

 そして、わざわざ軽くないプリンタまで携えてきたというのに、訪れたのは誇大妄想趣味の少女。

「僕の友達のいたずらは、まだ続いているのか?」

「いたずらなんて、心外ねぇ。ここに書かれている、『国会図書館特殊監察部』というのは、<驚異の部屋>付属<図書館>のことよ。うちの<図書館>、国会図書館と委託契約をしていてね、この国に存在する書類に対する至上優先権と所有権、調査権を有しているの。それが例え、内閣総理大臣が某国との間で結んだ密約のメモであろうと、一市民が愛人に宛てて書いたラブレターであろうとも、私たち<図書館>は誰の許可も必要とせずに手に入れることができるのよ」

「それは……つまり、検閲、ということか」

 まさか。再び笑いがこみ上げてきた。日本国憲法では明確に行政機関による事前検閲は禁止されている。それにこの情報社会で事前検閲が非現実的な代物でしかないことは、少し考えれば誰でもわかる。

「事前検閲なんてしてないわよ。私たちは<図書館>、出力されない文書にどんな意味があるのかしら?でも、事後検閲はしているわ。そうしないと蒐集できないもの。そして、私たちが<魔書>と認めた書物に関しては、その存在を永久に秘匿する権利も持っている。それを執行するのが死蔵課死書係」

 アリスのアルカイックスマイルは、仏像に浮かぶそれとは異なり、どこまでも無慈悲で無機質だった。

「アリス・桃瓔は、この本を<魔書>と認定するわ。これ以後この本は、<図書館>死蔵課にて死蔵され、繊維の一辺さえ外界に出ることはできない。もちろん、誰かに読まれることも、永久にない」

 永久に、読まれない。

 書かれたものが、誰にも読まれることはない。

 そんな不幸があるのか。

「……どんなに愚劣な内容だろうと、悲惨なものだろうと、悪趣味だろうと何だろうと、それは書かれた本の罪ではないはずだ。作者が糾弾されることはあっても、何故作品が罰せられなければならないんだ? 中世以来続くヴァチカンの<禁書目録>ですら、前世紀半ばには破棄されている。一体、君の<図書館>とやらに、書物を裁くどんな権利があるんだ?」

 そして、言論の自由は、出版の自由はどこへ消え失せた。

 作者が何を書こうとも自由ではないか。

「あぁ、そんな大きい声出さなくたって聞こえるわよ。後世に受け継ぐことができない書物を選別するのは<図書館>であって、作者でも出版者でも読者でもないわ。これは、そう決まっているの。それだけ」アリスは目を細めた。「作者の自由はあってもね、書かれた本に自由なんて、そんなものはないのよ、先生」

 怒りで体が熱くなった。流感で倒れるときのように汗がにじみ出て、体が震える。思わず僕は立ち上がった。

「に、人間が『書く自由』を手に入れるために、どれほどの時間を費やしたと思ってるんだ? 文字を与えられず、筆記具もなく、蒙き時代を長く過ごしてきた大多数の人々が、ようやく『書く自由』を手に入れたんだぞ? 今もなお権力は『書く自由』を制限し、より制限しようと手ぐすねを引いている。しかし、それでも人間は書かずにはいられないんだ。書くことは、戦うことだ。世界と戦うための小さな、しかし高潔な力だ。それを、どんな理由で踏みにじるつもりだ?」

「案外熱血漢なのね、先生」アリスは小さく肩をすくめた。「作者に自由はあるって言ってるんだけどね……まぁ確かに、書くことって素晴らしいわよね。その結果であるこの本だって、一つの奇跡だと思うわ。でもそれは、本当に先生が書いたのだとしたら……でしょ? ねえ先生、この本、本当に先生が書いたのかしら?」

 アリスの挑発的な笑みが、僕の足元を揺り動かしたような気がした。ただの言葉に腰が砕かれ、膝が重力に敗北して屈服して、再び堅い椅子に座り込んでしまった。そのまま体が沈んでいくのではないかと錯覚した。目の前の少女の微笑みが、獲物を狙う蛇のように見えて恐ろしかった。

 本当に自分が書いたのか。

 その疑問を……何故目の前の少女が知っている?

「それじゃあ、次の昔話をしましょうか。

 その始まりがどこだったのか、中国だったのか、エジプトだったのかはわかっていないわ。アメリカ大陸ではなかったと思うけど。何しろ、石に刻む以外に何かを書き記す文化がなかったから……それも憶測でしかないけれどね。始まりの一人は、あるとき、書かれたものが不思議な力を持っていることに気づいたの。それを読んだ者に対して明らかに異常な変化をもたらす力、ときには命さえ奪うことのできる力、つまり<魔書>。

 彼は、その原因が何にあるのか調べた。まずは、インクではないのか、インクの持つ何らかの成分が人間に作用しているのではないか。しかし、インクを変えてもその力は衰えなかった。次に、書かれているものに、毒となるようなものがあるのではないかと考えたわ。しかし、それも違っていた。木簡、竹簡、パピルス、それ以外の植物の葉、木の幹、動物の皮、様々なものに書いたところで、やはり謎の力は発揮されたの。

 すると、残りは?

 そう、書く道具、ペンよ。」

 アリスは虚空に何かを書き付けるように手を振った。金髪の房がきらめき、左耳のピアスが怪しく銀色の光を反射していた。

「たまたま見つけた何かをペン先に使用した場合にだけ、その力が発揮されることがわかった。その人物は、ペンを恐ろしいものとして隠した。同じようなペンが他にもなかったとは言い切れないけれど。その後、ペンがどこに行ったかはわかっていない。

 時代は下ってヨーロッパ、暗黒の中世。地中海に広大な版図を得たローマ帝国が没落していくにつれて、分断されたヨーロッパとアラブが再び近づいた。厳格なキリスト教のおかげで、それまで芳醇でさえあったギリシア起源の様々な知識はアラブ世界に逃げ、世界帝国がその威光を失ったおかげで再びヨーロッパに戻ってきたわ。そして、化学と科学と錬金術が華開くことになった。

 名前も伝わっていない一人の錬金術師が、あるペンを手に入れた。彼は、そのペンで書かれた書物に特別な力が宿ることを知った。古代の人物はその力を恐れ封印したけれど、中世の錬金術師は違っていたわ。彼は、様々な方法を使って、そのペンの謎を解き明かそうとしたの。でも、中世の知識では、到底その力は解き明かせなかった。ただ、そのペン先が金属のようなものでできていることと、いくら削れても何故かまた復元されていることがわかっただけ。放浪の錬金術師の手から手へとペンは受け継がれ、その所在はわからなくなった。

 そして、1400年頃、南ドイツの都市マインツで生まれた一人の男が、世界の文学史に確固たる地位と伝説を刻むことになるわ。それこそが、ヨハン・グーテンベルク。偉大なる<活版印刷術の父>」

 グーテンベルク。

 いくら歴史に疎いといっても、本好きを自称するならその名前を知らないはずがなかった。活字を要しないデジタル印刷が出現するまで、世界の<知>を担ってきた発明。貴重で特別だった書物の価値を貶め、一方で世界中に<知>の断片を広げることを可能にした発明。それはまさしく<情報革命>というべき出来事だっただろう。

「フランシス・ベーコンがルネッサンス三大発明として、火薬、羅針盤とともに挙げた活版印刷術は、彼の手によって生まれたと言われているわ。若い頃には金貨鋳造職人として活躍しながら、母方の血筋の問題でギルドに加盟することができず、一方で父は正当な貴族だったために政争に巻き込まれ、鬱屈したままマインツを去る。

 その後、シュトラースブルクに住まいを移したグーテンベルクは、金細工や鏡職人として働きながら、共同出資者達とともに活版印刷の研究を始めたらしいの。後にマインツに戻った彼は、ついに活版印刷——鉛を鋳造した金属活字を並べることで、原稿にあわせたページを作ることを可能とし、機械仕掛けのプレスによって同じページを何枚も印刷することができるようになった——を完成させる。しかしその際、出資者への資金返済が滞り、印刷機と工員を差し押さえられてしまった。失意の中でも出版を続けたらしい彼の晩年の記録は存在しないわ。

 この偉大なるグーテンベルクは、シュトラースブルク時代にある錬金術師と出会い、お互いの知識を交換した。感銘を受けた錬金術師もまた、自らグーテンベルクと名乗ることにした。便宜上、<偽グーテンベルク>と呼びましょうか……彼は、何代も受け継がれた秘密のペンを所持していた。錬金術師であると同時に聖職者でもあった偽グーテンベルクは、当時腐敗し続けていた教会組織に対して闘いを挑もうと思っていた。しかし、武器はといえば、秘密のペンだけ。世界最大の宗教組織に対して、それだけでどうやって闘いを挑めばいいのか。

 そこで、偽グーテンベルクは考えた。秘密のペンで書かれた書物が、特別な力を持つのであれば、その書物が大量にあれば、教会の支配者層に対して一斉に打撃をくわえることができるのではないか。当時の書物は主にラテン語で書かれており、それを読むことができる知識層は限られていた。聖職者にはラテン語の読み書きが必須とされていたから、印刷された珍しい書物であれば、多くの聖職者が目を通すだろう、と考えて、ね。

 そして、そのために彼が身につけたのが活版印刷術。つまり、秘密のペンを金属活字に鋳造し直して、それで本を作ればいい、そう結論づけたのよ。自らが信じる正しい行いを実現するために偽グーテンベルクは、<魔書>を大量印刷することにした」

 アリスは手に持っていた本を投げ返してきた。

 僕が受け取ったそれは、数十枚の紙で構成された、粗末なゴミでしかなかった。

 長く保管されることはないだろう。

 長く愛されることもないだろう。

 誰かの人生に、何かを残すこともないだろう。

 そんなものでしかないのに、<魔書>などという誇張されたレッテルを貼られ、断罪されようとしている。哀れな存在と想いを寄せてもおかしくはない……おかしくはないのに、作者であるはずの僕はどうしても、愛情も憐憫も抱くことができないでいた。

 自分が書いた、という確かな証のない成果物。ある日見知らぬ人物が子供を連れてきて、「あなたの子だ」と突きつけられたことを想像してしまう。驚き、困惑、錯綜、そして……恐怖。人生に唐突に割り込んでくる異物を「魔」と呼ぶのであれば、この本はまさしく<魔書>ではないのか。そう思うと手が震え、直視することさえできなかった。

「秘密のペンは、金属のようなものでできていたけれど、正確には金属ではなかった。でも、長い研鑽の間に、何らかの刺激が加わると体積が増えることはわかっていたので、偽グーテンベルクはペン先を体積を増やしては削り取り、金属活字に組み込んでいったの。ラテン語アルファベットを一揃い作り上げた彼は、短い文章を作って試し刷りをした。本物のグーテンベルクが、世にも美しい「四十二行聖書」を印刷していたであろうその頃、ヨーロッパのどこかで、最初の<魔書>が印刷されるはずだった……んだけれど、どうも失敗したみたいなのよね」

 だんだんとアリスの話を聞いているのが苦痛になってきた。内容が頭に入ってこない。自分の持っている不気味な本を、今にもびりびりに引き裂きたい衝動に駆られた。しかし、できなかった。僕が書いた、僕が生み出してしまった可能性があるものを、どうしても自分の手で壊すことができない。仮に一流の作家であれば、気に入らない作品など切り捨ててゴミ箱に葬ることができるだろうか。しかし、僕は素人なのだ。専業作家でも職業作家でも兼業作家でもない人間が、生活と仕事の隙間を縫って書き上げた、自分にとっては時間と命を注ぎ込んだ結晶なのだ。

 本当に、自分が書いたものなら。

 壊すことなんてできない。

 しかし……本当に僕が書いたのか?

 何度も反復された問いが、頭の中を迷走する。その反響が三半規管を巨大なハンマーで打ちのめし、めまいさえ覚えた。

「もちろん、たった一人でくみ上げた印刷機、一ページを刷ることだって大変だったでしょう。でも問題はそこじゃなかった。

 確かに印刷されたページは原稿の通りだった。しかし、二枚目を印刷して偽グーテンベルクは愕然とした。そこには、奇妙に変形した文字のようなものが印刷されているだけで、到底文章にはなっていなかった。慌てて活字を調べると、金属のように強固だったはずの活字が、様々に変形していることに気づいたわ。

 それからは何度繰り返しても同じだった。一定時間は文字の形が保たれていたけれど、すぐに変形してしまう。大量に文書を刷ろうという彼の計画は頓挫し、失意の中で彼はその印刷機と活字を廃棄することにした。最後に戯れに、活字を刻むこともなく、一枚のページを印刷して。

 そこには、こう記されていたわ。


<エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ>


 『マルコによる福音書』十五章三十五節、『詩篇』に由来する言葉、磔刑に処されるイエスが最後に唱えたとされる言葉。『神よ、神よ、何故に我を棄て給うなり』。それは一つの絶望を表わす言葉であり、偽グーテンベルクが図らずも自らの願いが叶わずして挫折した心境を仮託した言葉でもあったわ。

 そこで、偽グーテンベルクは、驚きながらも同時に恐ろしいことに気づいた。今もし、自分が心に掲げた言葉が、この印刷機によって印刷されてきた、つまり変形した活字によって打ち出されたのだとしたら、この印刷機は、<自動筆記(・・・・)>の能力を秘めているのではないか、と」


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