last scene <夜道>
——みなさんは、どっちだったと思います?——
(“Through the looking-grass and Alice found there” Lewis Carroll)
last scene <夜道>
「……エンドロールは、和製英語だ」反筆はそう言って、タバコに火をつけた。「英語だと、end credits というのが正しいんだろうな」
「特に意味はないよ。思いついた英語を並べただけ。とても証明終了……Quod Erat Demonstrandam、とは言えなかったから」
僕は言い訳をした。
その日はお開きとなり、劇団の面々はそれぞれ帰宅していった。やり切れない思いを抱えての帰宅になったのだろうけれど、それでも、仲間が殺されたという事実より、自ら命を絶ったという事実の方が、いくらか心が軽いのではないだろうか。死に方の軽重を言っているわけじゃない。生きていくものにとっての、心の負担の軽重だ。
黒くそびえる飛鳥山を見ながら、僕たちは何となく明治通を池袋の方へ歩いていた。夜風は冷たく足元から這い上がってくる。死者の手に触れられたようにも思えたが、何故か僕は平気だった。体が熱いくらいで、血の巡りが早く、わき上がる何かをぶつける術が何かないのかと探しているようだった。あんな、探偵の真似事をしたからだろうか。ミステリーの中にしか存在しない探偵を演じたからだろうか。何故こんなにも興奮しているんだろう。
「根居部にとって、あの劇場が自らの命をかけてもいいものだった、というのは何となくわかる。長年あいつを見てきたからな。だが、宮園にとって、根居部がそれほどまでに絶対視されていたとは思わなかった。自殺したと他人に認められたくないから、他殺に見せかけるなんてことを思うほどに」
「小説の世界でならありそうだけれどね」
「ないだろう。動機として地味すぎる」
「地味かな」
「……なあ名探偵」
「勘弁してよ」
反筆は立ち止まり、僕の顔をじっと見た。明らかに疲れている。
「根居部はどうして自殺したんだと思う?」
「だからそれは、劇場が取り壊されてしまうから、それを悲観して」
「だったら、最後の舞台が終わってからでもいいじゃないか」反筆は泣きそうな表情になった。「最後の舞台をちゃんとアリスに見てもらって、それからでもいいだろう?それなのに、何故、あと一日残して死んだ?」
「……いわゆる躁鬱病、双極性障害の人が自殺を選ぶのって、どんなときだと思う?」
「どんなとき?そりゃ、これ以上ないくらいに落ち込んでいるとき、じゃないのか?」
「そうじゃないんだ」僕は頭を振った。「鬱状態で落ちているときは、何もする気がおきないんだ。外に出られない、人と話すのも辛い、烏が鳴くのでさえ自分が悪いせいじゃないのかと思う。楽にはなりたい、けれど自殺をするだけの気力もないんだ。本当に、本当に何もできない。だからこそ、辛い」
「……」
「でも、それが躁状態に入ると、おかしなもので今度は多幸感、万能感がみなぎってくる。何をしていても楽しい、心が満たされる、この世の春だ、エネルギーに満ち満ちてくるんだよ。だからこそ、そのエネルギーで」僕は笑った。「生死の境界をあっさり飛び越える」
「そうなのか」
「根居部さんに躁鬱の症状があったかどうかはわからない。でも、愛した劇場に別れを告げなければならないのは死ぬほど辛かっただろうことはわかるし、それに追い討ちをかけるように君が書いた最後の戯曲『憂鬱の国のアリス』では、自分がどこにもいないアリスを探すチャールズ・ドジソンの役割を振られていたんだ。彼の心はどこまでも重く沈んでいっただろう。それでも、舞台に立たないわけにはいかない。アリスに見せる最後の舞台から、彼が逃げ出すわけがないじゃないか」
「俺の本が、あいつをもっと追いつめたってことはわかっている。お前が言った通りに、あいつは全力で絶望していた」
「でも、それだけじゃないんだ。それだけじゃない。根居部さんは、生き生きとチャールズの役を演じていた。心が乾いていた僕が熱くなるほどの演技だった。それは、彼が、君の戯曲に感動し、興奮し、没入し、演じることの喜びにあふれていたからに他ならない。存在しないものを空しく探し続ける旅、全力で絶望してもなお『次』を探し出さなければならない旅、そうだ、見つけることではなく、探し続けることに意味があるのだ、彼はチャールズを演じることで、君がそこに込めた思いをきっと感じ取っただろう。鬱状態だった彼は、君の本を読んで途方もなく幸福で、その持てる力で絶望とその先にある<世界>をあの空間に生み出し、あの夜の演技はきっと生涯最高の演技であり、そしてだからこそ」
「……」
「だからこそ、生死の境界を飛び越えてしまったんだ」
「……俺の本なんかただの三文芝居だ。それが、あいつを殺したっていうのか?」
「そんなこともあり得る、という可能性の話をしているだけさ。それも、もし彼が双極性障害の気があったら、という仮定の上に成り立っているだけだ。あの劇場の取り壊しか、君の本か、どちらが彼を殺したのか。禅だ、禅問答だよ。手を打って、どちらの手が鳴ったのでしょう、と訊ねているようなものだ。両方があったから、彼は死んだ。どちらも欠けてはいけなかった。いや待て、そもそも今回の戯曲が書かれたのは、劇場が取り壊されるからじゃなかったか?ということは、君もその事実に引きずられていた、ということだ。そう、全てはあの劇場のせいだった。あの劇場があったからこそ、君たちは<アリスもの>を演じ続け、不思議の国か、鏡の国か、憂鬱の国か、どこだかわからないあの劇場から抜け出せなくなっていたんだ。そして、ついに、不機嫌きわまりない女王が密室で彼の首を刎ねた、死んだ者の首を刎ねても生き返りはしない、しかし意味を変えることはできる、自殺を他殺に、生死の境を君の戯曲の力を借りて飛び越えた彼の死さえも支配しようとした彼女こそ……」
僕の肩を、反筆は両手でつかんだ。口からよだれをたらして言葉を続けようとした僕に向かって首を振る。
「もういい。もういいんだ、すまん」
一瞬遅れて頭が冷静になる。名付けようのないエネルギーが自分の中で渦を巻いていて、それをどうにかしなければならないという強迫観念が襲ってきた。何か、何かしなければ。何をする。何をすればいいんだ。
「家まで送る」
「え?大丈夫だよ、一人で帰れるよ」
「送るよ」
「……そうかい?」
暗い顔をして反筆はうなずいた。
「お前は飛び越えるな」
「は……」
僕は笑い飛ばそうとした。何を言ってるんだ君は僕にそんな根性があるわけがないじゃないかただ生きることしかできないんだ僕には何もない彼のようにどこまでも自分を高ぶらせてくれるようなものがないだからただ生きることしかできない次々押し寄せてくる絶望に打ち拉がれてもなお生きることしかできないんだどうして僕には何もないんだそれは僕が探していないからだろうか君たちのように何も探してこなかったからなのかそのおかげで僕は生きているのかそのせいで僕は生きているのかじゃあ僕が死ぬ理由はなんだどこにある僕が死ぬに足るだけの理由がどこにあるというんだそんなもの。
『どこを探したって見つからないじゃないか!』
根居部さんの絶叫が、僕の耳にこだました。
(了)
××××××××××
読み終えたのは何度目だろう。それでも、自信が持てない。
こんな物語の展開を自分が想像したのだろうか。
こんなトリックを自分が思いついたのだろうか。
こんなラストに向かって自分は書いただろうか。
こつこつ、と何かが床を叩く音がした。分を弁えた鼠や蜚蠊にしては大きな音だと思った。しかし、それ以上注意は払わなかった。自分が手にしている、薄っぺらい本とも呼べない本を持ち、見つめ、訝り、必死に思い出そうとしていた。この本に書かれた物語が生まれた瞬間があるとしたら、その時間と空間の交わる一点を。
こつこつ。
階段から聞こえてくる音が耳に入る。
こつこつ。
その音が何故か、楽しげに鳴っているような気がした。
こつこつ。
こつこつこつ。
こつこつこつこつ、がき。
がき?
「んにゃぁぁぁーーー!!!」
甲高い絶叫とともに、何か大きなものが転がり落ちてくる元気な音がした。
視線をやると、階段の下に、両手を前に突き出して土下座をしているような格好の人物がいた。金髪にトレンチコート。描かれるラインからどうやら女性のように思える。ぶるぶると体を震わせて、手を地面につき、勢いよく上半身を起こした。
「痛い!なんだよ、暗すぎるのよちくしょう!調子狂う!これもあいつが下手なシャレを言うからだ!絶対あとでぶん殴ってやる!かっこ良く登場しようと思ったのに、全部台無しじゃない!あ〜もう、せっかくのコートが埃だら……何か通った!うわ、鼠だ、でかい鼠だ!東京にこんな鼠いるの?まさか、ペスト菌運んでないわよねちょっと!勘弁してよね、鼠……何か踏んだ!蜚蠊だ!いやーー!!最悪、マジ最悪!何が御器被りが転じて蜚蠊になりました、だよこの黒いあんちくしょうが!大体字面が最悪よね蜚蠊、虫なのか虫じゃないのかわかりゃしない!あ〜、ったく……はっ」
さんざんわめき散らして立ち上がった女性と目があった。トレンチコートの下には、軍服を悪趣味に変形させたようなジャケットとミニスカートを着ている。足は光沢のある黒いストッキングで覆われ、膝下からの編み上げブーツはかなり高いヒールだった。豊かな金髪を編み込み房にして、顔の両側に垂らしている。太い眉、きつそうにつり上がった目、瞳の色は暗がりでわからないが、灰色のようだ。
「……え〜、やり直し、やり直し。第一印象が大事だから」
突然の闖入者が訳の分からないことを喋り出した。かかわり合いにならないほうがいい、ろくなことにならない、と本能が告げている。体を堅くして立ち上がろうとした。
「あ〜そのままそのまま!座っていなさい!」
女性は右手を拳銃の形にしてこちらを指差した。思わずのけぞる。女性は——少女といってもいい年齢のようだが——腕を突き出したまま、小気味よく床を鳴らして近づいてきた。緑色に塗られたネイルが鼻先に迫る。
「そう、それでいいわ。あなたが作者ね?」
「作者? 僕が? 何の……」
手の中にある本を、目だけ動かして見る。確かに、この本を書いたのは僕だ……いや、その自信は今や揺らいでいるのだが。
すると少女は、素早い動きで本を奪い取り、グロスを塗った唇を笑いの形に歪めて、本を顔の高さに上げた。
「そう、これの作者はあなたね?」
とりあえず、うなずくしかなかった。
少女はさらに、楽しそうに笑った。
「お会いできて光栄だわ。先生、と呼んだ方がいいかしら?」
「先生って……勘弁してくれないか。趣味で小説を書いている人間を、作家や先生と呼ぶべきじゃない」
「あらそう。まぁでも、適当な呼び方がないから、やっぱり先生って呼ぶわ」
響きに揶揄がこもっている。明らかに嫌がらせだとわかって、僕は少しむっとした。
にやにや笑っている少女は、一歩下がって胸を張った。
「自己紹介しないといけないわね。私はアリス、アリス・桃瓔。<驚異の部屋>付属<図書館>死蔵課に所属する死書係。『死』に『書』と書いて『死書係』、文字通り、『書物に死をもたらす』ものよ。先生の書いたこの本に『死んでもらう』ためにやってきたわ」
「……アリス?」
頭の中に、『不思議の国のアリス』のシーンが浮かんだ。白兎を追いかけて、穴に落ちるアリス。その先は奇妙な地下世界で、少女アリスは戸惑いながらも冒険を始める。物語の発端として申し分のない展開。では地下の、「不思議の国」の住人達の気持ちになってみると、突然やってきた少女はどう見えただろう。きっと、訳が分からなくて、脅威を感じ、不気味にすら見えただろう。侵入者は常に、秩序の破壊者だからだ。
この地下の劇場に、アリスと名乗る女性が転がり落ちてきた。これが何かの暗合であれば、誰かが仕組んだことなのか。
<驚異の部屋>とか、死蔵課とか、一体何を喋っているのだろう。日本語であることは確かなようだが(……いや、<脅威の部屋>は、ヨーロッパの言葉か)、意味がわからない。格好も含めて、この子大丈夫だろうか。
突然巻き込まれた状況に戸惑っていると、少女——アリスは高らかに宣言した。
「辛気くさいミステリはここまで、ここからはバトルものライトノベルの時間よ!」